ドライバー 黒沢元治 より抜粋

ハコスカGT-R、4ドアと2ドアHTの思い出

櫻井さんに「GT-Rの開発は、クロ、お前がやっていけ」って言われたんだけど、最初はあまり身が入らなかったな。
その理由は、1969年JAFグランプリの規定で前座のツーリングカーレースはワークスのプロドライバーが
出られないことになったから。だから言われるままに開発テストをやっていた。
最初のハコスカは、エンジンの低速トルクがなくて、上だけは結構パワー出ていたんだけど乗りにくかった。
デビュー戦の1969年5月のJAFグランプリは、アマチュアドライバーがトヨタ1600GTに苦戦して判定勝ちという
結果だったけど、プロの僕たちが乗れば楽に勝てたクルマだった。
JAFグランプリが終わって次のレースからは、もうワークスドライバーがやらなきゃいけないってことになり、
すぐ僕らが乗ったんじゃなかったかな。秋の日本グランプリの時には、すでに相当作り込んでエンジンも
機械式インジェクション仕様になっていた。
4ドアは割と乗りにくいクルマで、後ろが落ち着かなくて。剛性がなかったんだよ。剛性をもっと上げたいって
言っていたんだけど、結局、重くなるからっていうので、櫻井さんたちも剛性強化には反対していた。
軽量化しながら剛性を出すというのは、まだまだ出来ない時代だったんだよ。
ホイールベースが長いこと自体は悪くはないんだけども、ドライバビリティや安定性が悪いっていうのは、
ホイールベースが長いからなおさらボディの曲げ剛性とねじれ剛性が出てなかったんだと思う。
つまりバランスが悪かった。
1970(昭和45)年秋にKPGC10、ハードトップのレース仕様の試作車が出来た。センターピラーのない2ドアだから
リアドアがない。必然的に剛性が出たわけだ。ホイールベースも70mm短くなってそれも剛性アップに寄与した。
乗った時に「これは凄いな」って感じた。
富士スピードウェイでのシェイクダウンで、先輩の横山達さんがヘアピンで転倒しちゃったんだけども、
たまたまフロントガラスが割れずにポロっと取れたから、角材をどこからか持ってきて倒れ込んだAピラーを
みんなで起こして修復。そのあとはガラスをガムテープでくっつけて。
その状態で走って4ドアのベストを軽く破ったんだ。
僕の記憶だと、4ドアよりたぶん2秒くらい速かったんじゃないかな。あの頃は携帯電話もないから、
担当のコッペイ(古平 勝さん)がドライバーズサロンの公衆電話で報告したら、櫻井さんが大喜びしちゃってさ。
それも印象に残っているんだけどもね。

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