Recent Conditions P - 38

平成28年4月18日(月) 我がハコスカライフも

終わったようだ。

遂に恐れていた事が起こった。

通勤途上でもらい事故・・・

□白枠は私のハコスカ、右折の為停止状態 □黄枠直進の商用バン(中年女性) □赤枠一時停止無視のじじぃ

じじぃが一旦停止無視で優先道路を走っていた商用バンの横っ腹に接触。

その反動で私のハコスカにオフセット衝突のような形でノンブレーキ衝突。

商用バンも細い道なのでそんなにスピードは出ていなかった。

強烈な衝撃は覚えているが一体何が起こったのか理解出来なかった。

エンジンを切り 出て行こうとするがドアが開かない。

すぐに渋滞が出来たのでハコスカを移動させようとするが動かない。

事故を起こした同士はクルマから出てこず止まったまま。

何とかハコスカから出て当たった右前を見るとタイヤがあらぬ方向を向いているではないか。

私のハコスカは移動出来ない事を悟り 完全に今の状態では道を塞いでいる状態なので

 渋滞が出来始めていた、他の2台の移動を促した。

ハコスカ以外は自走出来る状態で主犯のじじぃのクルマはバンパーのバンの車体色が付いているだけ。

じじぃ曰く「まさかクルマが来るとは思わなかった」

と言う事は一時停止もしておらず確認もしていない事を証明する証だ、何より私が現認している。

口を開ける度に同じ事しか言わない。

こんなヤツが平気に自転車感覚でクルマに乗っていると言う事はまさに狂気 凶器。

レッカーが来るのに時間が掛かりそうなのでハコスカの状態を見てみた。

どう考えても“終わった”と悟った。

旧車が直面する事は保険屋の査定金額、そして修理先。


ただ言える事は100:0のもらい事故 「元通りにして欲しい」だけ。

そのためには一切の妥協はしない。

あるパーツはすべて新品で組む、治せるだけのパーツはストックしているがそれを使うつもりは無い。

いくら掛かろうが私には関係ない話なので、保険会社には治す責任を果たしてもらう。


今のところやっと自分の思い描くハコスカにココまで仕上げて(内外含め)このように心無い第三者の手によって大破。

これは私の人生においてどういう意味を持っているのだろうか。

今のところ 心がポッキリ折れた。

ひとまずは“幕”と言う事でこのホームページも終了としたい。


子供たちが自立し年金を貰うようになったら家内と二人で旅行へ行こうと言う目標も

私が死んだら運転席に遺体を乗せハコスカもろとも焼いてくれと言う夢も潰えた。

こんなカタチで終えるとは思わなかった、理不尽過ぎる。


損害賠償を担当する保険会社はTVなどのCMでおなじみ

「損保ジャパン」

私に非が無いとばっちり事故物件に対し

どのような対応してくれるかは今後ココで報告させて頂きます。

加入会社の選択の参考にして下さい。

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パソコンが不調でしばらく使っていなかったが見事復活!

久々にWEBで画像検索してみたが見事に我が秘蔵映像の転用を多く見る。

別に良いのだがせめてココから転用ぐらいは書いて欲しいもんだ。

我がモンのように使っている、外人さんは偉いねぇ〜

SAKURAさんから と書いてくれている。

私ごときがいろいろ書くのはおこがましいとこのホームページを立ち上げる前に

WEBを見たがハコスカを掘り下げているモノが見受けられず中途半端なものばかり・・・

私なりに作り始めました。特に当時の資料を中心に・・・

しかし 未だ同調出来る勇士も非常に少なく気持ちが折れつつあります。

私は自分の道を進むのみですが 気にしないようにしている事に慣れてきました。

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USでもモータースポーツ全盛の頃Can-Amレースがあった。

https://www.youtube.com/watch?v=bce03llwGZc

1967 Can-Am racing series Elkhart Lake

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今日 午後9時半ごろ熊本で大きな地震があった、たまたまNHKを見ていたのだが

被害を受けた方々には少しでも軽度であるよう願っています。

時間の経過と共にその実状が次々と分かってきているが民放を見る限り

読売は見直した、CMも入れず淡々と報道していた。

呆れたのはやはり朝日・毎日だ、新聞と同じクソだ。

この非常時にちゃんとCM入れてやがる。

こういう時に局の性格が露見する。

せめてそぐわないふざけたCMは控えるとかの配慮があってしかるべし。

関西TVも未熟さを露見した、中途半端な映像を何度も何度も・・・

テレビ大阪だけは通常通りの番組を垂れ流していた、メディアとしては失格。

やはりこういう時は国営放送かな。

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「読売は見直した」と↑上記したが訂正。

他の局が深夜から朝方に掛けて地震の報道をしている中 読売だけが3時から

カラオケ番組のようなモノを垂れ流した。

民放はどれもクソだ 終わってる。

国営放送は良いと言っている訳でなく “当たり前”の事だ。

阪神大震災の時 メディアのキャスターどもは東京での放送でまるで外国であった出来事のように

報道していた事を私は忘れんぞ!

そいつらの名前を列挙したいぐらいだ。

我先に駆けつけるくせに援助物資の多少でも持って行ってるのだろうか。

おそらく ソレは我々の仕事ではなく 現状を伝える事が本分だ ぐらいの意識しかないだろう。

被災地に行って陳腐な質問を投げかけ 同乗して泣いてた女キャスター、それから再び被災地に

行った事があるのか!被災者の為に多少でも寄り添う行動を起こしたのか 甚だ疑問である。

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待機児童問題が未だ続く中 千葉県である問題がメディアに取り上げられていた。

建設予定の比較的大規模の保育園が住民の反対で中止になったというものだ。

住民側は道の幅が狭く危ないというものや 説明が不十分というのが理由らしい。

確かに狭い道のようだが市の許可も降りており着工待ちで市の方も待機児童の解消に期待していた。

各局を見てみると要は閑静な住宅街に子供がうるさくされるのがカナワンらしい。

以前 小学校の前に住んでいる老人が子供の声がうるさいと裁判を起こした件があった。

ジジィでもこんなヤツが居るのかと失望したが 今回の一件では街ぐるみでこの有様。

今の若いヤツのモラルが低下しているのは当然だがどの年代まで腐っているかを

さかのぼって見ると「団塊の世代」から大きく腐り始めているような気がする。

やはり大きな影響を与えるのは“親”だろう。

人の事をとやかく言わなくなった現在 私が育った時代は“昭和”であり ウチの周りには

コミニティが面々と受け継がれており 隣のオッサンにも良く怒られたものだ。

ソレはその児の為に良かれと思うからこそ叱ってくれるのであって

今は個を尊重するというタテマエで「良いんじゃない」と受け流すのが多い。

私にとっては「(自分には関係ないから どうでも)良いんじゃない」としか聞こえない。

日ノ本の魂は何処へいったんじゃい。大丈夫か日本。

ゴミ処分場や震災の廃材、皆で助け合ってというが いざ自分の地域に来るとなると

ソレは反対。薄情な人間が増えたものだ。

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TVは春の番組編成時期らしく○○スペシャルやら○時間特番の雨嵐。

大まかにはグルメモノ、動物モノ(特に子供やネコ)、旅モノ・・・

番組を作っているヤツもいよいよ終わってる、頭も腕も無い。

見ていてイライラしたりストレスが溜まってくるのは私だけだろうか?

そんな作り方をして随分久しい、と言う事はコレで良いという事と思っているのだろうか?

政治家と同じだ、狭い世界に閉じこもっていると世間と感覚が違っている事に気が付かない。

またある局が番組に寄せられる意見を紹介していたが コレもまた「頭がお花畑」の輩に驚く。

年末のマジックでジャリトラに轢かれても大丈夫的なものが有ったが 子供が見て轢かれても

大丈夫と思うと困るのでそういったモノは放送しないで欲しいと言う抗議が有ったそうだ。

どう思う? アホちゃうか! 

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=またまた やっちまった=

この前 ハコスカでバッテリーあげたところなのに 今度はサニトラでやってしまった。

ココ最近 家路に付く頃は朝6時頃、ヘッドライトが要らないぐらい明るい。

ポジションを点けて帰る事が多くなった。

何を慌てているのかまたまた消し忘れのバッテリーあげ・・・ 情けない。

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今日通勤途中で んっ??? と思うクルマが私の後ろについた。

それは実に懐かしい面構えだった。

日産・セドリック

初代 30型系(1960年 - 1965年)

日産・セドリック(初代)
30型系
1900カスタム(前期型)
カスタム(後期型)

販売期間 1960年4月 - 1965年10月
乗車定員 6人
ボディタイプ :4ドアセダン・ステーションワゴン・ライトバン

ライセンス生産が行われていた日産・オースチンA50ケンブリッジに変わる純国産中型乗用車として開発。
ラップアラウンドウィンドウと呼ばれるサイドに回り込んだフロントウインドシールドと前傾したAピラー、
縦型デュアルヘッドランプやテールフィンなど、アメリカ車の影響を強く受けたスタイルが特徴。
リアコンビネーションランプをはじめとするリアエンドのスタイルにはピニンファリーナがデザインしたオースチンA60
ケンブリッジ(1961年 - 1969年)の影響も見られる。
日産初の一体構造車体(ユニットボディ = モノコックボディ)を採用。

家族らしき人たちが乗っているようで実に良い雰囲気であった。



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=やっちまった=

仕事を終わり帰路につく頃 最近はヘッドライトがいらないようになってきた、ただポジションは点けている。

いつもは少しの時間だがハコスカを楽しんで乗っているが 今日は仕事の事で考え事が有り頭を離れなかった。

家に着くと車庫に入れ就寝。

翌日 いつものようにエンジン始動しようと思ったらバッテリーのインジケーターがになっている。

「んっ??」・・・ メインキーを回してもセルが回らない・・・ “カチッ”ともいわない、電装トラブルか? と思ったら

ポジションになったままである事に気がついた。「久々にやっちまったな」

こういうときに限って家内はクルマで出ていてブースターが使えない。

寝起きのボーっとした頭で考えた後「JAFを呼ぼう」と連絡した。

「只今大変込み合っていまして1時間ほど掛かります」という事だ 仕方ない。

運転席でうららかな日和でボーっとしながらコーヒーとタバコでしばらくのんびりとした至福の時。

30分ほどでJAFが来た 「早いじゃん」 4〜5年前に確かお世話になったかなぁ〜

依頼の電話でメーカーや車種を聞かれる 日産のスカイラインですと伝えた。

以前の時もJAFの隊員は「スカイラインってハコスカですか」と同じリアクションだった。

ブースターで一発始動 「綺麗なハコスカですね このくらいのクルマに乗っているユーザーだったら

オイルレベルやその他のチェックしなくてもやっておられますね」と言うので「勿論結構です」と。

JAF隊員:「いやぁ〜 いい目の保養をさせてもらいました 有難う御座いました」と言うので

私:「いやいや こちらがお世話をお掛けしたので御礼を言うのはこちらです」

という嬉しい会話をした後に通勤の路についた。

サクラの花ももう少しで咲きそうな並木を走りながら もうすぐ春らしくなるな と思いながらの通勤であった。

しかし 久々にやっちまったぁ〜

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ウチに集荷に来る宅配の兄ちゃんが「ケンメリですか?」と聞かれた、「ハコスカです」

若い子はやっぱり知らないんだな。

通勤で最近思う事は注目を浴びなくなった事
(デアゴスティ−ニでハコスカをやたらTVで宣伝していた時だけは土日祭日は流石に注目された感があった)

対向を走っているドライバーは余裕が無いのか真っすぐ見ていて視線をこちらに向ける事はまず無い。

良く考えればオヤジの世代が現役の年齢(88歳一昨年没)だと考えると無理も無い話しかも知れない。

その年代の前後と言っても七十代・・・

でもそんな環境にも慣れ イチ大衆車として町並みには溶け込んでいるのではないだろうか。

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=洒落にならん=

夕方のワイドショー?のコーナーで視聴者の投書で

「朝の通学時間に交差点の右折時に歩道を走ってエスケープしている危ない車がいる、調べて欲しい」と言うものだ。

番組スタッフが数日に渡って張り込みをしていると黒の軽ワンボックスが毎日やっているではないか。

ドライバーを見てみると な な なんとオンナではないか!

顔にモザイクが掛かっているのでお姉さんかオバハンか分からない。

本人にインタビューを決行する為 あとを追跡、止まった先が鳴門警察署。

オンナに歩道を走りましたかと聞くと「歩道は走っていません」を繰り返す。

数日間にわたりスタッフが見ていると話すと「携帯が鳴ったので歩道に止まった」と言い分が変わった。

毎日同じ歩道を走っているのは現認していると話すと「毎日同じ場所で携帯が鳴る」と言う。

歩道は走ってはいけない事はご存知ですか?とアホな質問をすると「いけないですね」と平然と答えた。

鳴門警察には何の用ですか?と聞くと「ココが勤め先だ」と言う。

交通安全協会の嘱託職員との事だ。

そんな仕事についているヤツが毎日こんな事をやって 問い詰めると平気で嘘をつく。

この部署のコメントとして「今後このようなことの無い様徹底指導していきます」だと。

コイツに対する処分は無いのか 甘いな 解雇相当だ。

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そう言えば仕事帰りでよく会うスクーター、毎回コレと同じようなことをするヤツがいた。

私の息子をLineで悪口を書いていた3人衆もオンナだった、しかも小学校からのなじみ。
(息子には携帯を持たせていない だから標的にしたようだ)

アレもコレもオンナだ。ゲッスい時代になったモンだ。

すぎ!

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Steve McQueen

1962年のセブリング・インターナショナル・レースウェイで行なわれた12時間耐久レースではスターリング・モス、
ペドロ・ロドリゲス、イネス・アイルランドと共にチームを組んで参戦。
その前座で行なわれた1000cc以下の車に限定された3時間耐久レースではオースチン・ヒーレースプライトMk.2にも
乗っていた。このエピソードは、『カー・SOS 蘇れ!思い出の名車』シーズン3第3話で語られている。

1970年3月にはピーター・レブソンと組んで再びセブリング12時間レースにポルシェ・908/2で出場し、
マリオ・アンドレッティ、イグナツィオ・ギュンティ、ニーノ・バッカレラ組のフェラーリ・512Sに遅れることわずか23秒で
総合2位、3Lプロトタイプのクラスで優勝している。レブソンが12時間の大部分をドライブした結果ではあるものの、
マックィーンは本番の10日ほど前にバイク事故で左脚を骨折し、ギプスをはめたまま出場していた。
このことから「映画スターにならなかったら、世界有数のドライバーになったにちがいない」と言うプロドライバーもいた。

自身の出演した「栄光のル・マン」ではサルト・サーキットでのロケに際し、当時の花形ドライバーに混じって実際に
マシンを走らせた。本人は実際に1970年のル・マン24時間レースにポルシェ・917でジャッキー・スチュワートとの組で
参戦する意向であったというが、所属するソーラー・プロダクションや保険会社、スタッフ等周囲からの強硬な反対に
遭って実現せず、本人はル・マンに出られなかったことを生涯悔やんでいたという。
後に息子のチャド・マックイーンが出場を果たしている。

マックイーンは、飲酒運転で逮捕された際、その写真撮影でピースサインを行い、公権力を挑発した。

Wikipediaより


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