GT-Rもパワーが上がってくるとともにタイヤのサイズ変更も余儀なくされる、同時に当時タイヤの開発も目覚しく
グリップ力もどんどん向上するにつれ 足回りの改善も同様。横幅がワイドになるにつれ空気抵抗との戦い。
箱型であるが為に空気抵抗は大きく あらゆる部分に手を入れなくてはならなかった。ありがちな見てくれ的なものでなく
風洞実験や谷田部での実走実験から緻密なデーターを得 数値に裏づけされたエアロパーツ群は生まれた。
ワークスドライバーによるPGC10の印象
黒沢「最初の4DRボディは決して剛性が高くなく 足回りは良かったけど車体が追いついていない感じでした
当時はタイヤが急激に進化している時代でどんどん入力が高くなっていましたからボディがついていけなかったのも
当然でした」
‘69 5月3日 JAF GP 4DRGT-Rデビュー当時 フロント:6J リア:7J(TOPYスチール)
キャブレター仕様で200ps前後を発揮(中速域にトルクの谷が出ていて苦戦)
同年10月日本GPに向けてルーカス低圧機械式ヒューエルインジェクションに換装
⇒ 220ps前後 トルクの谷解消
‘69 10月10日 日本GP 富士でも2分10秒08をマーク
ワークスS20:ドライサンプ化 燃焼室形状を改善 吸入効率・燃焼効率向上 吸入温度低減
機械式ディストリビューター ⇒ フルトランジスターCDイグナイター
(コンデンサー放電:着火力向上)
操縦性改善の為 フロント:8J リア:10J(マグネシウム鋳造)
このホイル仕様変更の為オーバーフェンダーのワイド化
‘70 1月10日 全日本鈴鹿300キロレース 長谷見昌弘・都平健二号 テールウィング初装着
‘70 5月3日 JAF GP 黒沢選手 2分7秒47を記録
前年の日本GPより2秒半短縮 黒沢・都平の1・2フィニッシュ(ロータリー本格的に参戦)
※このレースではリアウィング装着見送り
ロータリー 2分8秒台
‘70 10月5日 HT・GT-Rモデル発表(ホイルベース:70mm短縮 全高:65mm低くなった)
‘70 11月3日 ‘70富士ツーリストトロフィー500マイル 北野元/長谷見昌弘 優勝
同日 全日本鈴鹿自動車レース大会 高橋国光 優勝
この時点でワークスS20は230+αのレベルに達していた。
‘71年 4DRGT-RからHT・GT-Rに移行 空気抵抗の低減 軽量化 ボディ剛性の向上
2分2秒台 カム改善 250ps前後を発生
‘71 3月 全日本鈴鹿自動車レース(HT・GT-Rレースデビュー)
この時‘66 5月日本GPでR380のエンジンパフォーマンスをワークスS20は上回っていた。
コーナリングスピードを高める為 フロント:8J リア:10.5J 車重:950kgを切った。
HT・GT-Rは空力面 4ドアより8.5%小さく ダウンフォース:18%増えた。
ダウンフォースのバランスはフロントのリフトが大きい事が判明 ⇒ フロントにスポイラーを追加
BSが国内初スリックを開発
‘71 10月 富士マスターズ250キロレース フロント:8.5J リア:11J ⇒ 49勝目
‘71 12月12日富士ツーリストトロフィー500マイルレース 予選 高橋国光:2分00秒4
ワークスGT-R3台:リタイア RX−3に奪われる。 ⇒ 50勝ならず 連勝ストップ
‘72 3月 富士300キロスピードレース 50勝達成 (日本GPに向けた“開発途中”の状態で出走)
マツダワークス出走せず 予選 2分00秒41を記録ポールポジション 悪天候で20周が12周に短縮
当時 記念すべき50勝達成はマツダワークス出走しなかった事もあり まったく話題にもならなかった。
‘72 日本GPは富士逆周り4.3コースに備え ブレーキを強化
フロントにベンチレーテッドディスク リア:ソリッドディスクが試されたが 結局日本GP出走車は
フロント:ガーリング ソリッドディスク 4ポット
車輌規則の改定により ガソリンタンク ⇒ 100Lへ
最終 車重:935kg
72日本GPではドラッグ低減を狙い ボディとの段差を減らしす為ホイルアーチから離れた部分から
盛り上がるカタチのブリスターフェンダーに変更
空気抵抗の低減はGT-Rにとって最後まで大きな課題であった。
(RX−3に比べると全面投影面積が大きいので ストレートでのハンディを負う)
またS20は1.989ccに対し 12Aはレシプロ換算で2.292ccと排気量のハンデがあった。
‘72 4月9日 レースドニッポン ← ブリスターフェンダーGT-R登場
♯31長谷見昌弘車 ドライブシャフトトラブルでリタイア
日産の開発陣はなんとかストレートスピードを上げてロータリーに対抗しようと空気抵抗の低減に努めた。
検証はボディとボンネットの合わせ目 オーバーフェンダーとボディの合わせ目などに 工作上どうしても
生じてしまう隙間や段差にまで至った。
日本GPで採用されたブリスターフェンダーは もはや進化の余地をなくしたGT-Rにとって
ワイド化する高性能タイヤを履うとともに 空気抵抗を少しでも低減しストレートスピードを
上げる為の「最後の手段」であった。ライトカバーの形状も変更(隙間なし)
GT-Rの最後の勝利は72 9月富士インター200マイルレース 52勝目 北野元選手
‘72 10月10日 富士マスターズ250キロレース 黒沢スペシャル仕様 セッティング:標準より1段柔らかいスプリング
予選:1分59秒70 GT-R「有終の美」飾れず
GT-Rデビューから3年5ヶ月 69年5月〜72年10月まで 富士スピードウェイ6kmフルコースにおいて
2分13秒73から1分59秒70まで14秒短縮 エンジンの原型R380をしのぐ性能にまで熟成していた。