=黒沢元治選手 回顧録=
最後の最後、1972(昭和47)年の秋にワークスのスカイラインがこれで撤退するって言った時に、櫻井さんも青地さんもチームを全員集めてミーティングを行なった。マツダに勝てなくなってきたので、とにかく最後は黒澤でいくと。
そのレースのためのテストを何回かやった中で、僕は今までサスペンション関係のパーツでボツになったものを全部、コッペイ(古平さん)に頼んで富士に全部持ってきてもらった。それでバネレートからやり直して、ちょっと乗りにくいけどもタイムの出るマシンにして最終レースに臨んだんだ。
今まではエンジン回転数を8500rpmくらいで抑えていたのかな? エンジン屋さんも「回せるだけ回していい」ということになってね。それで初めてあのS20型エンジンを1万…1万300rpmくらいまで回した。それであの時のベストタイムが出たんだよ。ついに富士の6kmコースで2分を切ったんだ。R380でさえ1分56秒くらいしか出てないのに、1分58秒3っていうタイムが出た。決勝は、ロータリーの周回遅れが体当たりしてこなければ勝てたんだよね…。
今思うとね、S20型エンジンはその回転に対するバランスの悪さでエンジン振動がものすごく出るから、結局ブロックだとかクランクのメタルを押さえる部分とかすごくゴツくなってさ。だから、良いエンジンだったけど重かったよね。どでかいエンジンでさ。でも最後の頃はね、1万rpm以上回ったから、バランスも少しずつ直してきて良いエンジンになったんだよ。
最後の頃は、限界まで回しても壊れなかったね。R380はその頃はもうル・マンに出ないっていうことになって開発が止まっちゃっていたから。当初はR380のエンジンの方がすごく良かったけども、最後はGT-Rの方がパワー出ていたんだよ。結局、中身はほとんど同じになっちゃったんじゃないの?
最後は。 |