ニッサンワークスとして最後の1勝となったレース
1972 9/2 富士GC第3戦 富士インター200マイルレース にて
bP6の都平健二選手がスピンし戦線を離脱した後 ピットイン
それから2周 ピットアウトした16都平HT・GT-Rが28従野RX-3の前に出る、この従野の後ろに16北野。
28従野RX-3は遂にワークスGT-R2台に挟み撃ちのようなカタチになった。
そして16都平HT・GT-Rに走路を塞がれた従野はトップを明け渡す事になる。
この都平の走りに“白・黒旗”が2度にわたり提示される。つまり「スポーツマンシップに反する行為」が有ったというわけだ。
これを続けると最終的には“黒旗”によりピット停止が命じられる。
結局 16都平HT・GT-Rはこの旗から後退、ついで15北野HT・GT-Rも28従野RX-3に抜き返されてしまう。
という展開だった。
後の日産ワークス最後のレース
1972 10/10 ‘72 富士マスターズ250キロ の展開
2周目:
S字切り返しで29片山RX−3 30武智RX−3 15黒沢GT-R が一団で突入したが 全力加速に入っている
状態で 30武智RX−3が一瞬鈍った、すぐ後ろに付けていた15黒沢GT-Rは武智のテールに接触、武智はスピンして
黒沢の行く手を塞ぎ再びぶつかった。黒沢はそのまま立ち上がっていったが武智のRX−3は右ドアをベッコリ 半開きの
ままピットへ。1周遅れで先頭集団に照準を合わせてピットアウト。
3周目:
その間15黒沢GT-Rがトップに浮上、30武智はトップ集団の前に出る。
前には1周遅れの武智が立ちはだかっている。
ヘアピンで30武智RX−3をアウトから抜こうとした15黒沢GT-Rはアウトに寄せられ
後輪をダートに落としながら鮮やかなカウンターで切り抜けるが28従野 32増田に抜かれ3位に後退。
14周までロータリー2台を相手に黒沢GT-Rは抜きつ抜かれつの展開が続いた。
32増田カペラ を抜きS字右カーブを回った15黒沢は切り返し直前で30武智RX−3に右テールを追突され
スピン、30武智は土手に向かってクラッシュ。15黒沢はダートに足を取られコースに戻れずリタイア(18位)となった。
素朴な疑問
この両レースでは日産もマツダも似たようなチーム戦略を取った。
1972 9/2 富士GC第3戦 富士インター200マイルレースでは都平健二選手に走路妨害の注意が出されたのに
1972 10/10 ‘72 富士マスターズ250キロ では何故武智選手に“白・黒”フラッグが一度も出されなかったのだろうか。
しかも11周という長きに渡り 周回遅れがトップ集団でGT-Rを阻む行為。
レース展開を見ていても周回遅れが露骨過ぎるカラみ方
確かに終盤は両陣営 マシンの姿を見れば「ぶつけ合い」が熾烈を極めていたのは確かだ。
うがった見方をすれば 主催者側の意図が透いて見える。
当時はかって当たり前の常勝GT-Rが世間的には憎っくき対象の風潮になっていたような気がする、
横綱 北の海のような感じ
当時の雑誌を見てもそんな論調が目立っている。GT-Rはもう古い 「新鋭ロータリー」と。
良くあるメディアの思考だ。「お約束の さんざん持ち上げておいて 落とす」 今も昔も変わらない。
黒沢選手が後に言っていたように “アレ”がなければ「昭和の名勝負」として伝説になっていたに違いない。
もう1台の長谷見選手は早々にトップ集団から離脱していた、黒沢GT-Rはレース展開やGT-Rの動きを見ていると
まさしく“絶好調”が見て取れる。
逆に言えばマツダ陣営はあのような手段を使わなければ阻止出来ないレベルだったのだろう。
後の武智選手にインタビューにも「あんな事をしてマツダワークスの看板にドロを塗った」的な
叱責はなかったようだ。陣営の気持ちを忖度しての自爆行為だったのだろう。
そして“勝った 勝った”と喜んでいるマツダ陣営の姿は・・・ いやはや なんとも・・・
逆に後世にも遺恨の残るレースとして歴史に刻まれたのが残念でならない。
黒沢選手曰く「勝てたレース」 レースは水物 “たられば”は無い そして絶対は無いが 私もそう思う。
マシン性能では負けても レースでは勝つ、
ドライバーが意のままに操れるトータル性能にはまだ軍配はあったということだろう。
最後のワークスGT-Rが“最高峰”の“R”であったに違いない。