※Webからの引用ですが雑誌社だったか 青地さんだったか 黒沢さんなのか分からなくなってしまいました、あしからず。

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「日産プリンスR380」に搭載された「GR8」は開発当初は200PSを少しオーバーするパフォーマンスであったが

最終的には255PSまで馬力が向上した。

そして GT−Rに搭載された「S20」エンジンは 当時から盛んに「R380のエンジンをディチューンした」と宣伝されていた。

実は「GT−Rとロータリー」のサーキットでの歴史を語り あと二回で終わりを告げるはずであったが 昔から言われ続けていた

「S20エンジン排気量」に絡んだ動きについて 関係者が多く語らない事実をここに残しておきたい。

ロータリーとの過激な戦いの中で メーカー内部にどんな葛藤があったか・・・

まずは「S20エンジン」の真実であるが・・・

この「S20」という呼称は 日産のエンジン呼称である事は、明白な事実であるが本当の名称は「GR8B」であった。

つまり このエンジンはまったくのプリンス技術陣オリジナルのエンジンであったのだ。

ハコスカの前の世代のスカイライン2000GT−Bに搭載されたエンジンは「GR7B」。

そのレース仕様のクロスフロー化されたエンジンは「GR7Bダッシュ」と呼ばれていた。

R380のエンジンは、明らかにそのエンジンの流れを汲むモノである事が エンジン呼称を見るだけでも分かるであろう。

そして GT−Rのエンジンも本来の名前「GR8B」からも確かにR380の流れを引き継ぐもの・・と推測されるのだが。

しかし レース用のエンジンをそう簡単に市販車向けにできる訳はなかった。

実際には「GR8をベースに、すべてを設計しなおしたエンジン」であったというのが正解なのだ。

カムシャフトの駆動方式、シリンダーヘッド・バルブリフター・潤滑油のウエットサンプ化・ヘッドカバーなどなどベースにしたとはいえ

その変更点は本当に多義に渡るのだ。

だから 単純に「ディチューンしたエンジン」という表現はいささか誇張した言い方であったといえよう。

そして 意外に知られていないのは排気量がオリジナルの「GR8」が1996ccなのに対して「S20」は1989ccと

ストロークが0.2mm短かったのである。

さらに「ウエットサンプ」によって潤滑油量の確保の為にオイルパンの真横に溶接で四角い「箱」をつける・・・

といった いささか急作りな造りも見受けられるのが興味を惹く。

ロータリーとの戦いが激しくなるに従って、だんだんと改良の余地が少なくなって来ていった。

それでもレースで勝利を続けるGT−Rに対して 実は排気量を大きくしたらどうか・・・という構想が芽生え始めていた。

一年に満たない期間にローターリーが台頭してきて なかなか単純には馬力の向上が難しくなってきていたからだ。

しかし 実際には排気量のアップは行われず他のプロジェクトが進んでいたのである。

そのプロジェクトとは 「L24換装計画」 であった。

実はクラスが異なるが フェアレディ240Zのレーシングバージョンが
71年4月25日 富士GC 第1戦 富士300キロで240Zは高橋国光によって 2分の壁を破った。

一方のGT−Rは数々の改良が加えられていたが どうしても2分の壁を破る事はできなかった。

それにだんだんと厳しくなる「排出ガス規制」にも DOHCという構造から苦労する事は目に見えていたので

フェアレディで上手く行ってるのならGT−Rにも・・・ というものであった。

早速 車両重量やギアレシオなど考えられるデータ全てを使って富士の6Kmのラップタイムをコンピューターで割り出した。

「S20」253PS/8500rpm  21.94Kgm/6800rpm  ラップタイム2分02秒37 パワーウェイトレシオ:4.03
「L24」236PS/7000rpm  24.70Kgm/6800rpm  ラップタイム2分03秒62 パワーウェイトレシオ:4.24

L24の方が馬力は小さいがトルクが大きいので さぞかしタイムが向上するであろうと考えられていたのが実際には余り大きな差が出ず

逆に最高出力がより高回転の位置で発生する為に ギアリングが低く設定されている「S20」の方がコーナーの立ち上がりでも有利で

ストレートでも馬力が「L24」より大きいので「S20」の方が速く走れる・・・ という結果になってしまったのだ。

まさにクルマの成り立ちの違いで「フェアレディ」の様な結果が得られなかったのであった。


実はこの結果について 日産側には大きな「失望感」があったのだが「旧プリンス」からGT−Rに携わっていたメンバーからは

安堵の声が聞かれたのだった。

その声とは「S20DOHCを搭載してこそGT−Rとしての存在意義があるのに いくら速いからと言ってSOHCのL24を積んでは

GT−Rの意味が無くなる・・・」というモノだった。

確かに ここでL24の搭載車のデータが良く 実際に積まれていたなら・・・

GT−Rというクルマの評価は大きく変わっていたかもしれないだろう。

変わって浮上したのは一端は消えた「S20」の排気量アップであった。

この頃は「公害対策」が佳境を迎えていて、大きな改造が難しくなって来ていたので

「S20」で出来得るボアのアップで対応する手段が考えられていた。

(同じクラスで走っているS20は1.989ccに対し 12Aはレシプロ換算で2.292ccと排気量のハンデがあった)

しかし ブロックに余裕がある訳でなく結果として 「2200cc」がやっと確保される程度となったのだが それでもテストでは馬力が簡単に

「270PS」が得られ エンジン単体ではトルクカーブもフラットになっていたがヘッド周りが2000ccと同じ為に 吸排気の効率が

排気量アップ分に付いて行って無く このままでは燃焼効率の悪化が避けられずヘッド周りの改造が必要と判断されたのだった。

さらに実車に搭載した試験では やはり排気系の取り回しのせいか クルマに載せるとトルクカーブの山谷が大きく 

そこからもヘッド周りの改造が必要と判断されたのであった。

さまざまの試行錯誤が繰り返され 最終的には吸気側「多球形」 排気側「ペントルーフ」という世にも奇妙な形状の時

馬力もトルクの特性も実車で一番良い結果が出たのであった。

ある時その改良型のヘッドを2000ccのシリンダーの上に載せて回して見ると・・・

何と馬力もトルク特性も大幅に向上したのであった。

考えてみると それは当然でその結果から排気量はそのままでヘッド周りを改造し 燃料の圧力とカムシャフトの見直しで

「264PS」 が得られたのであった。

大きな遠回りをして、実は「2000cc」でレシプロノーマルアスピレーションで最高のパフォーマンスを得るに至ったのであった。

これまで述べた様に ロータリーとの激闘の中で「L24換装」の計画や「排気量アップ」の計画が進行していたが

実はそのどれもが日の目を見なかったのだった。

もしそのどちらかが存在する事になっていたのなら・・・「2400GT−R」や「2200GT−R」となっていたのなら・・・

ハコスカのGT−Rの評価は今の様になっていただろうか。

特に 「勝つ」 為とはいえ、「L24搭載化」に付いては 正直に言っていままで公にしたくなかった事実であった事は

容易に想像が付くだろう。

しかし ここで得られたヘッド周りの改良によってGT−R最後の逆襲が行われるのであった。

それは 新しいスカイラインが出た翌月の10月の出来事であった。


進化 !KPGC10 GT−R見参

1970年の春、日産村山のテストコースを1台の覆面をしたクルマが走っていた。

そのクルマこそが、日産ワークス待望の型式名「KPGC10」2ドアハードトップGT−Rであった。

通常 4ドアベースのクルマを2ドア車、しかもHTに仕上げると重量が増したり ボディ剛性が悪くなるのが通例だが

このGT−Rだけは違っていた。

その秘密は・・・ ボディサイズを見れば一目瞭然であった。

4ドアGT−Rに比べて 全長は65mm短く 幅は55mm広く 全高は15mm低くしつらえていた。

なんと言っても回頭性の向上の為にホイールベースが70mmも短縮されていたのだ。

なぜ日産は通常居住性や生産性の悪化を恐れて 同じ車種にサイズの違うクルマを造る事を嫌う中で運動性を上げるためとは言え

ダウンサイジングをしたのか?

ここに興味深いデーターがある。

KPGC10
馬力250ps、車両重量1030Kg、空気抵抗係数0.00516 パワーウェイトレシオ 4.12
ファミリア・ロータリー・クーペ
馬力200ps、車両重量810Kg、空気抵抗係数0.00389 パワーウェイトレシオ 4.05
カペラ・ロータリー・クーペ
馬力230ps、車両重量930Kg、空気抵抗係数0.00422 パワーウェイトレシオ 4.04

いかにHTになったとはいえ それでもGT−Rは重く空気抵抗の大きなクルマだったかがこの数値から分かるだろう。

当時の日産のコンピュータ解析によれば 富士を同じラップで走行するにはGT−Rに比べて

カペラは30PS低い馬力で ロータリークーペに至っては50PS低い馬力で可能である・・・と割り出されたのである。

もちろん クルマは馬力だけで性能が決る訳ではないのだが このデータを取ってもロータリー勢は手ごわい相手だという事が

分かるだろう。

GT−Rは エンジンの馬力向上と空力の改善でこれらのライバルに対抗していたのだ。


10月23日 日産は富士スピードウェイを借り切り HT GT−Rに4ドアGT−Rから移植できる部品を全て移植して

初めての走行テストを行った。

そこで、改めてHT化による性能の向上が著しい事が判明した。

まったく無理をしないで 軽く流してなんと4ドアGT−Rのベストラップと同等かそれ以上のタイムを叩き出していたのだ!!

あまりの性能の向上に ドライバーの感覚が付いてゆけず 4ドアのつもりでガスペダルを煽るとオーバースピードになってしまい

ついには100Rでクラッシュしてしまった・・・

ここで新たに幾つかの問題が浮き彫りになった。 それは・・

1).空気抵抗が減った事により 回転数の上昇が早く 
   速度も高くなるのでエンジンの回転数が平均500rpm/min-1ほど高くなってしまった。

2).4ドア用のフロント24mmのスタビライザーでは 高速コーナーではアンダーステアが強く走りにくい。

HTボディ形状による空力の大幅な改善により より高速走行が可能になったGT−Rであったが 逆にこれまでとは違ったアプローチが

必要になったのだ。

まずは空力だが 従来の4ドアよりフロントの「揚力」が多少増加傾向にあったので対策が必要となった。

しかし、空力的パーツの開発には時間が間に合いそうに無かったので タイヤの幅の拡大と適切化によって空力的な面と

アンダーステアの改善に努めることにした。

この時 HT用にフロント8.5インチ、リヤ11インチのタイヤが採用される事になった。

さらに エンジンの回転の上昇スピードが早くなった代償に クラッチの問題が発生するようになった。

クラッチのボルトが破断するようになったのだ。この対策にはボルトの形状変更や材質の変更を何度も行い

なんとか対策できるようになった。

これらの対策が施されたHT GT−Rは 1971年3月に入ってすぐの走行テストでは最初のテスト時より2秒以上タイムが

向上するようになっていた。


そして3月7日 ついにサーキットにHT GT−Rがデビューした、ドライバーは「黒澤」。

ここでも GT−Rはライバルをものともせず優勝したのである。

続けて3月は21日、4月は11日、25日とHT GT−Rは連勝し 「40勝」をマークした。


そして5月 伝説の高橋と長谷見の0.02秒差というワンツーフィニッシュの日本GPへと繋がったのであった。
('71年日本GPについてはhttp://carlife.carview.co.jp/User.asp?UserDiaryID=207014をご覧下さい)

ここまで不振のロータリー勢だったが カペラの投入が決り馬力でも空気抵抗の面でもGT−Rに充分に勝てる!

と「マツダ」は踏んでいたのだが・・・

翌年からは、レース用に開発がされていた「ペリフェラルポート」が禁止されてしまった。

禁止された「ペリフェラルポート」の代わりとして 市販車と同じ「サイドポート」でいかに馬力を出すか・・・

この回答を求めるために「マツダ」も苦心を続けていく事になったのだった。

end


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