1973年11月 前年まで繰り広げられたマツダ・サバンナ対日産スカイラインGT-Rの死闘が

日産ワークスの活動休止によって幕を下ろした。加えて排気ガス対策によって自動車メーカーによる

モータースポーツ活動が下火になりつつあった。


そんな時代に開催されたレースが富士ツーリストトロフィーレース(富士TT)。

富士TT自体はツーリングカーによる耐久レースとしてそれまでも開催されていたが この1973年はある“出来事”から

当時の日本のモータースポーツファンを大いに熱狂させた。


その“出来事”とはヨーロッパのツーリングカー選手権(ETC)を主戦場としていたフォードのワークスチーム、

「ドイツ・フォード」の来襲だった。

これは近代のファンも良く知るフォードのツーリングカー シエラがグループAで大暴れし始める14年も前の

エピソードだった。

フォードカプリRS2600は 初代カプリをベースにツーリングカーレースの為に仕立てられたホモロゲーションだ。



市販車がレース仕様になるとこの変貌


レーシングカーは さらにこのRS2600をベースにETCなどのグループ2規定に適合するように性能向上が図られている。

エンジンは市販車では車名の通り2.6リッターだが レーシングバージョンでは3.0リッターへとボアアップされ

320PSを発生するユニットに仕立てられている。

その他 サスペンションもフロントがマクファーソンストラット リアがリーフスプリングリジットというカプリ本来の

基本形式を維持しながらも よろ幅広なスリックタイヤの接地性 操縦性を改善する為のチューニングが施されていた。

富士TTにやってくる1973年のシーズンはBMW3.0CSLの台頭によって前年の活躍から一転 苦戦を強いられたが

カプリは車重がBMWよりも200kg以上軽く それでいてパワーもほぼBMWと同等とまだまだ一線級の

戦闘力を誇ったマシンである事に間違いはなかった。

こうしてツーリングカーの本場 欧州での激闘を経ていよいよ富士スピードウェイの舞台へとやってきたフォードカプリ。

レースでは冒頭で記述したような理由もあり 自動車メーカーの参加は無く 一部のサバンナ勢たちとの

争いになりカプリにとっては有利に展開が進むに思われた。しかしカプリ勢に次々と苦難が襲いかかる。

まず車検の段階で持ち込まれた2台のカプリのうち1台が車検をパス出来ないというハプニングが発生。

さらに予選ではサバンナ勢が好走を見せ1台はポールポジションを獲得したものの もう1台は予選4番手に

沈んでしまった。


決勝でも変則ルマン方式が採用されたスタートで1台がフライング。

ピットストップで給油装置がうまく作動しなかったり 慣れない30度バンクの衝撃に耐えられず2台とも

左フロントのバブベアリングに不調をきたすなど多くのトラブルに見舞われた。




最終的に サバンナ勢のなかでも有力視されていたマシンたちが脱落したこともあり カプリは勝利を得る事に成功。

1台はリタイアしたものの 初めての日本のサーキット それも500マイルという長距離戦で本場の底力を

見せ付けたのだった。(Webより)


ワークスは撤退したがGT-Rとして窪寺/久保田選手の手で57勝目となった♯14 APO JAPAN。




石谷/中村選手のHT・GT-R クラス2位 あのパシフィック所属


PMC・S 正谷栄邦選手のHT・GT-R 健闘むなしく圏外


クラス3位




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