日本グランプリの主戦力がR381となったことで、R380はリスクを負わない立場で活動できるようになっていた。 2リッタープロトタイプという枠組みの中で、技術力を昇華させていく責務を背負ったR380には、むしろ このことは好都合であった。 そしてもうひとつ、R380に好材料が加わった。 1967年末まで大森チーム(宣伝3課、後の宣伝4課)に在籍した黒沢元治が、1968年から追浜契約となり、 R380の開発を受け持つことになったからだ。 メカニズムに精通し、開発ドライバーとしての能力にも長けた黒沢の加入は、R380の開発に大きくプラスした。 谷田部での記録挑戦会の後、R380は出力の向上と耐久性の引き上げを開発の柱に改良が進められていた。 2型改で保留となっていたフューエルインジェクションも、ベンチテストが順調に進み、1968年1月末には グランプリ用の3型が完成していた。 3型によるグランプリ参戦は、総合優勝を争う本来の参加意義とは異なったもので、 2リッタープロトタイプとしての完成度を問うべく三たびポルシェとの対決を試み、 これによりR380の実力を測ろうとしたところに狙いはあった。 3型は、インジェクションの装着によって240ps前後の出力レベルを持つようになり、 24時間連続フルスロットル運転も開発の目標として掲げられるようになっていた。 さらに、遮音、遮熱、ベンチレーションといった居住性能面の改善も要求性能に加えられ、 ル・マン24時間レースを意識した車両開発態勢となっていた。 この状態で富士スピードウェイのラップタイムは1分59秒台。 新たにワイドタイヤ(リア)が手に入るようになってからは、コンスタントに1分57秒台を記録し、 ベストタイムは1分56秒台まで伸びていた。※R381と同サイズになりタイムアップした。 R380の富士テストは、当然ながらR381との混走になっていたが、R381の調子が多少悪かったりすると 「前がつかえてタイムが伸びない」と黒沢がボヤくこともあったというから、 その仕上がりぶりはかなり順調だったと言えるだろう。迎えた5月の第5回日本グランプリは、 タキレーシングからエントリーした生沢徹のポルシェ910、片平浩のポルシェ906が当面のライバルとなっていたが、 5.5リッターのR381が未完、3リッターのトヨタ7が不調、6.3リッター/5.8リッター/5.5リッターの タキレーシングのローラ3台が早々につぶれたことで、戦前の予想とは裏腹に2リッタープロトの 生沢のポルシェ910と黒沢のR380は、総合2番手、3番手を争うところまでポジションを押し上げていた。 レース中の黒沢は1分56秒4のベストタイムをマーク。ポルシェ910に打ち勝った予選タイムの1分56秒8を上回り、 3型が持つ実戦スピードの速さをいかんなく発揮していた。 しかし、残念ながら、総合2位、ポルシェ910に勝てる気配が見えてきた終盤戦、 クラッチの操作系が突如壊れてしまったのだ。通常ならリタイアとなる場面だったが、 黒沢は残り20ラップをノークラッチのまま操り、R380を3番手でゴールまで導いていた。 このあたりは黒沢の個人技以外のなにものでもないが、R380陣営に前回グランプリのような敗北感はなく、 むしろついに実力でポルシェを上回ったという充実感が満ちていた。 第5回日本グランプリで自信を深めたR380が目指したものは、長距離耐久レースにおける2リッタープロトタイプ としての完成型だった。富士スピードウェイにおける500km規模のスピードレースでは、すでにポルシェと互角か それ以上という自信を持っていたが、1000kmとか12時間、24時間といった長丁場のレースは一度も体験したことが なく、これがR380の盲点となっていた。こうしたことは、当のR380陣営も自覚していたようで、この年から 富士1000km、鈴鹿1000kmといった国内の名だたる長距離耐久レースにも積極的に参戦する姿勢を見せていた。 一方、グランプリの走行結果から得られたデータを基に、以下のような改良のプログラムが考えられていた。 1.最高速度の引き上げ 2.エンジン出力の向上 3.ヘッドライトの照度アップ 基本的にはグランプリ参加時の状態で、R380の熟成作業は大半が終了したものと思われていたが、 鈴鹿サーキットに持ち込んでのテストで、新たにオーバーヒートの問題が浮かび上がってきたのだ。 富士に比べて中速域が多く、しかもエンジン回転の高い領域を多用するコース特性が影響して、これまでの 冷却容量や対策では、追いつかなくなっていたのである。 そして、さらに深刻だったのは、黒沢元治が指摘した「フレーム剛性不足」の問題だった。 左右の旋回Gが大きくかかる鈴鹿では顕著に表れ、このままでは所期の戦闘力が得られない、 という結論にまで達していた。本来は新しいフレームを設計して対応すべき問題だったが、 すでに現行型を熟成させることでプロジェクトの基本路線が決められていたR380では、重量増加を覚悟の上で フレームの強化を図る手段が残された最善の選択肢となっていた。 最高速度の引き上げに関しては、3型のカウル形状が正否双方の結果をもたらしていただけに、 2型以降の改善実績も参考に、新たなカウル形状の開発に手がつけられていた。 ⇒ 同時にライトの照度アップの問題にも対応した結果、デュアルヘッドライトを持つ3型改が誕生することになった のである。3型改は1968年10月のNETスピードカップに3型とともにデビュー。 3型改3台、3型1台による参戦だったが、よく見ると3型改に2つの形があり、形状違いを走らせることで、 さまざまなデータを集めようとするR380陣営の動きが表れていた。 結果は、格上のローラT70、トヨタ7に次ぐ3位以下を占め、改めてR380が持つ能力の高さを示すことになったが、 なにより3型改が高速性能に優れることが確かめられ、開発陣にとって大きな収穫となっていた。 すでに同クラスのライバルが見あたらなくなっていたR380にとって、最後の晴れ舞台となったのは1969年11月の サーファーズパライダイス6時間レース(オーストラリア)だった。日産の純レーシングカーにとって初となる 海外レースは、R380にふさわしい6時間耐久レースで、地元のグループ7カーを相手に戦う舞台設定となっていた。 しかし、全開走行を長時間維持できるR380の信頼性は、ライバルたちに自己破綻を誘発させ、気がつけば 6時間レースのゴールを1、2フィニッシュする余裕をもっていた。 ポルシェに敗れ「速いマシン」を目指して開発が始まったR380は、気がつけば負けない「強いマシン」として 完成型にまで登り詰めていた。諸々の事情により、世界にはばたくチャンスは奪われてしまったが、世界最強の 2リッタープロトタイプの称号は、間違いなくこのクルマに与えられるべきものだと今も信じている。 ポルシェの登場に衝撃を受け、常にその背中を追うようにしてモーターレーシング活動を続けてきた 日産(プリンス)にとって、熟成を重ねたR380が、その指標であった906や910と互角かそれ以上の戦いを 繰り広げた第5回日本グランプリの内容は、ひとつの目標達成点として高く評価できるものだった。 R380は、その後も改良を積み重ねて珠玉の域に達していくが、グループ7カーの時代を迎えた 日本のモーターレーシング界にあっては、すでに主役の座を務めるほどの余力は持ち合わせていなかった。 日産初のグループ7カーR381は、こうした状況下で企画された車両だった。 =Webより抜粋=
1968年 5月の'68日本GP(富士スピードウェイ)にR380A-IIIが3台出場。黒沢元治の21号車が3位、横山達の22号車が4位、大石秀夫の24号車が5位。
7月の富士1000kmに続き9月には鈴鹿1000kmに出場し、鈴鹿サーキットを初走行した。10月のNETスピードカップでR380A-III改が登場した。
1969年 5月のフジスピードカップ、7月の富士1000kmに出場。11月にオーストラリアのサーファーズパラダイス・サーキットで行われたシェブロン6時間レースに出場し、高橋/砂子組が優勝、北野/黒沢組も2位となり、ワンツーフィニッシュを果たした。
1970年 7月に北海道スピードウェイ(後の白老カーランド)のオープニングイベントに出場。9月の富士インター2000マイルに出場し、北野がフェラーリ・512Sに次ぐ2位に入賞した。