特集 検証
1972 10 10 日産ワークスによる最後のエントリー
‘72 富士マスターズ250kmレース
レースの内容にどうしても引っ掛かり すっきりしない。
49連勝まではまずまず順調に勝ち進んできた
それ以降‘71 12 12 富士300kmスピードレースからロータリーの台頭に
すんなりと勝てなくなってきた。
レースは“水モノ”で↑上記のレースでは日産ワークス総倒れ、
セミワークスのGT-Rがそのまま行けば勝てたレースだったが
レース終盤 サストラブルで2位との充分なアドバンテージにも関わらず勝利を逃してしまった。
逆に1972 9 3 富士GC インター200マイルレースでは終始ロータリー勢は優位な
レース展開だったににも関わらず 終盤ヒューエルトラブルで勝利を逃してしまう。
レースの展開もエスカレートして来ていて レース車輌を見てみると
マシンの当て合いでフロントやリアはベッコベコに凹んでいる。
現在のヨーロッパのツーリングカーレースでも 普通に後ろからやサイドからの
プッシングが行われている。
腕が無いからそんな行為が行われているのではなく マシンも腕も拮抗しているからだ。
当事者の黒沢選手 武智選手 片山選手の回顧録が雑誌に載っていたので
それぞれの言い分をココに記しておきます。
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日産ワークスのドライバーは知っているがマツダワークスは良く分からない。
日産のように会社が本腰を入れてレース部門を設けて動いていたが
マツダは片山義美選手に委託してチーム片山として動いているように見える。
(違ったら申し訳ない)
日産ワークス最後のレース時に分かっているマツダワークスドライバー
セミワークスドライバー
武智選手の黄色いサバンナは確かに速かった、メインストレートでスリップに入らずとも
黒沢号を抜き去ったシーンは印象的だった。
しかし黒沢選手もスリップをうまく使いロータリー勢に離される事無くトップグループを形成し
ダンゴ状態で30度バンクへ・・・
しかし30度バンクから最終コーナーまでの間はGT-Rの速さが目立ち
トップを奪い返す この展開が続く。
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=あのレースを振り返る=
当事者や周りの人の証言
晩年雑誌による武智俊憲選手インタビュー
‘72 10月10日 富士マスターズ250km スーパーツーリング・チャンピオンレース を終えてワークスドライバー“ガンさん”黒沢元治が語る。
「このレースは最初からロータリー勢に勝てない、このレースを最後にGT‐Rは引退すると言われてました。最初、武智はトップの従野を逃がそうと 僕をブロックしていました。2周目 S字の切り返しで武智を押してしまって彼がスピンしたんです。マツダにすれば故意に当てられたと思ったかもしれません。戦う前の話と逆でレース中 僕はGT‐Rに勝機はあると思っていました。いや 完全に勝てたレースなんです。そう確信していました。ロータリー勢と抜きつ抜かれつを繰り返していました。ピットエンドで抜かれてスリップストリームに入ってS字入り口ではロータリー勢はブレーキングが早いから スポンと前に出られます。もう勝てると思っていた時、彼はノーブレーキで入ってきてぶつかりました。あの時はショックでしたね。初めての経験ですが若気の至りでマシンから降りていって激しく抗議しました。観客はS字でボクが抜くシーンを繰り返し見ていましたから ボクの応援をしてくれていました。これがワークスGT‐Rの最後のレースになりました。」
のちに黒沢が雑誌のインタビューに答えて
日産チームの中では このレースを最後にGT-Rでのレースはやめようと言う事になっていたんだ。ロータリー勢がのしてきていて GT-Rではもう勝てないというのが見えてきていたからね。いやホントはこのレースだって出るのは止めようという声が多かった。だけど古平メカから「もう1回だけやらせてくれ」と言う熱烈な要望が出て、じゃあやろうか、ってね。出るからにはしっかり走ろうと言う事で 富士で事前テストをやった、足回りの見直しだ。マツダのドライバーは片山はまあまあだけど、それ以外はアマチュア並みと思っていた。そして迎えたGT-R最後のレース、オレは武智にぶつけられてその日を終えた。昔のワークスドライバーはそんなにたくさん給料を貰っていた訳じゃないのに チームの為に結構無茶な事をしでかすヤツがいたけど この時の武智がそうだったのかもしれない。周回遅れの武智が命がけで体当たりしてきて それは危険なクラッシュだった。だからコースアウトした後 オレはクルマを降りて武智をぶん殴った。すると武智は逃げたよ。そしたら観客が「武智をやっちまえ!」と騒いだんだ。険悪な空気が流れたね。オレの記憶では この日のスカイラインを応援しているお客さんの方が圧倒的に多かったように思う。そんな中で武智が当てたものだから観客だって熱くなるのも無理も無い。そのとき以来武智とは一度も会っていない。人づてに聞いたんだが 武智は最近オレに会いたいと言っているようだ。でも「ガンさんは怖い人だからやっぱり会うのやめとくか」なんて葛藤しているらしい。オレ?怒っているだの とっちめてやるなんて気はもう全然ないよ。
クラッシュ後 観客が黒沢の味方に付いたのは抜きつ抜かれつの手に汗握る好レースで観客が釘付けになっていたところ 一番落胆する卑劣な方法で黒沢を仕留めたやり方が怒りを買ったのではないかと思う、公平なジャッジは観客の反応であろうと思う。
どうしても納得できないレース主催側の対応
1972 9月2日 富士GC第3戦 富士インター200マイルレースで周回遅れの都平選手に再三“白・黒旗”を出しながら このレースで同じ周回遅れの武智選手には“白・黒旗”が出されなかったのはどうゆう事だろう、レース運営側の不公平さがぬぐえない。トップ争いの集団の中に周回遅れが絡んでいる 条件はまったく同じ。もし武智選手に“白・黒旗”が出ていれば 明らかに黒沢選手がレースを制していた展開だった。(たらればは無し前提で)
注)“白・黒旗”は「スポーツマンシップに反する行為」と言う事で、これを続けると最終的には“黒旗”によりピット停止が命じられる。 |
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スタートから善戦するもリタイヤした片山選手から見たレース
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片山選手の証言では「鈴鹿ではGT-Rに勝てない」と言うのが当事者の真実の言葉だろう。
所謂“直線番長”
足回りの性能がどれだけ違ったか分かる。
また雨のレースではロータリーの車体の軽さが逆に仇となったようだ。
逆に富士4.3km逆周りではGT-Rが不利
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=総評=
あのような終わり方で逆に「余裕は無いがGT-Rはまだまだいける」と言う印象を受けた。
噂ではコレが日産ワークス最後のレースになるとマツダ陣営は分かっていたので
真っ向勝負で白黒つけるにはコレがラストチャンス。
司令塔片山選手を失い 武智選手も客観的にチーム員の技量も分析していて
「このままでは負けてしまう」と思ったと証言されており 何が何でもマツダを勝利に導きたかった、
あのレース展開では黒沢選手が頭に立てばそのまま逃げられてしまう 焦りによる若さ故の苦肉の策だった。
あの暴挙はともかく 武智選手は状況を冷静に判断していたようだ。
フェアープレイでレースが進み チェッカーを受けた時GT-Rが完全に入賞圏内にも
入らなかったとすれば「GT-R完敗」と言えるだろう。
クラッシュまでは黒沢号が優位に立っていた展開だけに逃げ切ったかもしれない。
片山選手も武人のような方で 自分の手ではっきり勝負をつけたかった事だろう。
またどんな方法でも勝てばよいという人でもないと思う。
もし黒沢VS片山が実現したならば 間違いなく「昭和の名勝負」になったに違いない。
GT-Rデビュー戦のようにすっきりした勝利ではなく
マツダにとっても完全にGT-Rを下したと言えない勝利だっただろう。
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=END=