=ハコスカは最期まで”男らしい”戦いぶりだった=
レースでの戦いは当初トヨタとの戦いで マツダロータリーへと移行されていった、最期の方になると各誌面には”王者スカイライン
ロータリーに歯たたず!”の文字が踊る。登りつめたら いつかは落ちる時が来るのは仕方がない事だが その戦いぶりは
”王者”の名にふさわしいものだったと思います。
ファミリアロータリークーペ時代はエンジン10Aで規定により491cc×2ローター×2倍換算で1.964cc 対するハコスカは
1.989ccで同じクラスで戦っていたが車重はハコスカの方が重く 軽量のリミットも10%未満と限定されていた為 数値で
見る限り断然ロータリー有利であった。直線でロータリーが先行し コーナーでハコスカが抜き返すというレース展開が定番と
なったが日産は編隊を形成しロータリーの行く手をチームワークで阻止した。この時点では1周走るのにもトータルでハコスカに
分があった。その後カペラロータリー、RX‐3に12Aを搭載して来た 573cc×2ローター×2倍換算で2.292ccでクラスとしては
1クラス上である。日産としては240Zと戦わせるべきところ 過去のレース活動の戦跡の中でこの挑戦から逃げなかった。
あくまでも”王者スカイライン”のプライドを掛けて総合優勝を狙ったのです。排気量も上、車重は軽い あとは引き続き開発の
追求とワークスドライバーの腕に委ね 活路を見出した。そんな中良く善戦したと思います。レース展開では当初のハコスカと
逆でロータリー勢が先行、陣を組みハコスカをブロックする展開に終始された。映像を見ても分ると思う、ハコスカ1台に
数台のロータリーが取り囲み潰す それも激しい当たり合いが展開された。今まで日産ワークスでもここまで露骨な事は
無かった。しかし 日産ワークス陣は受けて立った、立派である。
PS.日産系から出ている資料もほとんど出尽くして 逆にロータリー側がハコスカを負かした と言う資料がマツダ側に
必ずあると思い探しているがそれがほとんど見当たらない。日産は広報映像などたくさんあるのにマツダは作っていない
ようだ。何故だろう・・・ 後年ルマンを制した唯一の国産車のみである。それに”あのハコスカを負かした”RX‐3が
後年 意外とハコスカほど賞賛されていないのと 中古車としてあまり見ないし台数が少ないのは何故だろう。
GT‐R 57勝 中
・久保田洋史 13勝 (プライベーター セミワークス)
GT‐Rの連勝記録樹立 最大の立役者はワークスドライバーではなくプライベーターである久保田洋史選手であることは一般的
には広く知られていない。賞賛すべきは久保田選手であり、その当時の話を伺ってみたい。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
久保田 洋史(くぼた ひろし、1949年 - )は、元日産自動車の自動車クラブのひとつPMC・Sに所属していたアマチュアドライバーで、スカイライン2000GT-R57勝のうちワークスドライバーをも凌ぐ最多の13勝を挙げた人物である。
経歴 1969年にスカイライン2000GT-Rでデビュー。すぐに頭角を現し、プライベートGT-Rの中では常に1位、2位を争うようになる。
1970年5月の「全日本鈴鹿1000キロレース」では、70年当時のGT-Rプライベーターの雄、箕輪眞治と組み、レース終盤までトヨタワークス高橋晴邦/高橋利昭組のマークIIGSSとつばぜり合い、見事下して総合2位、クラス優勝を果たしている。
1971年からはマツダのロータリー軍団との争いが激化したことに伴って大きなレースにも出る機会が増え、同年9月4日の「富士GCシリーズ富士インター200マイルレース」においてワークスGT-R2台(このときのドライバーは北野元と長谷見昌弘という腕利きのドライバーであったが、プライベートユーザーに花を持たせようというワークス側の配慮によって、あえてペースを落としたものと見られる)を従えての優勝を飾っている。又この年には、「レース・ド・ニッポン6時間」や「全日本鈴鹿1000キロレース」、「富士1000キロレース」といった耐久レースに、ニッサン大森ワークスドライバー田村三夫や鈴木誠一をコ・ドライバーとして組み自車で戦っている。
1972年10月のレースを最後にワークスGT-Rが撤退した後もGT-Rでレースに出場し続け、1973年7月の「全日本富士1000Kmレース」では正谷栄邦と組んで5位入賞を獲得している(クラス優勝)。当時の当レースを紹介した雑誌記事には、「レース中盤雨脚が強くなり、二台の日産車が躍進した。一台はワークスで唯一生き残っている歳森康師の240Z、そしてもう一台は久保田洋史が駆るオールド・スカイラインGT-Rだ。二台はトップを大幅に上回るペースで狂ったように走り回った。特に久保田のGT-Rはストレートで左右に振られながらも独特の甲高いエグゾーストノートを撒き散らしながら他車をごぼう抜きして行く様は印象的であった。久保田は歳森の240Zをも抜き去り、全盛を過ぎたGT-Rを猛雨の中に復活させた。」と記されている(久保田自身も、当レースは思い出深い一戦であったと後に語っている)。この時の車両が現存しており、あるスカイライン愛好家がレストアして実走行可能な状態で保存している。
又、同年10月10日開催の「富士GCシリーズ富士マスターズ250`レース」では、サニーエクセレントを駆り、トヨタワークスが誇るテクニシャン蟹江光正及び久木留博之のセリカ1600GTを撃破しクラス優勝を果たした。久保田最後のGT-R出場レースは窪寺泰昌と組みクラス優勝(総合6位)した、同年11月に行われた「富士ツーリストトロフィーパンナム500マイルレース」。引退レースの「'74富士ツーリング・チャンピオン・レース」(1974年3月)では、サニーエクセレントにて優勝を飾った。
エピソード 一貫してといっても過言で無いほど、GT-Rでレースに出場している(但し1973年からは自分のGT-Rを手放したのか、他のGT-Rオーナーのコ・ドライバーとして耐久レースに出場することが多かった。また、数戦ほどであるが、ニッサンサニー1200GXやサニーエクセレント、FL500などでもレースに出場しており、結果を残している)。 1971年頃から、同じプライベートGT-Rの杉崎直司と共にブリヂストンのレーシングタイヤの開発を行っていた。又、当時ニッサンワークスの一員だった黒沢元治もBSタイヤ開発の一員に加わっており、久保田のGT-Rでタイヤテストを行った。その時に黒沢よりレーシングテクニックやメカニズム、マシンセッティング方法等を教わり、めきめきと実力を上げた。 GT-Rの50連勝をかけた1971年12月の「第6回富士ツーリスト・トロフィーレース」で日産、マツダともに次々とワークスマシンがリタイヤしていく中、プライベートGT-R対プライベートサバンナとの一騎打ちになったが、最後の最後でGT-Rがトラブルに見舞われ、惜しくも50連勝の記録を逃した。このときのプライベートGT-Rが彼と杉崎のコンビだった。 1972年11月3日に行われた「第7回富士ツーリスト・トロフィーレース」では、コ・ドライバーとして「Z使い」で有名なSCCNの柳田春人を招きGT-Rで出場しているのは大変珍しく、面白い。 GT-Rプライベーターの中でも頭角を現した久保田は、ワークスからも認められるようになる。実際日本グランプリ等ではワークスよりエンジンやマシンを提供されることもあった。ニッサンワークス入りの噂もあったが、家業の都合により惜しまれつつもレース界から引退した。
・正谷 栄邦
正谷 栄邦 (まさたに よしくに、1944年 - )は、元日産の自動車クラブのひとつPMC・Sに所属していたアマチュアドライバーで、スカイライン2000GT-R57勝(諸説あり)のうち2勝(42、56勝目)を挙げた。
経歴 1969年、スカイライン2000GT-Bでデビュー。しかし競争力に欠け、翌70年シーズンからは一時レース活動を止めることになった千代間由親(67年〜69年、71年〜73年までレース活動を行っていたPMC・S所属のアマチュアドライバーで、GT-Rでは2勝を挙げた)からGT-Rを譲り受け、レースに出場するようになる。同年5月の「70JAFグランプリ」では大クラッシュ(マシンの後半部分が完全に大破するほどのひどいクラッシュだった)を演じ、その後ワークスがセダンから2ドアのハードトップに替えたのを期に、セダンをハードトップに作り変えて参戦を続け、71年の富士フレッシュマンレースで優勝、73年の全日本富士1000kmレースで5位入賞の成績を残した。
エピソード 彼が所有していたGT-Rは、その後数人のオーナーを経て現在も大切に保存されている。(カラーリングは73年全日本富士1000kmレース当時のまま)
・窪寺 泰昌
・高橋国光 9勝 (ワークス)
高橋 国光(たかはし くにみつ、1940年1月29日 - )は、日本の元レーシングライダー、元レーシングドライバー。東京都北多摩郡小金井町(現:小金井市)出身。血液型:B型。愛称は国さん。
二輪・四輪合わせて489レースに出場、通算71勝を挙げており、日本のモータースポーツの世界では生きる伝説といっていい存在。
華麗なドリフト走法で知られ、黒沢元治に代表されるグリップ走法派のドライバーが台頭した後も、レースでドリフトを多用したことで知られる。そのためドリキン(ドリフト・キング)こと土屋圭市達から、師匠的な扱いを受けている。とはいえマシンやタイヤの進化に合わせ、高橋も以前ほど派手なドリフトは見せなくなった。なお一部で「日本におけるドリフトは高橋国光が元祖」などという説が流布されているようだが、高橋が四輪レースに転向する以前から、日本のトップドライバー達はドリフト走行を行っていたことに注意。
1999年に59歳で現役を引退。2000年以降は、自らのレーシングチームであるチーム国光の監督を務める。以前はSUPER GTを運営するGTアソシエイションの会長も務めていた。
経歴 1958年、2輪の第1回全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)クラスにBSAで出場し、セニア(350cc超)クラスを上回る平均速度で優勝。1959年の第2回全日本クラブマンレースのセニアクラスにBSAで出場し、BMWに乗る伊藤史朗に続いて2位を獲得。10代の若さで日本を代表するライダーの一人になる。
これをきっかけにホンダのワークスライダーとなり、1960年からロードレース世界選手権(世界GP)に出場。
1961年には西ドイツGP(当時)の250ccクラスで、日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げる。当時開園したばかりの多摩テックの初代所長も拝命する(ただし実務は行わない名誉職)。
1962年は世界GPの125ccクラスで初戦と2戦で連勝と波に乗る。第3戦であるマン島TTレースでも好調を持続していたが、決勝をスタートして間もなく激しく転倒。意識不明の重体に陥り、一時は生命も危ぶまれるほどの状態だった。高橋は事故前後の記憶がないほどだというが、「誰も全開にできないようなコーナーを予選で全開で走れた。世界チャンピオンクラスのライバルから危ないと心配されたのが逆に嬉しくて、マシンも身体も暖まっていない1周目から全開にしたのがいけなかった」と反省している。マン島での事故の後、2輪ライダーとしては以前ほどの速さを取り戻すことはできなかった。
1964年、ホンダワークスの先輩格である田中健二郎に導かれる形で、同僚の北野元と共に四輪に転向。日産のワークスチームである追浜ワークスに加入する。R380などのプロトタイプマシンから、市販車改造マシンまで幅広く乗りこなした。C10型・愛称「箱スカ」スカイラインGT-Rが50勝の記録を達成した時のドライバーでもある。北野元、黒沢元治と並び「追浜ワークス三羽ガラス」と呼ばれ、名実共に日本のトップドライバーと目されていた。
1973年の第1次オイルショックでワークスチームの活動が縮小された後は、富士グランドチャンピオンレース(富士GC)、全日本F2選手権・全日本F3000選手権などで活躍。1977年には、F1日本GPにスポット参戦したこともある。
'70年代後半までは長らく「無冠の帝王」と呼ばれていた。日本グランプリなどのビッグレースでたびたびポールポジションを獲得し、実力ナンバーワンと目されながら、決勝ではマシントラブルなどでなかなか優勝できなかったためである。特に1967年の第4回日本グランプリで日産R380に乗り、生沢徹のポルシェ・カレラ6を徹底的に追い詰めながら、生沢のスピンに巻き込まれて優勝を逃したことは有名(優勝した生沢より追い上げる高橋の方が明らかに速かった)。しかし1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(カテゴリーはF2)で、F1ドライバーのリカルド・パトレーゼらと競り合った末に優勝。実に38歳にしてビッグタイトルを獲得する。
1983年以降は全日本耐久選手権に活躍の場を移し、ポルシェ956・962Cなどで活躍。ル・マン24時間レースにも参戦したが、結果は良くなかった。
後年はチーム国光を立ち上げ、全日本ツーリングカー選手権(グループA)では土屋圭市と組みR32スカイラインGT-Rで活躍した。また全日本GT選手権では飯田章と組んでRAYBRIG NSXを駆り、通算2勝を挙げた。
1995年にはル・マン24時間レースで土屋圭市、飯田章と組みホンダ・NSXで参戦、GT2クラス優勝を果たす。
1999年にレーシングドライバーとしての引退を表明し一線を退いたが、その後もセパンサーキットで行われる12時間耐久レースに参戦するなど、ドライバーとしての活動は継続している。
近況 レーシングドライバー引退後もチーム国光の監督としてRAYBRIG NSXで全日本GT選手権、SUPER GTに参戦。2005年ツインリンクもてぎで現役引退以来6年ぶりの優勝を監督として果たした。
1998年にはツインリンクもてぎで開催された第1回もて耐(2輪のアマチュアレース)に長谷見昌弘、飯田章と組んで出場し、往年の世界GPライダーの腕を披露。各種イベントで2輪と4輪のヒストリックマシンを走らせている。
・黒沢元治 7勝 (ワークス)
黒澤 元治(くろさわ もとはる、1940年8月6日 - )は、茨城県日立市出身の自動車評論家である。1960年代から1970年代に掛けて活躍したレーシングドライバーでもある。ニックネームは、ガンさん。
来歴 ホンダ系チームで2輪ライダーとして活動。1962年に開催された鈴鹿サーキットのオープニングレース(第1回全日本選手権ロードレース)の50ccクラスで優勝するなど(つまり鈴鹿サーキットで最初の優勝者)、国内2輪レースで数多くの好成績を収める。
1965年に日産自動車と契約し、4輪に転向。日産内の二軍的存在である大森ワークスに所属。ただし2年間ほどは、大森ワークスのリーダーだった鈴木誠一のチーム城北ライダースに所属する形で、2輪モトクロスなどに並行して出場する。
速さとマシンのセッティング能力が評価され、1968年に日産の一軍である追浜ワークスに昇格。1969年の日本グランプリに日産R382で出場し優勝。高橋国光、北野元と並び「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーになる。
日産ワークスドライバーとしてスカイラインGT-Rなどで活躍するが、1973年に日産ワークスを離脱し、プライベートチームであるヒーローズレーシングに所属。富士グランドチャンピオンレースで連続してポールポジションを獲得し、日本グランプリで優勝するなど、圧倒的な速さと強さを見せる。
1974年には自らのチームとしてクロサワ・エンタープライズを設立し、チームオーナー兼ドライバーとしてレースに出場する。
しかし1974年6月2日に富士スピードウェイで起きた大事故(多重クラッシュでドライバーが2人死亡した)の原因を作ったとして、レース関係者から糾弾されることになる。黒澤はJAFに競技ライセンスを返上し、一時現役を去った。1975年にレースに復帰するものの、かつてほどの速さや強さを示すことはできず、レースの第一線からは退いた。
以後はレース活動と平行して従事したブリヂストンの市販スポーツタイヤの開発テスターのほうに情熱を傾けた。同社のタイヤが1980年代にポルシェに正式採用されるなど世界ブランドとして認知されたのは、黒澤の開発能力があったからと評価されている。
同時期、モータージャーナリスト活動も始める。友人である作家・五木寛之の薦めだったという。その理論的かつ的確な表現は、それまで曖昧模糊とした表現が横行していた自動車の試乗記などに一石を投じた。「ステアリング・インフォメーション」などの言葉は黒澤が語り出したものである。
・長谷見昌弘 5勝 (ワークス)
長谷見 昌弘(はせみ まさひろ、1945年11月13日 - )は、日本のレーシングドライバー。現在は有限会社ハセミモータースポーツ代表。東京都青梅市出身。東京都立八王子工業高等学校卒業。
略歴 15才のときに全日本モトクロスレースへ参戦しレースデビューする。同時期に2輪レース活動を行っていた生沢徹(当時大学生)は、「高校生のガキ」(長谷見のこと)にあっさり抜かれたことでショックを受け、2輪に見切りを付けて4輪に転向したという話もある。
1964年四輪レーシングドライバーとなり日産・大森ワークスに所属、デビュー戦を勝利で飾る。その後は日産を離れフリー(タキ・レーシング所属)になったこともあるが、後に日産・追浜ワークスに復帰しており、基本的には日産系ドライバーと見なされている。1970年代から1990年代にかけて、長く日本のトップドライバーとして活躍を続けた。
1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンにコジマからスポット参戦。予選1回目で4位となり、F1にレギュラー出場している海外トップチームを驚愕させた。2回目セッションでポールポジションを狙って乾坤一擲のアタックを試みるが、惜しくも最終コーナでコースアウト、クラッシュを喫してしまう。原因はサスペンショントラブルだった。マシンはほぼ全損といっていい状況であったが、コジマのスタッフだけではなく他チームの関係者もボランティアでマシン修復を手伝い、驚くことに決勝レースまでには走れる状態に再生してしまった。しかし急ごしらえのマシンだけに事故前のコンディションには程遠く、10番グリッドからスタートしたレースでは、完走を果たしたが、7周遅れの11位にとどまった。
1980年に国内レース史上初の4冠を達成(富士GC、全日本F2、鈴鹿F2、フォーミュラ・パシフィック)。1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。
2000年いっぱいでレーシングドライバーを引退。その後はハセミモータースポーツの代表・監督として全日本GT選手権→SUPER GTなどに参戦している。
4輪レース引退後も、プライベートで2輪エンデューロやラリーへの参戦を続けている。50代の時期、若いライダーも普通に参加する本格的2輪エンデューロレースで優勝を果たし、関係者の間で話題になったこともあった。
引退の理由は「日産が新型のレーシングカーを供給してくれなくなったから[1]。日産にとって僕は必要ではないと思われたんでしょう」と語っていた。実際、四輪転向から引退まで(フォーミュラカー路線を除けば)基本的に日産一筋であった星野と比べると、長谷見は1996年に全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にエッチ・ケー・エスからオペル・ベクトラを駆って参戦するなど、日産ワークスを離れての活動も目立っていた。このことから、当時の日産の中で長谷見は星野よりも優先度が低い扱いだったという見方をされる場合もある。
スカイラインとの関わり 長谷見は(幻のマシンとなった)日産・R383の開発要員としてタキ・レーシングから日産へ戻ったが、公害対策などの社会的要因にて開発が中止されるとスカイラインGT-R(KPGC10型)によるレース活動に参加。数々のレースにて活躍をする。
日産がワークス活動を停止した時期もプライベーターとして、ハセミモータースポーツとして活動を続けていたが、「レースで走るスカイラインが見たい」との思いをプリンス自販(当時)の社員から聞いた長谷見は、プリンス自販の社員に一枚1000円程度の「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN・PDC)」のステッカーを購入してもらうことでレース活動の資金を得て、追浜の研究所から当時PA10型バイオレットのグループ5仕様車に搭載されていたLZ20Bエンジンをレンタルしてもらって、シャシー設計は東京R&Dに依頼してスカイラインのグループ5仕様を作る計画を立てたところ、追浜研究所の予想以上の支援が得られた結果、日産ワークスとして活動することになる。
ただし紆余曲折を経て、結局国内用のマシンは追浜ではなく大森ワークスが管轄することになり、同時に車両製作はノバエンジニアリング、デザインは由良拓也が行う形に体制も変更された。このとき「スカイラインだけじゃだめだ」との本社の意向で、同時にシルビア(S110型)、ブルーバード(910型)のグループ5仕様車も製作することになり、ここに「日産スーパーシルエット軍団」が形成されることになった。ところがスカイラインはデビューが一番遅くなり、1982年5月に筑波サーキットでのレースでデビューしたものの、初陣はリタイヤという成績で幕を閉じた。しかし次戦・富士スピードウェイでのレースでは優勝を飾った。
この時の模様が長谷見は印象深かったようで「スカイラインが最終コーナーを立ち上がるとね、お客さんが総立ちになってるんですよ。あれを見たら、ああスカイラインで走ってよかったなぁって思いましたね。」と語っている。以降もスカイラインがレース活動をする際は必ずステアリングを握ってきたことから「スカイライン=長谷見昌弘」とイメージする人も少なくない。
一方で追浜と東京R&Dでは海外遠征用のマシンを仕立てることになり、こちらは結局グループ5ではなくグループCのマシンである日産・スカイラインターボCとなって結実した。後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)における日産ワークスの系譜の端緒を飾るマシンである。
ちなみに、長谷見が一番好きなスカイラインは「ハコスカのGT-Rのレース仕様車」とのことで、「弱オーバーで乗りやすくて楽しいクルマでしたよ」と常々語っている。
トミー 玩具メーカーのトミー(現:タカラトミー)は長年に亘る長谷見のスポンサーであり、長谷見の乗るマシンには“トミカ(TOMICA)”のロゴが必ずと言っていいほど見られた。 「長谷見とトミカ」は、「星野一義とカルソニック」「中嶋悟とエプソン・PIAA」と同じく長年のパートナーとして広く認識されている。なお、長谷見とトミーとの関係は、星野・中嶋のそれぞれの関係よりも長期間に及ぶものである。
元々はモータースポーツ好きのトミー社員が長谷見の走りに魅せられたことが始まりで、トミー側から持ちかけたスポンサードであったという。現在もハセミモータースポーツの主要スポンサーの1社として名を連ねている。また、これまで長谷見が乗ったマシンやハセミモータースポーツのマシンのほとんどをトミカで製品化されているのも大きな特徴である。2008年には関連会社のトミーテックからトミカ・スカイラインの1/24モデルが発売になるなど、現在もその動きは続いている。
2001年シーズンの全日本GT選手権において、同じ日産系チームである星野のホシノインパルはスカイラインGT-Rの供給を受けGT500クラスに継続参戦できたのに対し、ハセミモータースポーツはGT-Rの供給を受けられず、GT300クラスへのステップダウンを余儀なくされた。
・北野元
北野 元(きたの もと、1941年1月1日 - )は、京都府京都市出身。元ホンダワークス所属の世界GPライダー、元レーシングドライバーで、かつて日産自動車追浜ワークスの三羽ガラスと呼ばれたうちのひとりである。
2007年11月現在、二輪用のタイヤを扱うタイヤショップウルフ・モトを経営。ツインリンクもてぎ内の博物館ホンダコレクションホールに動態保存されている多くの2輪・4輪のレース用マシンを、イベントなどで走らせるドライバー役も務める。愛称北さん。血液型O型。
経歴 19594月に大阪の信太山で開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビューし、オープンレースでいきなりの優勝を飾る。同年8月の第2回全日本クラブマンレース(アマチュアが対象)に出場。市販モデルのホンダベンリイスーパースポーツCB92で125ccクラスに、市販レーサーであるドリームスーパースポーツCR71で250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。同レースと併催だった第3回浅間火山レース(ワークスチームが対象)125ccクラスにも招待され、市販マシンCB92でホンダのワークス勢を抑えての優勝を果たす(1レースで3勝)。浅間火山レースの250ccクラスにも招待されていたが、このレースには出走していない。125ccに続き250ccクラスでもホンダワークスが負けては困ると、ホンダから北野に対し出場を控えるよう要請があったのではないか・・・という説もある(CR71は名目上は市販車だが事実上ホンダ系チームだけに貸与されていた)。
これらの活躍で一躍注目の的となり、翌1960年にホンダワークスに加入。弱冠19歳で世界最高峰の難レースと言われたマン島TTに出場したのを始め、ロードレース世界選手権に出場し活躍することになる。同じホンダの高橋国光や、ヤマハに乗る伊藤史朗と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。
ただし1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負ってしまい、同年の大半を治療等に費やす結果になった。その後もホンダワークスライダーとして世界GPに出場するが、目立った成績は残していない。
1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリ(4輪)にホンダもS600で出場することになり、2輪の契約ライダーだった北野もステアリングを握ることになった。北野は予選前日の150R(現在の130R)で大クラッシュを演じたにもかかわらず、同じチームの外国人ドライバーロニー・バックナム(ホンダF1の初代ドライバー)に次ぐ2位でレースを終えている。
1965年からはホンダ2輪チームの先輩格にあたる田中健二郎に誘われる形で、同チームの高橋国光とともに日産の追浜ワークスに移籍。以降は4輪ドライバーとして活躍する。最初はフェアレディ1600を駆ってレースに出場していたが、ライバルとのポテンシャルの差からなかなか勝てずにいた。それでも1966年の「第3回日本グランプリ」ではフェアレディS(日産がフェアレディ1600をベースに直列6気筒DOHC2000ccを載せたマシンで、実戦参加はこの1戦だけだった)を駆って予選では2番手を約15秒離して堂々のポールポジションを獲得した。翌1967年の「第4回日本グランプリ」では、初めて乗ったミッドシップの本格的なプロトタイプ日産・R380AーII(この前年にプリンス自動車工業と合併しており、プリンスのマシンはそのまま日産のマシンとして継続された)に苦戦しながらも4位入賞するなど、彼の技術は確実に磨かれていった。
1968年の「68日本グランプリ」において日産・R381で念願の総合優勝を獲得、名実ともに一流ドライバーの仲間入りを果たすこととなった。
1969年の「69日本グランプリ」でも日産・R382で、同じチームの黒沢元治に次いで2位。1970年6月の「富士300マイル」で優勝とプロトタイプでの活躍が続いた。ただし折からのオイルショックや排ガス規制の波によって日産がレース活動を縮小したため、プロトタイプでの活動はこの70年が最後になってしまった。
その後はツーリングカーやGTカーを主体にレース活動を行った。フェアレディZ432では、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったものの、当時「レースの神様」と呼ばれた田中健次郎を絶賛させた。フェアレディ240Zでは、1971年の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。1972年9月3日の「富士インター200マイルレース」ではスカイライン2000GT-Rに乗り、マツダサバンナRX-3を駆る従野孝司との死闘を制し52勝目の勝利をGT-Rにもたらした。サニーエクセレントでは、1972年の日本グランプリでスタート直後の大事故で多くのサニー勢が消えた中、たった一台でトヨタ勢とバトル。そのほかブルーバード、チェリーなど多くのマシンで数多くの優勝、入賞を果たしている。
1973年中盤からは富士グランドチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(→後のF2)に進出。チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった(両シリーズ合わせて最高位2位)が、常にトップドライバーと見なされていた。
1978年の「78JAF富士グランプリ」での6位を最後に一度現役を退く。以後、2輪用タイヤショップを経営。
1987年の「全日本ツーリングカー選手権」(通称・グループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。
1988年、日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングから、本格的にレースに復帰。和田孝夫とコンビを組み、スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権に参戦。1989年は星野と組んで1年間戦い、西仙台ハイランド300kmレースでは17年ぶりの総合優勝を飾っている。
現在では二輪タイヤショップウルフ・モトのオーナーとして、そのバイクに合ったベストなタイヤ選択と安全に速く走る方法を顧客に伝えている。
近年、ニッサンが年に一度開催する「NISMO FESTIVAL」で、往年のマシンをデモ走行させている。2003年はスカイライン2000GT-Rレーシング仕様、2004年はレストアを終えたR382(ゼッケン21は黒沢元治だが)、フェアレディ240Z(当時テスト用として使われていたマシンらしい)、2005年は北野が「68日本グランプリ」で総合優勝したニッサンンR381(ゼッケン20)を走らせ、往年のファン達を喜ばせている。
特徴 4輪時代は黒いジェット型ヘルメットに口ひげがトレードマーク。右側にちょっと首を傾げてドライブするのも特徴で、ツーリングカーでは右手を窓枠にかけ、しばしば片手ハンドルを行っていた。
日本の4輪レースでフルフェイス型ヘルメットが初めて使用されたのは、1969年の日本グランプリにおける日産チームだったと言われる(元祖フルフェイスである米ベル社のヘルメットを、日産がワークスドライバーに支給)。ほとんどのドライバーが喜んでフルフェイスを使用する中、北野は「重く違和感がある」とジェット型ヘルメットに固執し、結果として同レースでは2位入賞。その後フルフェイスが完全に主流になった '70年代中盤でも、ジェットを使用し続けていた。とはいえ北野は70年6月に行われた全日本富士300マイルで、白地に黄色い横のストライプの入ったフルフェイスをかぶって、黒沢元治とともにニッサンR382をドライブし優勝。75年シーズンからは黒のフルフェイスをかぶっている。
高橋国光などと並び天才肌と称されたが、比較的早めにトップカテゴリーから引退しているため、現役時を知らない若いレースファンにとってはやや地味なイメージになっている面もある。しかし当時を知る関係者や、近年のメモリアルイベントの現場で直に接した人々の間では、「あれだけの実績があるのに偉ぶらず親切で礼儀正しい人」と非常に人気が高い。師匠筋である田中健二郎も「北野は向こうっ気が強い面もあったが、仲間やライバルが事故でコースアウトしていたりすると、すぐにマシンを止め真っ先に救助に駆け付ける男でもある」と評している。
レースでは誰よりも激しい走りを見せ全盛期の星野一義をも驚かせた北野だが、オーナーであるタイヤショップを訪れる一般ライダーには「タイヤの馴らしが終わるまで絶対に無理するなよ、スピードは控えめにしろよ、他人にいい格好を見せようとしちゃ駄目だよ」などと、元世界GPライダーとは思えないほど(逆に言えば危険な領域を知っているからこその)安全第一の丁寧なアドバイスを送ることで知られている。
エピソード 元日に生まれたことから「元」と名付けられたと言われる。 北野がホンダのワークスライダーとしてGP参戦のため渡欧した際、当初欧州の人々に「元」はニックネームなのだと思われていたらしい。「元」の音とローマ字のスペル「Moto」が、フランス語やイタリア語などで「オートバイ」を意味する「Moto」と全く同じだったためである。 ホンダワークス〜ニッサン追浜ワークスの間、ずっと同じチームに所属していた高橋国光とは一度も口を利いたことが無く、初めて口を利いたのはグループAに復帰してからだったそうである。同格のドライバーだった現役時代は、お互いに意識し合っていて素直になれなかったのだという。現在では無二の親友らしい。 三菱ワークスドライバーだった望月修がF2マシンを転覆させ下敷きになった際、北野は一番先に現場に駆け付けて救助に当たった。同じ日産の黒沢元治がテスト中にコースアウトしマシンを転覆させた際も、コース脇の草むらをかき分け最初に救助に駆け付けたのは北野だった。 1972年9月3日の富士インター200マイルレースでは、従野孝司のサバンナを徹底的にブロックして優勝したが、レース後に従野の母が北野のもとを訪れ「息子にレースというものの厳しさを教えてくださってありがとうございました」と挨拶してきたという。 富士インター200マイルレースの後、従野の実兄の片山義美が抗議(あるいはブロックの仕返しの通告)に訪れた際、他の日産勢はどこかに消えてしまったが、北野だけは逃げずに片山の話を聞いたという。 実は左手の人差し指が無いというハンディを持ってレース活動を行っていた。2輪ホンダワークス所属時にトレーニング中のアクシデントで指を負傷したが、直後のレースに支障が出ないよう治療を諦め、あえて切断という選択をしたと言われる。ハンディをものともせずに数多くの優勝・入賞を遂げてきたことは、すさまじい精神力と努力の賜物という他ない。 星野一義は日産の頃からずっと北野にあこがれていた。北野の技量の高さだけではなく、人柄にも惚れていたらしい。
・都平健二
都平 健二(とひら けんじ、1941年2月15日 - )は、茨城県出身の元日産追浜ワークスドライバー。スカイライン2000GT-Rやサニー1200GXに乗り、幾多の名勝負を展開。特に1970年代後半から1980年代にかけてのマイナーツーリングレースでは常に優勝候補と言われるなど、ハコ(ツーリングカー)使いの名手として知られた。現在はレースの一線は退き、茨城県でカーショップの「リミット」を経営。血液型O型。愛称トッペイちゃん。
経歴 モトクロス界の名門チームだった城北ライダースに所属し、1964年のMCFAJのチャンピオンを経て、同年末日産の大森宣伝第3課(大森ワークス)と契約し4輪ドライバーに転向。ただし2年間ほどは4輪レースと併行して、城北ライダースから2輪モトクロスにも出場していた。
1965年3月に川口オートレース場で行われた、ストックカーレースで4輪レースにデビュー。
1969年に日産追浜ワークスに昇格。同年5月の日本グランプリで高橋国光とコンビを組み、日産R382を操るが結果としてリタイヤ。高橋国光の名前しか出ない場合が多いが、この時期の日本グランプリは長丁場のため複数のドライバーでエントリーすることが認められており、都平も決勝レースを走っている。
以降も日産ワークスドライバーとしてツーリングカーレースなどに出場する一方、プライベート活動として富士グランドチャンピオンレースやフォーミュラカーレースにも出場。
1988年R31スカイラインGTS-R全日本ツーリングカー選手権 (JTC/JTCC)に、鈴木亜久里/アンダース・オロフソン等と参戦。 1993年BOSEスカイラインBNR32GT-RN1耐久シリーズ参戦。河合博之とのコンビで第5戦十勝を征した。 1994年ワイズスポーツスカイラインBNR32GT-RN1耐久シリーズに参戦。前年と同じ河合博之とのコンビで全8戦中3戦で優勝。年間タイトルを獲得。 N1耐久チャンピオン獲得の翌年、1995年の開幕戦では、河合博之および須賀宏明と組んでR32GT-Rで出場。このレースは新型R33GT-Rの初陣だったが、都平は旧型マシンで新型を破って優勝し、ベテランの妙味を見せつける格好になった。
翌1996年まで現役を続け引退。以後はショップ経営に専念している。長年、自らの手でマシンのチューニングやセッティングを行ってきた経験から、GT-Rなどのチューニングには定評がある。
・横山達
S8・1・15生 江戸っ子。父親は秋田雨雀の弟子で清藤森夫というペンネームの童話作家であった。太平洋戦争の空爆で家を焼かれ、神奈川県茅ヶ崎へ疎開し、そのまま茅ヶ崎に居つく。藤沢高校から明治大学商学部へ進む。昭和30年卒業後、オートバイメーカーの陸王に出入りして、33年の第3回浅間火山レースに出場する予定でいたが、メーカーがつぶれてご破算になった。第1回日本GPジャガーEタイプで出場、優勝。その夏プリンスファクトリーに入る。スカイライン2000GTで主に活躍し、41年第3回日本グランプリではR380で4位に入った。第4回日本GPスカイライン2000GTでは総合優勝を飾った。同年10月には谷田部でR380Uで7つの国際スピード記録を保持。ニッサンレーシングチームキャプテンを務め レーシングアドバイザーとして後輩の指導に当たる。
・砂子義一
砂子義一氏 1932・9・23生まれ
大阪生まれ、昭和32年第2回浅間火山レースにヤマハワークスの一員として参加。この時ヤマハは全国から優秀なライダーを集め、総勢12名の大チームであった。チームメイトには野口種晴、望月修、伊藤史郎、益子治、大石秀夫、と言った連中がいた。250ccレースでは、益子に次いで2位に入った。その後もヤマハのワークスライダーとして、伊藤、益子、大石とともに2輪の世界グランプリを転戦した。昭和38年11月に伊藤史郎とともにプリンスチームに入り デビューレースは39年第2回日本グランプリ・GTクラスで2位に入った。1966年の第3回日本グランプリでは日本初の純粋レーシングマシンR380にてポルシェ906を制す。プリンス自動車と日産自動車の合併にともないニッサンファクトリーの1員となる。‘68日本グランプリではR381で出場、オーバーヒートに悩まされながら完走6位にはいった。日本の4輪レースの草分け的存在である。横山氏の後任としてニッサンレーシングチームのキャプテンとして活躍。
その後合併した日産自動車のワークスドライバーとして活躍したGTR50勝伝説の立役者の一人。
・杉崎直司
中学時代レーサーに憧れ、16歳でジムカーナをはじめた冒険家。71年ニッサンオールスターシリーズVで優勝。実力をメキメキ付け注目を浴びる。PMC・S所属。当時学業とレースを両立しながら活動。