【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.1】日産ワークスチームに入った、あの時代の話をしようか

2020-08-10
Webモーターマガジン編集部
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日産が世界に誇るスポーツセダンの嚆矢・スカイライン。そのホットバージョンとして1969年2月に登場したのが初代スカイラインGT-R(PGC10)だ。その栄光の軌跡は、レースシーンでの活躍によって今もなお、伝説として刻まれる。その軌跡を、1960年代?1970年代初頭に日産ワークスドライバーのエースとして、日本初のスポーツプロトタイプカー・R380シリーズや初代ハコスカGT-Rを駆り、数々の名バトルを繰り広げた黒澤元治が語る。連載第1回(全6回)。(敬称略・新刊ムック「スカイラインGT-R Story&history Vol.1」より)

●黒澤元治(Motoharu KUROSAWA)プロフィール
1940(昭和15)年茨城県出身。2輪ライダーとして、1962年に鈴鹿サーキットで初開催された、第1回全日本選手権ロードレースのノービス50ccクラスでホンダCR110を駆り優勝。その後、4輪に転向し日産・大森ワークス入り。1967年、日本グランプリGTレースにフェアレディSR311で優勝。1969年、日本グランプリに日産R382で優勝。1973年全日本F2000選手権チャンピオン(マーチ722 / BMW)。レース引退後、作家・五木寛之氏の勧めで自動車評論家に転身する。初代ホンダNSXやタイヤの開発ドライバーとしても活躍。

■インタビューと文:杉野勝秀(COOLARTS)■写真:日産自動車/井上雅行

黒澤元治氏へのインタビューは、GT-R誕生50年を目前に控えた2019年1月23日、箱根の自宅にて行なわれた。

Episode.1 日産ワークス入りの経緯

日産のオーディションに合格して契約したのが昭和40年1月1日付なんだけれども、その1年以上前かな、まずマツダの話があった。当時、僕はスズキとモトクロスの契約をしていた。その頃、スズキには片山義美くんや後にコジマエンジニアリングを始める小嶋松久くんらも一緒で、皆で浜松に居たんだ。日曜日にやることがないから「どうしようかな」と思ったら片山くんが、「マツダのオーディションがあるから鈴鹿に行く」っていうんだ。「じゃ、暇だから遊びに行くか」ということになって、片山くんと木の実レーシングの若いやつらを中心に鈴鹿へ行ってマツダのキャロル600か何かに乗ったんだよ。

それで最後に時間が余って、片山くんが「ガンさん、ちょっと走ってみる?」っていうから、僕も走ったんだよ。そしたらね、誰よりも速くて。それを見たマツダがびっくりしてね、「契約してくれ」って(笑)。

その当時は、まだ東海道新幹線も開通していないし、僕もまだ茨城の日立にいてさ。広島なんて海外みたいに思っていた。それにその頃から日産からも話がぼちぼちあった。それで「日産に通らなきゃ、広島のマツダに行ってもいいかな」とは思っていたんだ。で、契約もしてないのにマツダがね、その当時のお金で、3カ月で15万円も送ってきたんだよ。その当時のお金、まだサラリーマンの初任給が1万円いってなかった時代だ。昭和30年代だから。たぶん昭和38年か39年だよ。

その後、昭和39年の春頃、日産のオーディションが鈴鹿であって。それで僕と都平健二さんと津々見友彦さん、そして長谷見昌弘くんの4人が通った。僕はトップか2番くらいだったかな、タイム的には。あんまり記憶はないんだけれども。それで日産と昭和40年1月1日付で契約したわけだ。

当時はね、国産車のレベルがまだ高くなかった。オーディションの時にはフェアレディなんかなくて、ブルーバードの410だよ。他にはタクシーみたいなセドリックとかさ。それを見て「男の一生の仕事じゃないな」と思ったけど、お金に惚れたというか(笑)。その時、僕はまだ25歳でね、日産は月に7万円もくれたんだ。

同時にスズキの方からもモトクロス契約で月5万円をもらっていたんだよ。1年、2年くらい日産とダブったんだけど、25歳のガキが12万円も貰えるっていうんでね。だから、トッペイ(都平さん)がね、同じ茨城だったもんでなんとなくいろんな話をして。「自動車は面白くもなんともないけど、金くれるっていうんだからやろうよ」ってさ。それでイヤになりゃいつでもやめりゃいい…みたいな、そんな軽い気持ちで契約した…。最初はそういう感じだったね。(Ep.2に続く)


【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.2】日産R380で走りはじめた、あの時代の話をしようか

2020-08-11

Episode.2 大森から追浜ワークスへ。そして櫻井&R380の思い出

日産の大森(ワークス)というけど、あれが出来たのは入ってから1年後くらいだな。最初は(東京都港区)三田だったんだよ。そこに日産の広報車置き場があったの。暖房もないような古い建物で事務所兼着替えの部屋にしていた。そこで自分のマシンをメンテナンスして、それで鈴鹿に自走で練習に通ったりして。東名も全開通していないから大変だったよね。

1967年の日本グランプリのGTレースで49番の赤いフェアレディSR311で優勝して、追浜(ワークス)に上がれたんだよ。別に1軍も2軍もないんだけども、世間が追浜の方が1軍で大森の我々の方が2軍みたいな扱いをしていたんだな。そこで追浜の契約になったんだ。

最初はフェアレディや510ブルーバードのテストとか、そんなのが多かった。櫻井眞一郎さんに初めて会ったのは追浜と契約して1年近く経った時の富士スピードウェィだったかな。その辺りの記憶は定かではないな。

僕らが日産に入った頃はね、日産とプリンスは会社としては合併して一緒になったけども、レーシングチームは別々にやっていたんだよ。でも、同じ会社だから時々一緒になって、櫻井さんが何かの時に富士で「S54Bに乗ってみるか?」みたいな声を僕にかけてきた。それまでスカイラインには全く乗ったことがないし、触ってもいない。乗ったら、まぁ酷いクルマでね(笑)。リジッドアクスルでじゃじゃ馬で。フェアレディSR311もリーフリジッドだったけども、S54Bは剛性もないし。そういう記憶しかなかったね。


櫻井さんが僕に真剣に話をするようになったのは、R380に乗るようになってから。櫻井さんが僕を一番気に入ってくれたのは、クルマの知識があったからかな。僕は「このクルマはバンクの中でこういう動きをするから、ここを抑えてくれれば、あとコンマ5秒、ものによっては1秒速く走れるかもしれない」みたいな話を、クルマの症状だけを言うようにした。そうしたら櫻井さんがそれを気に入ってさ。だから、テストはもう僕が独りでやっていた。櫻井さんにこう指摘して少しずつ少しずつ変えてくと、言ったとおりタイムがどんどん伸びてきてね。

R380は、ドライバビリティは悪くないんだけど安定性、今で言うスタビリティがものすごく低くて、タイヤが温まってない時はステアリングインフォメーションというか、路面からの情報を取るのが難しいクルマだった。それで初めてR380に乗った時、富士スピードウェイの30度バンクの先にあった横山コーナーで田中健二郎さんと北野 元くんのフェアレディにアウト側から抜かれたんだ。僕はそんな遅く走っているつもりじゃなかったんだけどね。


それで「このクルマは真剣に乗らないと乗れないな」と感じ、「これだけ難しいんだったら今までずっと自動車を馬鹿にしてきたんだけども、これはやっぱり男が一生賭けるような仕事かもしれない」って、そういう気持ちを持たせてくれたのがR380だった。何かがあるっていうよりも、それを乗りこなす、あるいはそのドライビング、そのクルマの限界を掴んでいけば、男としてそれを征服した…みたいなね、そういう気持ちにさせてくれたよね。

R380は、結果的に行かなかったけどル・マンに出る計画があって、僕がずっと独りで来る日も来る日もロングランのテストやっていてさ。その頃かな、ハコスカGT-Rが出来たのは。(Ep.3に続く)


【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.3】ハコスカGT-Rの開発テストをした、あの時代の話をしようか

2020-08-12

Episode.3 ハコスカGT-R、4ドアと2ドアHTの思い出

櫻井さんに「GT-Rの開発は、クロ、お前がやっていけ」って言われたんだけど、最初はあまり身が入らなかったな。その理由は、1969年JAFグランプリの規定で前座のツーリングカーレースはワークスのプロドライバーが出られないことになったから。だから言われるままに開発テストをやっていた。

最初のハコスカは、エンジンの低速トルクがなくて、上だけは結構パワー出ていたんだけど乗りにくかった。デビュー戦の1969年5月のJAFグランプリは、アマチュアドライバーがトヨタ1600GTに苦戦して判定勝ちという結果だったけど、プロの僕たちが乗れば楽に勝てたクルマだった。

JAFグランプリが終わって次のレースからは、もうワークスドライバーがやらなきゃいけないってことになり、すぐ僕らが乗ったんじゃなかったかな。秋の日本グランプリの時には、すでに相当作り込んでエンジンも機械式インジェクション仕様になっていた。

4ドアは割と乗りにくいクルマで、後ろが落ち着かなくて。剛性がなかったんだよ。剛性をもっと上げたいって言っていたんだけど、結局、重くなるからっていうので、櫻井さんたちも剛性強化には反対していた。軽量化しながら剛性を出すというのは、まだまだ出来ない時代だったんだよ。

ホイールベースが長いこと自体は悪くはないんだけども、ドライバビリティや安定性が悪いっていうのは、ホイールベースが長いからなおさらボディの曲げ剛性とねじれ剛性が出てなかったんだと思う。つまりバランスが悪かった。

1970(昭和45)年秋にKPGC10、ハードトップのレース仕様の試作車が出来た。センターピラーのない2ドアだからリアドアがない。必然的に剛性が出たわけだ。ホイールベースも70mm短くなってそれも剛性アップに寄与した。乗った時に「これは凄いな」って感じた。

富士スピードウェイでのシェイクダウンで、先輩の横山 達さんがヘアピンで転倒しちゃったんだけども、たまたまフロントガラスが割れずにポロっと取れたから、角材をどこからか持ってきて倒れ込んだAピラーをみんなで起こして修復。そのあとはガラスをガムテープでくっつけて。その状態で走って4ドアのベストを軽く破ったんだ。

僕の記憶だと、4ドアよりたぶん2秒くらい速かったんじゃないかな。あの頃は携帯電話もないから、担当のコッペイ(古平 勝さん)がドライバーズサロンの公衆電話で報告したら、櫻井さんが大喜びしちゃってさ。それも印象に残っているんだけどもね。(Ep.4に続く)


【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.4】レーシングGT-Rをチューンした、あの時代の話をしようか

2020-08-13

Episode.4 レーシングGT-Rの玉成

僕はね、高校生の夏休みに3級整備士の資格を取得したんだよ。だから、クルマの開発みたいなものはもの凄く好きだった。で、荻窪のプリンスの設計、櫻井さんのところに普段から遊びに行っていたのは、ドライバーでは僕だけ。

櫻井さんが仕事をしている中、「クロ、うるさいよ!」とか何とか言われながらさ、「これはどういうこと? サスペンションはなんでこういう働きをするのか? ここイジるとどういう風になる?」とかさ、櫻井さんに直接訊ねながら勉強してきたんだ。

だからそういうのもあってね、クルマをどんどん速くしていくっていうのが、もの凄く好きだったっていうか…。それが、のちのNSXの開発なんかにもすごく役立ったんだけどね。

普段レースがないときは、ワークスドライバーはとくに何にもしてなかったんだけど、僕は大森に行っていたせいもあって、もったいないなと思ってさ。それで「レースがないときはプリンスのスポーツコーナーに居たい」と横山(達)さんに頼んで、あそこに勤めていたんだ。日産の人間でプリンスの三田に勤めたのは…後にも先にも僕だけじゃないかな?

だから、どっちを取るって言われると難しいけれど、レーシングドライバーよりもむしろクルマを作り上げていく、そっちの方が本当は好きなのかもしれないな。

例えば4ドアGT-Rにもリアウイングがあった。あれを装着するとかしないとか、もうちょっと角度こういう風にしよう、コレつけすぎじゃないの!? とか、もうちょっと寝かせたらどうなるとかさ。そういうのはどんどんやっていった。あれのチューニングは僕がほぼ100%やったんだ。

S20型エンジンもね、キャブレターからインジェクションでコントロールするようになってから急激にトルク幅が広がって良くなった。プリンスは、エンジン屋さんでも何でも、言葉で言えば日進月歩みたいに日に日にいろいろやっていたよ。毎回のようにエンジン屋さんが現場に着いて来たからね。(Ep.5に続く)


【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.5】S20型エンジンが1万rpmを超えた、あの時代の話をしようか

2020-08-14

Episode.5 究極のS20の完成。そして富士2分の壁を破る

レースに出るドライバーのメンバーは、青地康雄監督が決めていた。僕、北野くん、国さん(高橋国光)。この3人、いわゆる追浜三羽烏が交代で出ると。だから、レースのリザルトを見ると最初のうちはそういう順番になっていたと思う。

それで何勝かしていくうちにプリンスの宣伝部がね、スカイラン50勝の企画を立ててきた。我々は、そういうのは全然頭になかったんだけども。それで、20勝くらいした時に青地さんが「国さんが無冠の帝王って言われているから、50勝目を獲らせたい」と。

最初のうちは3人が交代で出ていたのが、途中からね、国さんだけが出るようになった。国光と長谷見、国光とトッペイ(都平健二)みたいに。黒澤と北野は日本グランプリで勝っているからいいだろうと。結果、国さんが50勝目を記録した。


最後の最後、1972(昭和47)年の秋にワークスのスカイラインがこれで撤退するって言った時に、櫻井さんも青地さんもチームを全員集めてミーティングを行なった。マツダに勝てなくなってきたので、とにかく最後は黒澤でいくと。

そのレースのためのテストを何回かやった中で、僕は今までサスペンション関係のパーツでボツになったものを全部、コッペイ(古平さん)に頼んで富士に全部持ってきてもらった。それでバネレートからやり直して、ちょっと乗りにくいけどもタイムの出るマシンにして最終レースに臨んだんだ。


今まではエンジン回転数を8500rpmくらいで抑えていたのかな? エンジン屋さんも「回せるだけ回していい」ということになってね。それで初めてあのS20型エンジンを1万…1万300rpmくらいまで回した。それであの時のベストタイムが出たんだよ。ついに富士の6kmコースで2分を切ったんだ。R380でさえ1分56秒くらいしか出てないのに、1分58秒3っていうタイムが出た。決勝は、ロータリーの周回遅れが体当たりしてこなければ勝てたんだよね…。

今思うとね、S20型エンジンはその回転に対するバランスの悪さでエンジン振動がものすごく出るから、結局ブロックだとかクランクのメタルを押さえる部分とかすごくゴツくなってさ。だから、良いエンジンだったけど重かったよね。どでかいエンジンでさ。でも最後の頃はね、1万rpm以上回ったから、バランスも少しずつ直してきて良いエンジンになったんだよ。

最後の頃は、限界まで回しても壊れなかったね。R380はその頃はもうル・マンに出ないっていうことになって開発が止まっちゃっていたから。当初はR380のエンジンの方がすごく良かったけども、最後はGT-Rの方がパワー出ていたんだよ。結局、中身はほとんど同じになっちゃったんじゃないの? 最後は。(Ep.6に続く)


【スカイラインGT-Rと黒澤元治 Ep.6】GT-Rとロータリーが競った「あの時代の話をしようか」

8/15(土) 18:03配信

日産ワークスのエースドライバーが語る

戦闘力向上を果たしたハコスカGT-Rの完成形。それがKPGC10型スカイライン2ドアHT GT-Rだ。櫻井も黒澤も、このスパルタンなGT-Rが最も好きだと答えている。

Episode.6 ロータリー勢との死闘。我が青春のハコスカGT-R

マツダのロータリーってのは、吹け切っちゃうと伸びないのかな? バンクの最後になると最高速が伸びず、横山コーナーに行くときにはもうスカイラインが先になって。ずーっと離してきて、ゴールラインまではスカイラインが先頭で来るんだよ。でも、ピットの終わり辺りでスリップから再び抜かれちゃって。そういう繰り返しだったんだよね。

だからロータリーエンジンのいいところと悪いところ、マツダのクルマはコンパクトだったから空力が良かったんだろうね。スカイラインはフロントがでかいし、四角張っているから空気抵抗が大きかったんだろうな。ただ、S20型エンジンはね、ずーっとバンクから降りてって下りでは伸びていくんだよ。

サスペンションはスカイラインが独立懸架で、向こうはリジッド。だからコーナーではスカイラインが踏ん張って断然速かった。もしレースがね、鈴鹿だったらまだまだスカイラインは負けていなかった。直線の長い富士だったからロータリーが追い着いてきちゃった。

今思えば、いい時代、楽しい時代っていうか。まぁ、当時は楽しいって言っていられなかったけどね。僕たちも若かったせいか、もう、文字通り命かけていたから。マツダのロータリーがいなかったら、GT-Rもそんなに速くなっていなかっただろうね、きっと。ライバルが居てこそ、盛り上がるのがレースだから。

自動運転だとか大気汚染の対策だとか衝突安全だとか、自動車メーカーには今やらなきゃいけないことが山程ある。でも、あの当時はそんなものは何にもなかったからさ、メーカーもレースに打ち込めた。

櫻井さんらが自慢していたのは、レース車の試作のためにスカイラインの生産ラインを何時間か止めたんだと。そういうことが、まだ許された時代だった。

今考えるとノその当時あまり意識していなかったけど、僕はR380の途中から開発に加わり、さらにR380後期型の開発とハコスカの開発、途中からハードトップGT-Rも重なってやっていたんだよな。その上、R382が入ってきたでしょ。毎年毎年、日本グランプリの規則が変わって1年でレーシングカーをゼロから作っていたんだから。よくそんなことが出来たと思う。

若いときに、一番いい時代にハコスカでレースをやれた。ハコスカはやっぱり僕の青春だったんだよ。良くも悪くもね<笑>。

【完】(文:杉野勝秀)

GT-Rの開発の文献を見ていると黒沢氏のマシン開発能力はずば抜けていたようだ。

メカもある程度知識があれば自分でドライブして足らないところ 対策なども

すぐに頭に浮かぶ筈だ。しかし実際の多くはメカに疎いドライバーが多いのが現実だ。

↑上記のEp4にもあるように時間があるときは日産スポーツコーナーで働いたのは

自分だけというように コレなんだよ コレなんだよね、大事なのは。


R382のレストアDVDの中で 当時優勝した黒沢氏がドライブするのに呼ばれた。

黒沢氏は待ち時間 そわそわ落ち着かない様子だった、すると櫻井氏が現れた。

つかさず黒沢氏は櫻井氏に駆け寄り涙していた。

「おやっさん 逢いたかった」と。

コレを見るだけで二人の絆が強かったのだと分かるシーンがあった。


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