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スカイラインGT-Rの連勝を阻止したロータリーパワー|76年式 マツダ サバンナ GT Vol.1

2ローター・ロータリー搭載車の量産に世界で初めて成功したマツダは、1960年代末?70年代にかけて
ロータリーエンジン搭載車のラインナップを拡充する「ロータリゼーション」スローガンを掲げた販売戦略を展開。

同時に、レース活動によって他のメーカーに対する独自性と技術力の高さをアピールした。

 その両方の役割を担ったのが、コードネームX‐808。ファミリアとカペラの間にある市場を埋め、
なおかつレース界を席巻していた日産勢を打ち負かすべく開発された。
このモデルは、レシプロエンジン搭載のグランド・ファミリアとロータリーエンジン搭載のサバンナとして
1971年9月に発売される。

 日産勢の自滅もあり、1971年12月の富士耐久レース(第6回富士ツーリストトロフィー500マイルレース)にて、
ハコスカGT‐R国内レース50連勝を阻止するという大金星を上げたサバンナは、そのわずか4カ月後の3月に
米国向けの輸出を開始。

当時国内仕様のサバンナが搭載していた10A型ではなく、12A型エンジンが搭載された米国版サバンナは
RX-3と名付けられホモロゲーションを取得した。

 高出力エンジン搭載によってさらに高性能化されたサバンナは、72年5月にスプリントレース(‘72日本GP)においても
ハコスカGT‐Rに勝利し、ロータリーの優位性を世界中にアピール。

当時は国内より海外において売れ行き好調だったロータリー搭載車のさらなる販売促進に貢献し、
サバンナRX‐3はロータリーのイメージリーダーとして米国向け輸出の大きな柱となった。

30万台近く生産されたサバンナGT。だがその多くは海外向けだった|76年式 マツダ サバンナ GT Vol.2

マツダ RX-3がハコスカGT‐Rに完全勝利したことで、国内でもロータリー人気が沸騰。
メーカーには、RX‐3の国内販売を望むファンの声が殺到していた。

その声に応え、72年9月に発売されたマツダ サバンナ RX‐3は、米国で発売されたものと同じ12A型エンジンに
5速マニュアルミッションを搭載。そして、国内向けにサバンナGTという名が与えられた。

 軽量コンパクトなボディに、1クラス上のカペラ用エンジンを搭載したサバンナGTはツーリングカーレースの王者に君臨。
しかし、当時、サバンナGTという名前は定着せず、輸出向けのRX‐3と多くの人が呼称した。

 サバンナGTは、30万台近く生産されたが、大部分は海外向けであり、国内販売された車体もハードな改造を
施されたものが多く、現在までノーマルのまま残った車体はわずかであった。

ケンメリ総販売台数:67万560台 ハコスカ:31万447台 R31:30万9.716台 R32:29万6.387台


RX3は30万台近く生産されたとの記述があったがその多くは海外向けとある。

「GT-Rを破った」とアピール出来るのは国内のみ通用する話し。

(マツダはGT-Rを倒したと言う事を宣伝に使わない手はないと思っていた、国内のCMなどでは多分使われた記憶は無い。
今の時代で良かったのは絶対あると思っていたレース映像があった。下記↓のURLだが説明は英語だ。折角のCMだが
ハコスカは輸出されていなかった「一部地域を除く」ので“勝った”とアピールしても外人さんにはピンとこないのではないか)

と言う事は国内では“売れた”という台数ではない、私見では当時世間の印象はやはりローターの評判は

エンジンの耐久性においてあまり良い評判ではなかった。

あのGT-Rを破ったRX3なのに中古は昔から思ったほど目にしないし安かった。

個体数としてはある意味貴重な存在ではないだろうか。

PS.逆にケンメリGT-Rは少ないがケンメリGTの個体数はハコスカの倍以上出回っているということになる。

なのにケンメリGT-Rモドキの高騰には納得がいかない。

------------ Bonus -----------

1971 第6回富士ツーリストトロフィー500マイルレース(通算50勝ならず)

You Tube https://www.youtube.com/watch?v=QNhNlZbWF6w 15:22〜

このレースは確かに日産の自滅といって良いレースだろう。詳しくは↑上記URLを見て下さい。

または当HPの表ページに詳細は記してあります。

1972 日本グランプリレース(日産ワークス最後のレース)

https://www.youtube.com/watch?v=-FxRKMD071o&t=15s

GT-Rに勝ったといっても遺恨を残すレースとなった。(問題のシーンはカット スルーされている)

↑上記同様 当HPの表ページに詳細は記してあります。

いずれにしてもこの時日産社内ではすでにレース活動中止は決定事項で勇士での「泣きの一回」的なエントリーだった。

レース展開を見れば黒沢選手が言う「勝てたレース」だと思うがコレ以降の参戦は無かっただろう。


=私見=

ハコスカGT-Rの強さを印象づけるレースは通算50勝となった‘72 3月 富士300キロスピードレースだろう。

台風のような悪天候でレースも短縮されて15周となった。

土砂降りの中 スタートからぶっ千切ぎったのは都平健二選手 次いで高橋国光選手。

タイヤの選択が同じGT-Rでもこの差を生んだようだが 後半高橋国光選手の速さは

15周という短さにも関わらず 2位以下を1ラップ(6kmのフルコース)するという群を抜いたものだった。

↑上記映像でも分かるようにストレートスピードの差と安定性、

反し車重の軽さとエンジン特性が災いしストレート立ち上がりでRX3はスピンする始末。

雨の条件に極端な弱さを露見した。

マシンの素性の明暗が明らかになったレースとなった。

後に黒沢元治選手曰く GT-Rは富士より鈴鹿の方が得意だったというのが意外であった。

いつもレースの場は富士の6kmコースという印象が強い。

最後のレースではストレートのロータリー コーナーのGT-Rというのがよく分かる。

上映像↑でもヘアピン手前 車両のロールの差でも見て取れる。

GT-R:独立懸架 RX3:リーフ(サニーや510も同様 今となってはトラックと同じ)


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