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WebにあったKPGC110R記事
1970年6月8日 日産が突如 ‘70日本グランプリ不参加を表明 (実質R383開発中止)
10月10日のグランプリレースに出場しない事を発表。その理由は
@公害安全問題が重大な問題になってきてレーシングカーの製作に技術力を裂くことが出来なくなった Aその開発による一般のフィードバックがその目的を達成した
Bメーカーの対決はプライベートの勝てるチャンスを少なくしているという批判に答える。
この突如の発表の動揺は大きくトヨタも同じく不出場を決定する。
1970年6月に日産は当時社会問題になっていたクルマによる大気汚染を重大に受け止め
レース活動の自粛を打ち出した。(実質‘70日本GPの不参加表明 R383開発中止)
この頃から日産はワークス活動は縮小の方向に向いていった。
R38シリーズを主力に開発していたが中止、前座的な立ち位置づけのツーリングカーに移行。
KPGC10Rの幕引きが丁度タイミング的に重なった。
青地さんが述べられているようにケンメリが発表になり いつまでも旧型でレースを
するわけにいかなかった。
KPGC110を持ち上げようと記事の文章に苦労の跡が見られるが事実を歪めてはならない。
1968年10月GT-R登場以来 1972年10月までのまる4年充分な成果を挙げた。
「もう勝てないから止める」的な言い回しは誠に失礼な話。
どんな世界でもいずれチャンピオンは陥落する時は来るものです。
忘れてはならないのが‘72に入りKPGC10Rがロータリーに苦戦苦戦と言われているが
ロータリーはレギュレーションの排気量で言えば一クラス上だからね
そう考えると互角な戦いは充分な健闘ではないだろうか。
※このHPでは何度も書いたが 日産ワークス最後のレース
クラス上のロータリー数台を相手に 実質黒沢選手1台で立ち向かった。
武智選手「このままでは勝てない」と焦りあの暴挙に出た。
日産ワークス最後のレースだけにどうしても勝ちを譲るわけにいかなかった。
有終の美を飾れたレースだっただけにレース展開を見ればGT-Rの戦闘力が高かったかが伺える。
レストアされたKPGC110Rはなぜ元祖のイメージカーの色と違うのだろう。
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