1969 5/3 ‘69JAF GP
デビュー時の‘69JAF GPでもグリル内側にオイルクーラーが設置されているものの オーバーヒート症状が出た、
またフロントのみ浜田の唇のようなオーバーフェンダーが付けられた。



1969 6/29 富士300kmレース大会 ゴールデンシリーズV
6月の富士300kmでは後に定番の位置となるフロントバンパー下部に移設されている、
これは5月に鈴鹿でテストを行い3箇所から選択。JAF GPではフェンダー内にフロントタイヤは収まっているが
この300kmレースではワイド化された。同時に鍛造アルミホイルの投入計画も進められていたが
強度問題からこの時点では見送られた。



1969 8/31 富士300kmゴールデンシリーズV
先頭(長村)のGT-Rはライトカバーを装備 後方(篠原)はライトがある仕様と大きく異なるが
それまでワークス仕様に装備されていたフロントバンパーが外されその位置にオイルクーラーが設置されている。
ワークス車の仕様とも異なる形だ、さらに長村車はフロントのオーバーフェンダーを装備している点に注目。



1969 10/10 ‘69日本GP
改良が進んだ日本GPでは決勝で1〜8位までをスカイラインが占めた。
外観からは見えないが6.000rpm付近の“トルクの谷”を消す為排気管の集合部までの長さをベンチと実走で
繰り返しテストしたほか エキゾーストパイプの短縮及びサイド排気の採用で6.000〜8.500rpmまで
問題なく扱える特性となった。



1969 10/19 第4回富士TTレース
バンパーが戻されたりするがこれは日本GPの車両規定によるもの



1970 1/18 全日本鈴鹿300kmレース
70年以降フロントバンパーは無くなりオイルクーラーは横長長方形に、形状と位置はこれで定番となる。



1970 3/15 富士フレッシュマン
久保田洋史のGT-Rにはフロントスポイラーらしきデバイスが装備され 当時はダウンフォースという考えが
希薄でいかに空気抵抗を減らすかが課題であった。



1970 3/22 全日本ストックカー富士300kmレース
この時点でもニッサンワークスはフロントスポイラーは未装備でプライベーターが1年半も先んじていた。
左後方の久保田の車両と比べると随分異なるのが分かる。



1970 4/15 全日本鈴鹿500km自動車レース
箕輪車には前後のスポイラーをテストしている様子が見られる、フロント&リアともアルミ製。



1970 4/12 レース・ド・ニッポン6時間
ワークス車はホイル&たいやのワイド化を図り フロント8インチ:リア10インチのタイヤとマグネシウムホイルを採用、
それに伴ってグラマラスなオーバーフェンダーが取り付けられている。



同上レース
杉崎直司のGT-Rはフロント&リアにスポイラーを採用している。
69年末の段階ですでにワークスもドラッグの低減と空気流の整流を目的としたリアスポイラーの基礎的実験は
開始していたと言うが杉崎の採用はワークスよりも半年早い。



1970 5/3 ‘70JAF GP
ドライサンプエンジンとマグネシウム製のインテークマニホールドが採用されている、サイド排気の様子が良く分かる。



1970 5/24 全日本鈴鹿1000km自動車レース       7/12 全日本ドライバー選手権筑波大会
ハードトップのデビューを翌年に控えてセダンの開発も完成形に。



1970 8/23 全日本鈴鹿12時間自動車レース
JAF GPでも投入されていたFRP製ドアが外観で明解に分かる変更点
このほか軽量インストルメントパネルなどが使用され軽量化に考慮されていた。
フロントオーバーフェンダーとその下部につながる車体の両端部が外側に折り曲げられて連続したフェンダーのように
形成されているのはこの3車だけを見ても車体 時期によって程度がそれぞれで統一仕様が有ったようには見えない。
この頃は吸気温度を下げる為の導風板のテストが同期に行われており ラジエターのコアを潰して開口部を作る必要が
有った為特殊なラジエターを製作した。



リアスポイラーの開発は69年12月に実車による風洞実験から本格的に開発された、
70年2月に谷田部で実車走行による実験を行ったが公認の関係で70年JAF GPでの投入は見送られた。
形状は3種類の中から選ばれ幅1.350mm 取り付け角は20度と決定された。


1970 10/10 日本オールスターレース
スポイラー初投入、予選でR380のデビュー時の2分05秒台を記録し開発陣が目標としていたタイムに到達したが 
不慮の事故によりワークスは決勝出場を辞退した。



ハードトップ登場:当時のレギュレーションではロールゲージのボディへの溶接などは禁止されていた為

オリジナルボディの剛性がレーシングカーのポテンシャルまで左右していた。ハードトップはそういう意味でも
理想の素性を持っていた。

ハードトップボディの投入にあたっては70mmのホイルベース短縮が操縦性の向上を呼び 
リアの揚力減少をリアスポイラーの取り付け角度の変更とフロントスタビライザー径を上げる事で対応していた。

1971 3/7 全日本鈴鹿自動車レース
71年日本GPに向けてはタイヤ&ホイルの更なるワイド化(F:8.5 R:11インチ ※5月の日本GP時は8&10.5)と
ショルダー部の耐熱性を上げた非対称パターンのタイヤ開発が行われた。
車重は950kgを下回るまで軽量化が進み 富士6kmのラップタイムは2分2秒台に。
フェンダーも様々な形状をテストしその変更の度に公認を取っていた為膨大な手間と労力が掛けられていた。



1971 8/15 富士500km
ハードトップGT-Rは風洞実験の結果 全体のドラッグは8.5%の低減 ダウンフォースは18%改善が図られたが
フロントとリアのバランスを測定すると フロントの揚力が大きかった為、対策としてフロントスポイラーが検討された。
装着の結果 ダウンフォースは11%向上しドラッグは1〜2%程度の増加に抑えられた為採用が決まった。
ワークスが投入したのは10月10日富士マスターズ250kmからだが 
8月15日富士500kmではすでに久保田洋史が投入している。



1971 9/4 富士インター200マイル
フロントスポイラー未装備の左2台に対して右端の久保田車には↑上記レース同様装着されている。



1971 10/10 富士マスター250km
ブリヂストンがスリックタイヤを投入、ラップタイムは2分1秒台まで上昇した。



1972 9/3 富士インター200マイル
72年に向けてフロントブレーキのベンチレーテッド化及びリアのディスクブレーキ化が図られ 
義務ではなかったが将来の規定変更をにらんでワークスチームとして安全タンクをいち早く採用した。
開発に掛けるコストや人員を生産車の安全対策や排気ガス対策に取られ試作部門も以前ほどの融通
(以前は“R”と書いた設計書を提出すれば最優先で製作してくれた)が効かなくなった。
オーバーフェンダーは遂にボンネットの高さまで拡大され 以前と比較しても一体感を醸し出している。
コーナーでは負けないのだが軽量でストレートが速いロータリーの速さには最後まで手を焼いた。


しかしなんといっても驚くべきは古平が手掛けていたエンジンの改良でカムプロフィールやインジェクションの

メータリングユニットなど「すでに余地はないと思われている箇所にも再検討を加え 乾いた雑巾を

絞るようにして熟成」した結果 黒沢元治が1分59秒70をマークした72年10月の富士マスターズ250km時には

264PSを絞り出していた。このレースでのHT・GT-Rは上位のロータリー勢と刺し違える形で壊滅するが

「ロータリーを意識しながら十分勝てるだけの手応えはあった勝負は最終ラップの最終コーナー」と黒沢元治が

言うようにマシンのテクニカル面では実に充実した仕上がりだった。4シーズン/3年半の歳月を費やして開発を

続けた結果 13秒以上のタイムを短縮を果たした驚異のツーリングカー “スカイラインGT-R”。

こうした奇跡は二度と起こらないだろう。


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