ラストアレスター・ラストストッパー同等・電子防錆装置
Corrosion Predator(電子防錆・防腐食装置)
・錆と腐食を電気的に防ぐCorrosion Predatorの新品・未使用品です。 ・アメリカで購入してきました。新品・未使用品です。 ・自動車大国のアメリカでかなりの人気商品なので信頼性も高いです。 ・バッテリーとユニット本体を接続し、端子をボディーの4箇所(前後左右)につけるだけです。 ・これだけで錆と腐食から車体を守り塗装の色あせなどの進行も遅らせます。 ・「ラストアレスター」等と同様の製品です。 ・ですが「ラストアレスター」は高額でしかも数年でアノードを交換しなければ効果がありません。 ・この製品はアノードを介さず、直接ボディーに端子を密着させるタイプですので半永久的に効果が持続します。 ・この製品は錆・腐食傾向を最大95%減少させることができます。 ・愛車の電気系統への影響もありません。 ・ユニット内に過電流・逆電流を遮断する機能があるので安心です。 ・12Vで4チャンネル仕様です。 ・各チャンネルごとにインジケーターがありますので通電状態を確認できます。 ・取り説は英文ですが図もありますし取り付けも簡単です。 ・ボディーをいくら強化しても錆や腐食があれば意味がありません。 ・愛車を長く乗りたいと思う方、宜しくお願い致します。
S8・1・15生 江戸っ子。父親は秋田雨雀の弟子で清藤森夫というペンネームの童話作家であった。太平洋戦争の空爆で家を焼かれ、神奈川県茅ヶ崎へ疎開し、そのまま茅ヶ崎に居つく。藤沢高校から明治大学商学部へ進む。昭和30年卒業後、オートバイメーカーの陸王に出入りして、33年の第3回浅間火山レースに出場する予定でいたが、メーカーがつぶれてご破算になった。第1回日本GPジャガーEタイプで出場、優勝。その夏プリンスファクトリーに入る。スカイライン2000GTで主に活躍し、41年第3回日本グランプリではR380で4位に入った。第4回日本GPスカイライン2000GTでは総合優勝を飾った。同年10月には谷田部でR380Uで7つの国際スピード記録を保持。ニッサンレーシングチームキャプテンを務め(1970迄) レーシングアドバイザーとして後輩の指導に当たる。スクーデリアニッサン創設 1998年死去。
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に横山達氏の記述が載っていない事が驚きだ。
日産第3実験課⇒特殊車両部第1実験課〜ラリー専門 プリンスのレース部隊⇒第2実験課として日産レース部門
第2実験課の実体は村山にあった元プリンス自動車の工場を拠点とする。 追浜の特殊車両部の所属という扱いで、村山ワークスと呼ばれることは殆どなくて、あくまで追浜ワークスと呼ばれていた。
追浜ワークス(村山ワークス)
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より 追浜ワークス(おっぱまワークス)とは、1960〜70年代の日産自動車のワークス・チームのうち、横須賀市の追浜工場内にある日産の総合研究所配下のチーム、また同チームと契約を結んでいたドライバー達のことを指す。
概要 :1963年に同社内に実験部第3実験課が創設されたのを「追浜ワークス」の実質的な起源とするのがメディアでは一般的である。初代課長(実質的な監督)には、1958年にオーストラリア・モービルガス・トライアルで日産がクラス優勝を飾った時のドライバーである難波靖治が就任した。
さらに1966年には日産がプリンス自動車と合併したために組織改編が行われ、それまでの日産側のチームが「特殊車両部第1実験課」と名称を改めラリー活動に専念することになり、サーキットレース用の車両については旧プリンス側のチームである「特殊車両部第2実験課」が担当することとなった。旧プリンス側の部隊については、本拠地は追浜ではなくプリンスの村山工場内に置かれていたが、当時メディアではこれら特殊車両部全体を指して「追浜ワークス」と称していた。
第2実験課は日本グランプリ参戦用の車としてR380〜R383に至るプロトタイプカーの開発を担当。一方で第1実験課はサファリラリー等の国際ラリーに出場する車の開発を担当していた。いずれにしても日産社内では「一軍」としての扱いであった。
1970年には「排ガス対策の開発に集中するため」という理由から日産本社が日本グランプリへの参加を取りやめたため、第2実験課がそれまで二軍の大森ワークスが担当していたツーリングカーの開発にシフト。スカイライン2000GT-RやフェアレディZの圧倒的な強さに貢献するが、1974年にオイルショックの影響から日産がツーリングカーレースへの参戦を取りやめると、第2実験課は実質的な活動を停止。
1970年代後半には、日産社内のモータースポーツ関連の予算が大幅に削減されたため、村山の第2実験課が解散し、追浜の第1実験課に機能が統合された。しかし第1実験課によるラリー活動は続けられ、1979年から1982年にかけてはサファリラリーで総合4連覇を達成している。
1980年代に入ると景気が回復したため、追浜もスカイラインターボCに代表されるシルエットフォーミュラの開発など、サーキットレース用の車両開発を徐々に再開。しかし1984年に大森ワークスをベースにNISMOが設立され日産のモータースポーツ活動を全てNISMOに集約することとなったことから、追浜ワークスは消滅した。
主な所属ドライバー 田中健二郎 - 1965年〜1967年まで在籍。1969年にタキ・レーシングに移籍。2007年死去 高橋国光 - 1965年〜1974年に追浜ワークスが正式に活動を停止するまでプライベートチームとの並行活動 北野元 - 1965年〜1974年に追浜ワークスが正式に活動停止をするまでプライベートチームとの並行活動 黒沢元治 - 大森ワークスから1968年昇格、1972年末でニッサンを辞めてヒーローズレーシングへ移籍 都平健二 - 大森ワークスから1969年昇格、1974年の正式な活動停止までプライベートチームとの並行活動 長谷見昌弘 - 大森ワークス〜タキ・レーシングを経て1970年に加入。以後1974年までプライベートチームと並行しての活動 砂子義一 - プリンス自動車との合併後加入。1971年まで活動し、以後はマネジメントにまわる 横山達 - プリンス自動車との合併後加入。1970年まで活動。後にニッサン系の自動車工場スクーデリアニッサンを主宰。1998年死去 大石秀夫 - プリンス自動車との合併後加入。1970年まで所属。その後黒沢レーシングに移籍し1972年まで活動。 故人
大森ワークス 大森ワークス(おおもりワークス)とは、1960〜70年代の日産自動車のワークス・チームのうち、当時東京・大森にあった日産の宣伝部第4課配下のチーム、また同チームと契約を結んでいたドライバー達のことを指す。
日産のもう一つのワークスである追浜ワークスが主にプロトタイプカーの開発を担当し、日産社内においても主力(一軍)扱いだったのに対し、大森ワークスでは主にツーリングカーの開発を担当したため、社内でも二軍として扱われていた。
大森ワークスの契約ドライバーは主にブルーバード・スカイライン・サニー・チェリーなどをベースにレース用に改造を行った車を駆ってレースに出場した。またレースやテストのない日は大森の「モータースポーツ相談室」の相談員として、交代でアマチュアドライバー達からの相談を受け付けたりレース用パーツの販売を行ったりもした。
華やかに語られることが多い追浜ワークスに比べて大森ワークスには地味な印象があり「二軍」呼ばわりされる一方、鈴木誠一に代表されるような「乗るだけではなくマシン作りができる」ドライバーが在籍していたことも事実で(逆に言うと追浜ワークス組は「乗るだけ」)、日本のモータースポーツ発展を支えた優秀な人材を輩出しているという面もある。
1970年に日本グランプリの開催が中止されたのを機に追浜ワークスがツーリングカーの活動も行うようになると、大森ワークスの活動は縮小され、オイルショック後の1974年に日産がツーリングカーレースへの参戦を中止すると契約ドライバーは次々と独立した。ただその後も大森ワークスではレース用パーツの開発・供給が細々と続けられ、後のNISMO設立へとつながっていった。
主な所属ドライバー 鈴木誠一 - 1965年に加入し、リーダー的存在になる。1968年以降は、自身が興した東名自動車(現・東名パワード)と掛け持ちだった。1974年6月の 富士GCの多重クラッシュに巻き込まれ、37歳で事故死。 黒澤元治 - 1965年加入。1968年に追浜ワークスに昇格。 都平健二 - 1965年加入。1969年に追浜ワークスに昇格。 長谷見昌弘 - 1965年加入。1967年まで在籍したが、1968年と1969年はプライベーターのタキレーシングで活動。1970年に追浜ワークスに復帰。 津々見友彦 - 1965年加入。 寺西孝利 - 1968年に加入。チームの中では鈴木誠一と並んでリーダー的存在だった。1978年に引退。 須田祐弘 - 1968年ごろから正式に加入。1974年まで主にストックカーレースに参戦。PMC・S事務局長との掛け持ちだった。1974年正式引退。 田村三夫 - 元2輪ライダー。1968年トヨタから移籍。1974年まで主にストックカーレースに参戦。 歳森康師 - 1969年にスカウトされる。1974年まで所属。1975年1月に目を負傷し引退。 星野一義 - 1969年のテストで合格し加入。以後組織変更で大森ワークスからNISMOに変わった後も所属。 本橋明泰 - 元ヤマハ発動機所属の2輪世界GPライダー。1969年、星野とともにテストに合格し加入。GT-R54勝(うち49連勝)のうち1勝してい る。1970年引退。 辻本征一郎 - 加入年不明。主にツーリングカーで活動。現在ニッサンレーシングスクール校長。
・リア加工ワイドホイル⇒加工ホイルは勿論Χなので純正ホイルに戻す
・リアスタビを装備した⇒最低地上高が変わるのでクリアランスチェック(9cm以上確保)
・GT-R純正マフラーのタイコに水抜き穴を2箇所開けた⇒コレも車検はΧ 塞ぐ事
・ヘッドライト外側にポジションランプが付くようにした⇒ポジションは複数はΧ 追加分を消灯
・ストップランプが連動するようリアウィンドウに追加設置した⇒コレもΧ 消灯
・フロントバンパーに付けた“アイドルHC特殊”ステッカーを外す