BHオークション 2020.01.10

【2900万円もの価格で落札 総額¥31,900,000】1972 日産スカイライン2000GT-R(KPGC10) 







日産スカイライン2000GT-R(KPGC10)が東京オートサロン内のBHオークション2020に出品されました。

日産スカイライン2000GT-R(KPGC10)の特徴
・1800万円からスタート
・2900万円で落札
・予想落札額は2800〜3500万円だった
・大変希少な“KPGC10”のレースカー
・日産プリンス・スポーツコーナーが販売
・希少なオリジナルのレースパーツを多数装着
・“GT-Rの神様”と呼ばれた渡辺茂氏のコレクションカー
・渡辺の手によって各部をアップデート&モディファイ
・Ready to Race コンディション


日産スカイライン2000GT-R(KPGC10)の詳細
日産自動車は1968年8月、プリンス自動車と合併後初めての新型車となる3代目スカイライン(C10型)を発表する。
そしてその年の10月に開催された東京モーターショーで、レーシング・マシンR380用のGR8型エンジンをディチューンした
2L直6DOHC“S20”ユニットを搭載した“スカイラインGTレーシング仕様”を参考出品として公開。
1969年2月にその市販版となるスカイライン GT-R(PGC10型)をリリースした。
5月に開催されたJAFグランプリTSレースでは、日産村山工場で製作された4台のワークスマシンがデビュー。
結果は、トップでゴールしたトヨタ1600GTの失格裁定による繰り上げ優勝という形ではあったが、
それ以降のレースでは圧倒的なパワーでライバルを圧倒し、連戦連勝を飾っていく。

1970年にスカイラインに2ドア・ハードトップが追加されると、GT-Rも2ドアのKPGC10型へ発展。
4ドアに比べ70mm短いホイールベースと20kg軽くなった車体の効果で運動性能が向上した。
同時にレース仕様もさらなる進化を遂げ、ルーカス製機械式インジェクションを装着しドライサンプ化された
1989cc直6DOHC S20ユニットは、最終的に264ps/8400rpm、21.0kg-m/6800rpmを発生したといわれている。
そして1972年1月の富士300キロスピードレース・スーパーツーリングレースで、高橋国光がGT-Rの国内レース通算50勝を達成。
最終的には国内レースで57勝を飾り、現代にまで続くGT-R神話を作り上げた。
しかしながらマツダが小型軽量でハイパワーを誇るマツダ・サバンナRX-3を投入すると、大柄で前面投影面積の大きなボディ、
エンジン単体で200kg、車両全体で1020kgという重量が足かせとなり、GT-Rは次第に苦戦を強いられるようになる。
それでも1972年後半にブレーキをフロント・ソリッドディスク&リア・ドラムから、フロント・ベンチレーテッド・ディスク
&リア・ソリッドディスクへと変更するなど細かな改良が加えられたが、10月の富士マスターズ250キロレース・スーパー
ツーリング・チャンピオン・レースをもってワークス活動を終了。
その後を引き継いだプライベーターたちも1973年シーズンをもってビッグレースから姿を消していった。

出品車は、東京・大森にあったメーカー直系のレーシングサービス&チューナーというべき日産プリンス・スポーツコーナーで
1972年に製作されたKPGC10のレーシングモデルである。
オーナーは後に佐賀県伊万里市でGTRサービスワタナベを開き“GT-Rの神様”と慕われた渡辺茂氏。
スカイラインGT-Rに心酔するがあまり、会社勤めを辞め、一時はスポーツコーナーでメカニック修行をしていたという経歴の
持ち主だ。
渡辺はホワイトボディから、当時のレーシング・スペックに準じて仕立てられたKPGC10で、いくつかのレースに参戦。
確認できる範囲ではビッグレースの出走歴はないものの、1975年5月の中国九州地区選手権厚保グランド200レースで12位、
8月のマスタリーシルバーカップレースNo1で10位、1976年11月の’76西日本500キロレースで南部誠司とコンビを組んで7位
といった成績を残している。
特筆すべきはこのKPGC10が新車時からずっと渡辺氏の手元に保管されてきたワンオーナーカーであることだ。
もちろんレーシングカーゆえ、レースを重ねていく中で渡辺自身の手で改良を施された部分もあるが、
そもそも当時レーシング・スペックでデリバリーされたKPGC10の現存車がほとんど存在しない中で、
これだけのオリジナリティを残し、しかもレディtoレース状態で保存されているのは驚異的ですらある。
そうした意味でもこのKPGC10は、日本のレース史、そしてスカイライン史を語る上で貴重な存在と言えるだろう。

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この車両を含め日産が関わったHT・GT-Rの表に出てきているものは極めて少ない。

1972年に日産スポーツコーナーが製作したとの記述があったがパーツベースは

日産スポーツコーナーのレース用パーツ中心で組み上げられた仕様なのだろうか。

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日産スポーツコーナーのレーシングGT-Rを見てみよう。


コレは日産側の広告だが日産スポーツコーナーはやはりキャブ仕様のようだ。


‘72日本GP出場予定車

ワークスGT-R 同年4月にブリスターフェンダーになる。

‘72日本GP当日51勝目になる予定がロータリーに惜敗

コースも富士スピードウェイ4.3kmの逆周りと例年と異なった。

結果を出せなかったレースだけに現存する画像があまりにも少ない。


BHオークション側も「2900万円もの価格で落札」と言う事は 思っていたより高額になったという事だろうか。

もともと製作購入当時いくらだったのか。

------------ Subsequently -----------

となると“正谷栄邦”号が日産ワークスにかなり近い存在となる。

日産HT・GT-Rがワークス活動撤退以降 レースはプライベーターに託した。

ワークス用に開発したパーツを惜しみなく投入されたと聞いている。

やはりワークス直系はルーカスフューエルインジェクションなくしてはS20型エンジンは語れない。

ワークスGTRは4DR時代‘69 8月27日に投入されている。

エンジンパワーも市販レース仕様とはヒトランク違うだろう。


日産スポーツコーナーのプレートも“水戸黄門の印籠”的な証

渡辺氏の現 状態にこのプレートが定位置に無いのは何故?


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