好みも年とともに変わるもので・・・
本当の話かどうかは定かでは無いが 親父から聞いた話によるとGT‐Rを買おうと決めた時に行きつけのレース屋さんに相談したところ
もうすぐ2ドアハードトップが出るから待てとのことで公式に発売前から直営のディ−ラーに全額キャッシュで払い来るのを待っていた。
東京モーターショーで2ドアハードトップがお披露目デビューする事も分っていたので モーターショー開催前に内々に現車が納車という段取りに
なっていたようだ(ディ−ラーの営業マンが勝手に言ったことかもしれない)。しかし待てど暮らせど来る気配が無い。激怒したオヤジはディ−ラーに
ねじ込んだところ 東京モーターショー出展車の現車でよければショーが終わり次第 船便でこちらの港まで直送するという事で一件落着したようだ。
いよいよその日がやってきた、夜8時ぐらいだったかハコスカが我が家にやってきた。
前はスカイライン1800DX4ドアに乗っていて 我が家の旅行や足に使われていて私はそのスカイラインが好きで家で寝ずに良く車の中で寝たのも
だった。GT‐Rを見た第一印象は “な〜んだ 同じ車じゃないか”それに定位置の後ろの席に座る時2ドアで乗り降りするのに便利が悪く リクライ
ニングしないシートを子供の私が跳ね上げるには力がいって辛かった。それにラジオなど何にも付いてなく 後ろのタイヤが丸見えでそれも後ろ
しかオーバーフェンダーが無くかっこ悪い車をオヤジは買ったもんだ と少々落胆したものだった。それから買ったにもかかわらず新車のハコスカは
姿を見せず 次に来たのは1週間後であった、レース屋さんに預けてアイドリングでラジエターに水を通しながらエンジンのアラ落としをしてもらった
という事だった(初期の慣らし)。その後夜な夜な起こされ “おい ドライブ行くぞ”と助手席に乗せられ 何処を走ったのか憶えていないが良く連れ
回されたものです。前の車なら背中を倒し寝れたのですが今度はバケットなのでどうも寝ずらい・・・つくづく “オヤジは変な車を買ったものだ”と
思っていました。気が付くと後ろのオーバーフェンダーがボディと同色のシルバーになっていて ホイルはアルミのコスミックに変わっていた。
それも4輪揃いの6Jぐらいで タイヤは “ミシランがええ”と言って履いていた。
“え〜 違うやろ〜”ワンポイントだった半艶黒のオーバーフェンダーが同色でボディと一体化しベタな感じなのと ホイルは子供でもワタナベやろ〜
と思っていたからです。そして後日 リヤウィング、知らない間にリヤスタビもついていた。
GT‐Rの素性が理解できてからというもの 勉強もせずにハコスカ三昧の毎日。当時の日産の川又会長に手紙を書き 人が持っていない貴重な
資料をくださいと 今で言うオタクのようなことばかりやっていました。自分でGT‐Rの本を作りたくて再三に渡り日産に手紙を書きました、この時には
川又会長の “熱心な子がいるので 出来るだけ協力してやってくれ”とのお墨付きも頂いていたので 膨大な資料を頂きました。中でも “カタログ
撮影で使ったGT‐Rのナンバープレートが欲しい”と言ったところ “残っていれば差し上げます”と言うお答え こころ踊りましたがそれは流石に
無いとのことで手には入りませんでした。その中 親身になって相談になって頂いたのがファクトリーチーム総監督であった青地康雄氏や飯島氏
でありました。確か進路相談まで乗って頂いたことを憶えています 忙しい業務の中良く子供のたわごとに付き合ってくれたものだと 優しい人柄
に涙したものです 勿論 その当時の手紙も全部保存しています。その本は高三の時完成し 日産の方々に見てもらう為に送り 1ヵ月後返送
された時には “良くこれだけのものをつくったものだ”とお褒めのお言葉も頂きました。今となっては多感な充実した経験の日々を送らせて頂いて
ただ感謝の一言です。
(オヤジのGT‐R):新車で乗って8年後に手放す、ガレージ保管の56.000km走行。最終助手席はGT‐Xのリクライニング付き、吊り下げクーラ―が付いていた。S20のエンジンは始動時気難しいので一発でかけなければ掛からないと良く聞いたがオヤジのかけ方を真似て子供の私がかけられていたので(勿論オヤジがいない時) カブらせるヤツはよっぽど感の悪いヤツに違いないと思っていた。その当時雑誌でもGT‐R高価買取と宣伝していた “東和”と言う業者が買いに来て新車時160万ぐらいで購入 240万で手放した。兄弟3人が大学でダブったものだから仕送りや学費捻出の為売ったのことだった、そのお金は3等分され口座に分けたそうだ。新車時から10年までで売るつもりだったと言っていたが やはり辛かったに違いない。夏休みに帰省した折 ガレージにRが無いのでおかしいなと思ってはいたが “R命”だったオヤジが “売った”と言う一言はオヤジの気持ちも察せず 私としてはただ悲しくひどく落胆したものだった。今となってはRの写真が1枚も残っていないのが残念です。
その当時 兄弟3人とも “Rはオレがもらう”と言っていたが さすがこの歳までその情熱を持ち続けたのは私だけで Rでは無いものの “ハコスカ”をいつか黙って乗って帰ったらオヤジはどんなリアクションをするかが唯一の楽しみだった。その時が来たのは2年ほど前、正月の帰省だった。飛び出して来たのはお袋だった、 “えらい懐かしいねぇ〜”と家族がぞろぞろと大騒ぎ・・・ 出番を失ったオヤジは部屋越しに見ていただけで “しょうもない”の一言。もともと感情を出して悦ぶ人では無いと思ったので 予想通りであった。オヤジの車を別のガレージに移動させる時に併走して帰りに乗せて来るのがいつもの事で 帰りに助手席に座ったオヤジの表情は懐かしさ半分 嬉しさ半分の顔をしていた。なによりこの歳になるまでハコスカに執着していた自分の息子が嬉しかったようだ。
好みの変遷
(当時の回想録)
オヤジがGT‐Rを買ったおかげで ディ−ラーの催しには必ず招待状が来た、子供の私は招待状の中に入っているGOODS販売が楽しみで
必ずオヤジ同伴でディ−ラーに出かけた、やはりGT‐Rで行くと注目の的であった事は言うまでも無い。その中でGT‐Rのリヤエンブレムと同じ
デザインのキーホルダーがあった、自分の小遣いでオヤジに内緒で二つ買い その一つは後でオヤジにプレゼントした。オヤジは嬉しそうだった。
クルマは変れど 今も80歳を越えるオヤジのキーにはその傷だらけのキーホルダーが付いている。