事のはじまり

本当の話かどうかは定かでは無いが 親父から聞いた話によるとGT‐Rを買おうと決めた時に 行きつけの

レース屋さん(小山自動車)に相談したところ もうすぐ2ドアハードトップが出るから待て 

とのことで公式に発売前から直営のディ−ラーに全額キャッシュで払い来るのを待っていた。

東京モーターショーで2ドアハードトップがお披露目 デビューする事も分っていたので 

モーターショー開催前に内々に現車が納車という段取りになっていたようだ

(ディ−ラーの営業マンが勝手に言ったことかもしれない)。しかし待てど暮らせど来る気配が無い。

激怒したオヤジはディ−ラーにねじ込んだところ 東京モーターショー出展車の現車でよければショーが終わり次第 

船便でこちらの港まで直送するという事で一件落着したようだ。

いよいよその日がやってきた、夜8時ぐらいだったかハコスカHT・GT-Rが我が家にやってきた。



エンジンルームプレート


オヤジのGT‐Rの車検証の写しが残っていた、フレームナンバー な・な・なんと94番! この車は今何処に・・・



前はスカイライン1500DX4ドアに乗っていて 我が家の旅行や足に使われていて私はそのスカイラインが好きで家で

寝ずに良く車の中で寝たのもだった。GT‐Rを見た第一印象は “な〜んだ 同じ車じゃないか”それに定位置の後ろの

席に座る時2ドアで乗り降りするのに便利が悪く リクライニングしないシートを子供の私が跳ね上げるには力がいって

辛かった。それにラジオなど何にも付いてなく 後ろのタイヤが丸見えでそれも後ろしかオーバーフェンダーが無く

かっこ悪い車をオヤジは買ったもんだ と少々落胆したものだった。それから買ったにもかかわらず新車のハコスカは

家に無く 次に来たのは1週間後であった、レース屋さんに預けてアイドリングでラジエターに水を通しながら

エンジンのアラ落としをしてもらったという事だった(初期の慣らし)。その後夜な夜な起こされ “おい ドライブ行くぞ”と

助手席に乗せられ 何処を走ったのか憶えていないが良く連れ回されたものです。前の車なら背中を倒し寝れたの

ですが今度はバケットなのでどうも寝ずらい・・・つくづく “オヤジは変な車を買ったものだ”と思っていました。

気が付くと後ろのオーバーフェンダーがボディと同色のシルバーになっていて ホイルはアルミのコスミックに

変わっていた。それも4輪揃いの6Jぐらいで タイヤは “ミシランがええ”と言って履いていた。

“え〜 違うやろ〜”ワンポイントだった半艶黒のオーバーフェンダーが同色でボディと一体化しベタな感じなのと 

ホイルは子供ゴコロにもワタナベやろ〜 と思っていたからです。そして後日 リヤウィング、知らない間にリヤスタビも

ついていた。リアウィングは取り付ける前に部品で持って帰ってきた折 持たせてもらったが見た目にそぐわず

“重っ”と思うほどのものだった。そして今再販復刻されているものと違い ウィングの裏には「SKYLINE」のロゴは

入っていなかったのを今でもはっきりと覚えている。



こんな感じ


GT‐Rがどんなクルマかが理解できてからというもの 学問もせずにハコスカ三昧の毎日。当時の日産の川又会長に

手紙を書き 人が持っていない貴重な資料をくださいと 今で言うオタクのようなことばかりやっていました。

自分で納得が行くオリジナルのGT‐R本が作りたくて再三に渡り日産に手紙を書きました、この時には川又会長の

“熱心な子がいるので 出来るだけ協力してやってくれ”とのお墨付きも頂いていたので 膨大な資料を頂きました。

中でも “カタログ撮影で使ったGT‐Rのナンバープレートが欲しい”と言ったところ  “残っていれば差し上げます”と

言うお答え こころ踊りましたがそれは流石に無いとのことで手には入りませんでした。

その中 親身になって相談になって頂いたのがファクトリーチーム総監督であった青地康雄氏や飯島氏でありました。

確か進路相談まで乗って頂いたことを憶えています 忙しい業務の中良く子供のたわごとに付き合ってくれたものだと 

優しい人柄に涙したものです 勿論 その当時の手紙も全部保存しています。その本は高三の時完成し 

日産の方々に見てもらう為に送り 1ヵ月後返送された時には “良くこれだけのものをつくったものだ”とお褒めの

お言葉も頂きました。今となっては多感な充実した経験の日々を送らせて頂いて ただ感謝の一言です。

(オヤジのGT‐R):新車で乗って8年後に手放す、ガレージ保管の56.000km走行。最終助手席はGT‐Xのリクライニング付き、吊り下げクーラ―が付いていた。S20のエンジンは始動時気難しいので一発でかけなければ掛からないと良く聞いたがオヤジのかけ方を真似て子供の私がかけられていたので(勿論オヤジがいない時) カブらせるヤツはよっぽど感の悪いヤツに違いないと思っていた。その当時雑誌でもGT‐R高価買取と宣伝していた “東和”と言う業者が買いに来て新車時160万ぐらいで購入 240万で手放した。兄弟3人が大学でダブったものだから仕送りや学費捻出の為売ったのことだった、そのお金は3等分され口座に分けたそうだ。新車時から10年までで売るつもりだったと言っていたが やはり辛かったに違いない。夏休みに帰省した折 ガレージにRが無いのでおかしいなと思ってはいたが “R命”だったオヤジが “売った”と言う一言はオヤジの気持ちも察せず 私としてはただ悲しくひどく落胆したものだった。今となってはRの写真が1枚も残っていないのが残念です。

その当時 兄弟3人とも “Rはオレがもらう”と言い争いをしていたが さすがこの歳までその情熱を持ち続けたのは私だけで Rでは無いものの “ハコスカ”をいつか黙って乗って帰ったらオヤジはどんなリアクションをするかが唯一の楽しみだった。その時が来たのは2年ほど前(当HP立上時)、正月の帰省だった。飛び出して来たのはお袋だった、 “えらい懐かしいねぇ〜”と家族がぞろぞろと大騒ぎ・・・ 出番を失ったオヤジは部屋越しに見ていただけで “しょうもない”の一言。もともと感情を出して悦ぶ人では無いので 予想通りであった。オヤジの車(古いパジェロ)を別のガレージに移動させる時に併走して帰りに乗せて来るのがいつもの事で 帰りに助手席に座ったオヤジの表情は懐かしさ半分 嬉しさ半分の顔をしていた。なによりこの歳になるまでハコスカに執着していた自分の息子が嬉しかったようだ。

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(当時の回想録)

オヤジがGT‐Rを買ったおかげで ディ−ラーの催しには必ず招待状が来た、子供の私は招待状の中に入っているGOODS販売が楽しみで

必ずオヤジ同伴でディ−ラーに出かけた、やはりGT‐Rで行くと注目の的であった事は言うまでも無い。その中でGT‐Rのリヤエンブレムと同じ

デザインのキーホルダーがあった、自分の小遣いでオヤジに内緒で二つ買い その一つは後でオヤジにプレゼントした、オヤジは嬉しそうだった。

クルマは変れど 今も80歳を越えるオヤジのパジェロにはその傷だらけのキーホルダーが付いている。


私の分は未だもったいないので封を切らずに取っている、当時は高いなぁ〜と思ったが600円だったようだ。


最近復刻されたGT‐Rのキーホルダー 全然作り込みが違うのがわかる。上のキーホルダー裏には50勝の記録が英語で刻まれているが
今のものにはソレは入っていない。価格¥2.500‐

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ハコスカが好きにもその理由は人様々 


昭和五十年初頭オイルショック、排気ガス規制が車社会に降りかかりクルマ人気にも暗い影を落とした。

ハコスカ登場以来 性能本位のクルマ次々と販売されていたが この規制が掛かり数年間新機種の動向を

見ていましたが車重は重く性能も落ちたものしかなく興味が薄れていた、あのRSでさえ”Rの再来”的な

触れ込みで登場したが展示会に行ったところ 店員がエンジンを空ぶかしして「どうです すごいでしょう」

と 自慢げに言っていた。しかし 私には吹き上がりも悪く戻りも悪い、と やはりガッカリしたものでした。

昭和の良き時代 高度成長で何でも有りのイケイケの時代を経験してしまうと 五十年以降の車にはまったく

魅力を感じなくなってしまった。今のR35‐Rも凄いと思うけど ”Rの迷走 Rは何処へ行く”状態でこれにも正直

興味は無い。ハコスカは”男のクルマ”の象徴で ケンメリになって”女性にも乗れるR”になったことで魅力は

薄れたし ”R”は終わったと思った、生産台数が少ないと言うだけの希少価値だけではRと認めたくない。

ケンメリにモデルチェンジしてレース活動しても45kgも重くなった車体では勝てない事は明らかであった為 輝かしい

金字塔を築いてきたハコスカの神話にドロを塗りたくないと言う事も有り ここが引き際とワークス活動を中止した

ことは事実である。タイミングとしても排気ガス規制とカブり 撤退にはウッテツケで絶妙なタイミングであった。

友人の彼女が免許取立てで軽四に乗ろうとしていたところ 事故するとクチャクチャになって危ないので

”これに乗りなさい”と父親が娘に買ったクルマがR32であった。昔から皆にGT‐Rが好きだと言っていたので 

彼女は”私GT‐Rに乗っているので今度乗ってみます?”と言う事になりR32に乗る機会が出来た。期待して

乗せてもらったが実に滑らかで思ったほどの加速感の体感は無かったがスピードメーターを見ると結構な

スピードが出ていた事に驚いた。下から一定のトルクで加速することと車体もしっかりしていて安定している。

装備も至れり尽くせりで私にとっては過剰過ぎると感じた、この乗り易さなら初心者の彼女でも乗れることは

理解できた。あのバブル時代である、街でも32GT‐Rは良く見かけたしゴロゴロ走っていた。ハコスカ時代は

GT‐Rを目にする事はごく稀でしたが・・・ それも一家が乗ってのファミリーカーと化していた。勿論技術の

進化でハイパワーでも乗り易い事は良い事だが”男のクルマ”と言うイメージからは遠く離れてしまった事が悲しい。

時代は流れ 今は35 保証の問題やすべてが衛生管理、何がしたい?何処へ向いて行くGT‐R!と 言う感じです。

クルマは人の五感で走らせ 操る楽しみがあるのに 今はその五感を潰していく スクーターのようなものに

成り下がってきていると思います。音や振動、重力 ハンドルから伝わってくるグリップ感 流れる景色 などを

感じて人が加減やコントロールしてこそ面白い乗り物だと思います。

縦列駐車を勝手にやってくれるCMが流れていますが アレを見て無性に腹が立っています。だから人の

技術力が上がっていかないんだと、アクセルとブレーキを踏み間違えるなんて信じられない事が起こる、

そんなドライバーに免許を与えて良いのだろうか、走る凶器だ、信じられないトラブルです。

そのうち ナビゲートにしたがって縦列駐車したら車体をコスッたと メーカーを訴えるヤツが出てくるに

違いない、洗ったネコを電子レンジに入れるヤツも・・・ 

自動車メーカー自体も開発目的が迷走していると思う今日この頃。

確かにそう言うものが売れている現実があるものの


子供の頃から憧れていたハコスカにやっと乗れるようになった、”いつかはハコスカ” ”我が人生の最期のマイカー”

と決めて三十猶予年経ってしまった。その間 GT-Rなど手に入らなかったわけではないが 神様が持たせるには

「まだ早い」と判断され そのチャンスは現実のものとならなかったと思うようにしている。

人にはそれぞれ“分”と言うものがあり 自分の身の丈を理解して行動しなければ ろくな事にならない。

欲しいモノを手に入れるにはタイミングがあると思います、無理して手に入れると何かと波風が起こる事が

私の場合多く 手に入らない場合は神様が”やめとけ”と言っているんだな と理解しています。


我が家に”GT‐R”がやってきた(↑上記に重複しますが)

事の始まりは私が小学校5年の時にオヤジがGT‐R HT(KPGC10)を買った時からです。その前は同じSKYLINE1500

4ドアセダンに乗っていて家族旅行に行ったり 使い勝手が良く非常に便利で子供の私自身も気に入っていまた。

ある日その1500が無くなってしばらくして 新しい車がやってきた。夜8時ぐらいだったか 同じSKYLINEでも今度は

2ドアで少しだけ排気量が大きいと聞いた、見た目には後ろのタイヤの方だけ黒いオーバーフェンダーが付いていて

アーチの抉りがデカかった。”え〜 こんなカッコ悪い車に変えたもんだ〜”と 私は言った。子供の私には1500セダンの

方がデザイン的にもまとまった感じがして Rのフォルムがアンバランスに思えたのだ。それから1週間ほど家には無く 

しばらくしてリヤのオーバーフェンダーがボディと同色のシルバーになってやってきた。夜な夜なオヤジに起こされて

夜のドライブにと借り出されたのでした。車の中で寝てればいいや と思ってもリクライニングはしないし ラジオも無く 

排気音も大きい 実に退屈でつくづくオヤジは変な車を買ったものだと思っていました。もっと小さい頃に家の前を走る

車の名前はすべて言えたほどでしたが当時は言うほどクルマ好きではなかったのは事実です。

ある日学校で”お前んち 車ナニ乗ってる?”と言う話題になり ”ウチはスカイライン”と言うと マツダのディ−ラーの

ムスコがいて”GT‐Rじゃないやろね〜”と。”そう言えば後ろのバッヂにGT‐Rと書いてある”と言うと ”嘘つけ そんじょ

そこらにGT‐Rがあるわけないやろ〜”と言われ かたやウソツキ呼ばわりされてクラスの中でも自分だけ孤立する

様な変な感じになってきた。私は耐え切れず”それならウチのガレーヂに見に来たらええやん 本物か偽物か見たら

分るやろ”と言う事で その日のうちに十数名従えていざ我が家へ・・・ガレーヂの扉を開けるといつもの光景、

ハコスカが置いてある。”GT‐Rだ”と誰かが言った。その瞬間よりクラスのヒーローの格上げになった。

なんでこの車がそんなに良いのか知るヨシも無く その扱いが心地よくその待遇に甘んじたのです。

中学に入り授業で技術を習い始めてGT‐Rのメカニズムが普通と違うと気付きはじめました、DOHC 4バルブ 

3連ソレックス クロスフロー フルトラ ノンスリ 電磁ポンプ 4輪独立懸架などなど。その頃から購読雑誌が

オートスポーツ オートテクニック 自動車工学になり 知れば知るほど引き込まれていきました。

そしてライブでレースでハコスカの連戦連勝報道を間の当たりにしていた事も有り ますますのめり込んで

行ったのです。オヤジの行きつけの車屋がツーリングカーレースをやっているところでもあり 良く見に行ったものです。

折からのスーパーカーブームと言うのが世間では流行っていて子供も大人もクルマに釘付けの頃です。

子供と言うものは恐れ知らずでGT‐Rの事をもっと知りたい知りたいで日産で一番偉い人は誰?をお袋に聞いて

それは会長と言う事が分った、その会長に直訴状を送るにはどうやったら良いかまたお袋に聞いたら 親展で

手紙を書いたら良いと聞き その想いの丈を書き綴り送ったのです、その内容は人が持っていない 出来れば

社内秘的なGT‐Rの資料が欲しいと言うものでした。1週間後みかん箱よりも大きなものが私宛に日産から

来たのです。中に手紙が入っており それには”会長があなたの手紙を読み 痛く感動されて この子に出来る

だけの事をしてやって欲しい と 言う事で私が変わりにやらせて頂きます”と言うものでした。私は”なんだ

会長直々じゃないんだ”と 少しはガッカリしたのです。気を取り直し中身は何かと見てみると ここでは

言えない様な貴重な資料ばかり入っていたのです。GT‐Rは基より R380 R381 R382・・・小出しでここでも

紹介する機会があれば出したいと思います。それからこの担当の人と月イチぐらいの文通のようなやり取りが

はじまったのです。挙句に進路の相談まで乗ってもらいました、ハコスカの開発話の事は難しくチンプンカンプン

でしたが 何につけても親身に相談に乗ってくれました。頂いた資料や見聞を集めオリジナルのGT‐R資料集を

2冊作り上げ お礼方々その担当の人に贈り見て頂きました。”良くここまで造り上げたものだ”とお褒めのお言葉も

頂き 1ヶ月後に返却されてきました。大学に入ってから分った事ですがその担当の人があのGT‐Rレース総監督

の青地康雄さんだったのです。知らないと言う事は恐ろしい事で分っていればもっと突っ込んだ事も聞けたのにと

後悔しています。10年ぐらい前に青地さんがGT‐Rの開発記を出された時は内容も興味深く 懐かしかった。

NHKの”プロジェクトX”に桜井さんと出られているのも拝見して あの屈託の無い笑顔が忘れられません。

3年ほど前に亡くなられた事を知り もっと早くお世話になったお礼をしておけば良かったと後悔しています。 

直筆

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オヤジがHT・GT-Rを購入して覚えている仕様変更は

・オーバーフェンダーが車体色と同じシルバーに

・ホイルはコスミック&ミシュラン

・純正オプションテールウィング装着

・リアスタビライザー装着

・売却2年前ぐらいにクーラー装備そして助手席GT用のリクライニングシートに

それ以外はおそらくフルノーマルだったような、これらは日を追って行った。

そういえば アンメーターとオイルプレッシャーの計器がコンソールの上に付いていたなぁ


=オヤジとボクとGT-R 回顧録=

・夜寝る時にパジャマに着替えわざわざ“R”の助手席やリアシートで寝ていた。(小学生の頃)
 最初のウチは寝込んだ隙にオヤジがベッドまで運んでいたようだが 毎日のようにそうやっていたのでそのうち
 諦めたようだ。その代わり毛布や布団を掛けてくれていたようだ。

・GT-Rに興味をもってオヤジやお袋がいない隙にいろいろやってた(私が中学生の頃)
 勿論エンジンを掛け 暖機後 レーシングしてレスポンスや音を楽しんでいた事はシバシバ
 そのあげくカセットレコーダーで排気音など録音した事も 夜な夜な自分の部屋で聞いていた

 オヤジから貰ったバカチョンカメラでお金が無い子供としては白黒のフィルムを買ってもらってハーフサイズで
 何枚も何枚も“R”の各ショットを撮っていた⇒その写真も今となっては1枚も残っていない
 
※このバカチョンカメラは大阪万博の時にオヤジに貰ったもの

 エンジンルームのプレートを外し近くのコピー屋さんでコピーした(それが上映像↑のもの)
 それと同時にフロントエンブレムもコピーしようと外し 調子に乗ってリアエンブレムを外そうとトランクルームから
 六角のナットのような留め金をレンチで回したらポキッと折れて取れてしまった、なにせ子供がやる事 
 まさかワンウェイのはめ込みとは思わなかった。これはオヤジに怒られる〜 ボンドでくっつけて証拠隠滅
 この一件でビビッてしまいエンブレムはコピーせず元に戻してしまった。売却までバレなかったようだ。

・またコピー魔と化していた頃 グローブボックスに車検証や購入契約書、点検記録簿などコピーしていたので
 それが残っていたのだ。

・オヤジは決して“R”を人に載せるような事や貸すような事は無かったが ある日親戚のお姉ちゃんの婚約者が
 デートするのに一度だけ乗って行ったのを覚えている。それも発進の時に2度3度エンストしていた。
 心配そうに見送っていたオヤジのうしろ姿が今も目に残っている、おそらく断り切れなかったのだろう。
 夕方明るいうちに無事帰ってきた 「さすが“R” よく走りますね」とその人は言っていたが テール回りが
 黒いススだらけになっていた。オヤジは「踏み過ぎや」とボツリ・・・ その後二度と人に貸す事は無かった。

・その当時家には1台しか置くところが無かったのでお袋に免許を取らせ よく併走して別のところに置きに行っていた。
 仮免の練習もお袋はオヤジを横に乗せ 紙に書いた「仮免練習中」をフロントグリルに貼り どやされながら
 やっと取った免許であった、お袋は免許取るのに“R”で練習していたのです。取ったあとクルマの移動で
 “R”にお袋が乗ってバッスンバッスンエンストしていたのをオヤジはよくどやしていたなぁ〜

・当時 何故ホイルとタイヤがコスミックでミシュランだったか最近分かった、「外国製」だったからだ。
 どうやら行き付けの店の勧めが有った事とオヤジの世代は「外国製」という言葉に弱かったようだ 舶来モン。

・学生の頃 勉強するのにオヤジの書斎でやっていた、オヤジはカメラも趣味で8ミリフィルムを取り溜めていた。
 編集用の映写機で盗み見していたらR382がストレートを走っている映像やワークスGT-Rのレースシーンが
 何本もあった。たまに日曜日にいない時があったがひとりで鈴鹿や富士へ行っていたようだ、勿論“R”で。
 私が社会人になった頃「自分だけレース見に行ってずるいなぁ 一緒に連れて行ってくれたら良かったのに」と言うと
 「連れて行っても良かったが おまえ勉強しなくなるやろ〜」と言っていた。さすが我がオヤジ 私の性格をよく
 見抜いている、一本気なもんでそれは当たっている。“R”のコンソールボックスにもチケットの半券がよく入っていた。

・オヤジはいつも多くは語らない、学生の頃思い返してもほとんど雑談をした事が記憶に無いほど(怖かったと言うのが
 一番正しい表現かも知れない)。私は兄弟3人の末っ子 小さい頃オヤジの仕事の手伝いをさせられていたが
 上二人の兄弟は同業種についたが家は継がなかった。
 アトトリとして私に期待したみたいだが オヤジの厳しい仕事姿より楽しそうに“R”に乗っていた姿の影響で
 機械工学系に進んでしまった さすがにオヤジは落胆したようで受かった工業大学に行かせるかどうかかなり悩んだ
 らしい。 それも兄弟三人が大学にダブるので学費や仕送りの事を考えるとかなりきつかったようだ。それが
 原因で“R”を売るハメになった訳だが・・・ そのお陰で大学卒業時に二級整備士と設計をみっちり学ばせてもらった。
 子供は親のうしろ姿をよく見ているものだ この年になってもオヤジにはかなわない。
 
(私の頭には青地さんの薦めで“専門の知識を学べ”という教えがあった為 交通機械全般が学べる大学へ行きたかった)

・中一の頃 良く買っていた「自動車工学」の末尾に三級整備士の試験問題が載っていた、その時には楽勝で
 全問解けるぐらいにはなっていた。F-1やレーシングカーの構造、エンジンに興味深々で多感な時だった。
 お袋に問題集を買うと言って当時のオートテクニックやオートスポーツなどの雑誌を買っていたのがバレて
 小遣いも貰えなくなった。

・社会人になって最初の給料、両親に美味しいご飯をはじめて振舞おうと呼んで日本庭園が見える料亭に呼んだ。
 決して高いものでは無かったが私としてはかなり奮発したつもりだった、オヤジもお袋も嬉しそうだった。
 会食が終わりいざ精算となった時お袋が「私が払う」と言う。いやいやそれでは意味が無い、お袋との押し問答が
 しばらく続いたが オヤジの一言「お母さんが払う」 それで終了した。なんの為に呼んだか分からずの結果と
 なったがそれがオヤジの威厳なのだ。仕送りを送ろうとしても絶対受け取らない、いまだに。(オヤジは桜井さんより
 ちょっと上) 子供が大人になっていく事は喜びながら決してその子供のお金は受け取らない。最後までオヤジと
 しての威厳がそうさせるのだろう。わたしは年を取れば取るほどオヤジの背中が大きく見える。

 この前帰省の際ハコスカが謎のエンジンストールした折にオヤジが世話になっていたショップに修理を出した。
 無事調整も終わり実家に寄って帰る折 オヤジが出てきて「修理代だ」といって封筒を差し出した 「いやいや
 そんなんええで 自分のクルマだから」と言うと 一言「取っておけ」。お金が勿論無いわけでは無いが恒例の
 オヤジの威厳を受け取った 中には一万円入っていた。その封筒ぐち私のお守りとしていつも持っている。

・オヤジが仕事で使っていたのがプリンス スーパークリッパーという2トントラックです。


 つい5年ぐらい前まで持っていました。私が最後に見たのは10年ほど前ですが傷や凹み 錆ひとつ無い完品。
 新車購入時に水が入って錆びそうな所は下回りからグリスを詰めて処理していたそうだ。疑わしいがバッテリーも
 変えた事が無いと言っていた。このトラックで海に連れて行ってもらった時兄貴の筆箱が太陽の熱でグニャリと
 曲がったのでした。20年ぐらい前まで何と言うトラックか知らなくてネットで調べて初めて分かったのでした。
 道具といい 車といい モノを大事にする人なんです。

・私が覚えているウチ(オヤジ)のクルマ暦







弟の伯父さんがカープラザをやっていた加減で販売協力 どっちが前か分からない二駆の四角いデリカ

エンジンの作りが悪いとかロールがひどいとか言って自作のリアスタビを作って入れていた(仕事兼用)
よ〜やるわ そう言うクルマや無いやろ)


そして現在も乗っているジ〜ジェルターボのパジェロ
家内の嫁入り道具「マッチのマーチ」が帰省の際 高速で行き倒れた時(カムが折れた)にこのパジェロを急遽借りて帰った事も
走らん・・・

そのパジェロも今は主を失って家族の誰一人乗り手が居ない 処分されるのか。
オヤジの物がどんどん無くなって行くのは実に寂しい。

・スーパーカーブームの時に足繁く友人といろんなところに見に行っていた、国産ではトヨタ2000GTは有るものの
 スカイラインGT-Rが無い事に子供心に大変憤慨していた。カウンタック全盛の頃はじめて見たイオタには感動した。

・高校の時通学に自転車を使っていた、その自転車のリアシャフトが走行中折れて実家近くの買った自転車屋さんに
 直行した、お店の横にその当時でも珍しい昔の魚屋さんが使っていたような商用のごっつい自転車がクシャクシャに
 壊れて置いてあった 忘れもしませんその名も「ウェルビー号」。修理の間「すごい壊れ方してるなぁ」と まじまじと
 見ていたら 自転車屋の大将が「おやっさんに言っといて その自転車修理に2週間見といて」と。
 え〜 どうゆう事??? 大将に聞いても「ただそう伝えといてくれたらいいから」しか言わない。
 訳が分からずそれをお袋に帰って伝えるとどうやらオヤジが“R”でその自転車と接触事故を起こしたらしい。
 勿論その日にR”は帰って来なかった。“R”はどんなになっているんだろう?自転車に乗ってた人は?
 オヤジは多くは語らないまま・・・ 後日分かった事だがその自転車の人は“常習の当たり屋”さん(保険屋さん調べ)
 でクルマの正面で当たり 人はボンネットの上で寝転んでいたそうだ。スピードも出ていない事もあって
 “当たり屋”さんはお約束のムチ打ちで長く入院されていたそうだ。直ってくるまでどのくらい掛かったかは覚えて
 いないがそう長くは掛からなかったと思う。それまで凹んだ“R”は一度も見ていないが何処をどう直したかまったく
 分からなかった。びっくりした一件だった。

・あるお正月 親戚一同が集まって宴会たけなわの中 カープラザの伯父さんが「“R”より伯父さんのクルマの方が
 速いに決まっとる」と言った、それまでワイワイガヤガヤとうるさかったのに その一言でシ〜ンとなった直後 一同
 「え〜」と大ブーイングを食らった。子供の目から見ても伯父さんは商売の事は詳しいけどクルマに関してはまったく
 知らなかった。みんなが“R”“R”ともてはやすのが気に入らなかったようだ。そこで無謀な一言 墓穴を掘ってしまった。
 ちなみに伯父さんのその時のクルマはデボネア2000。オヤジの顔を見ると何も言わず薄笑みを浮かべてた。


・私が通っていた高校は山の上で行きはえんえんとのぼりが続く、放課後帰りはいつも同じクラスメイトと帰っていた。
 その一人が結構自転車が得意な奴でこぐスピードには敵わなかった。そこで下りが続くのでこがずに惰性でどちらが
 速く走れるかを競い始めた。住宅地でコースは直線 シケイン 高速コーナー タイトコーナー有りといかにブレーキを
 かけずに走るかが勝負の決め手となる。最初のウチは負けが続き凹んでいたがある日スリップが使えるか試して
 みようと思いついた。そいつは自転車も私のと違い高級なヤツで同じスタートでも必ず少しづつ前に出る、何とか
 離されないよう後ろに喰らい付き最後の直線でスリップについた。するとジワジワと差が詰まり始めゴール寸前に
 抜き去った。そいつは非常に悔しがり明日また勝負だ!と言い残し帰っていった。自転車でもスリップストリームが
 使えるんだと味をしめ 次の日もまた次の日も連勝に次ぐ連勝、スリップの使い方も慣れてきて自由自在の展開に。
 相当悔しかったようである日かなり無理をしてコーナーを曲がろうとしたらしくオーバースピードで脇の溝の餌食に。
 幸い怪我も無く事無きを得たが 何で勝てないのか素直に聞いてきたのでスリップの事を話した。それ以来私は
 そいつに勝てなくなった、しまった!言うんじゃ無かった。今考えれば何て無謀な事をしていたんだろうと怖くなる。
 コレが若さなのか 私のタイヤは磨り減っていてパターンが無く「スリックだ スリックだ グリップが良い」と本気で
 そう思っていた。そんな使い方ばかりしていたせいかリアシャフトが折れてしまった。くれぐれも真似しないように。

・授業中も良くノートの隅っこに富士スピードウェイのコースを書いて ライン取りの絵を描いていた。自転車も
 常にライン取りを意識してレーサー気分で乗っていた。勿論フレームには文房具屋でなけなしの金で買った3文字 
 アルファベットのGTRロゴを張っていたような変なヤツだった(ロゴを張ったのは中学の頃)。

・R382のリアホイルファイヤーストーンタイヤ付きを当時の値段で5万円で日産スポーツコーナーが日本GP後
 販売していた。子供心に「欲しい〜」と思ったものだが買えるわけでもなく 後ろ髪を引かれた事を覚えている。
 当時 レース総監督青地さんの独断でアメリカからこのレースの為に取り寄せたものだ。長丁場のレースに
 加えハイパワーに耐えうるものは当時のファイヤーストーン社しかなかったそうだ。しかし開発費はすでに
 膨大なものになっており しかし因縁の日本GPにはなにがなんでも勝たねばならぬ と言う会社命令。
 著書に会社の決済が降りるわけが無い金額だった為 無断で発注してどえらい怒られたそうだ。
 そして使わなかったホイルをお金に換える為 雑誌の公募となったようだ。最近 その話をオヤジに
 したところ 当時でもオヤジは知っていて「買おうかな」と思ったそうだ。しかし有っても仕方ないと
 思ったそうで手を出さなかった と言っていた。おしい〜 残念!欲しかったなぁ〜 このブっといホイル。

・助手席をリクライニング式の純正シートに換えたあと “R”の助手席はガレージの中二階に保管していたのを
 私は知っていた。「東和」に売却後“R”の助手席を狙っていた私はつかさず中二階を物色したが無かった。
 あれは残っている唯一の遺産だと思い必死に捜した。何も言わず無言で捜している姿をオヤジは見て
 「助手席は業者が一緒に持っていったで」とポツリ・・・ 流石 抜け目無い。“R”亡き後 せめて自分の部屋に
 シートを置いて座りたいと言う夢は その一言で脆くも潰えた。

・小学生高学年の頃 友達と話をしていると夏休みに家の手伝いをして小遣いをもらう(アルバイト)という。
 僕もそうしようとオヤジにその話をすると頭ごなしに「家の手伝いして何でお金を払わないといけないのか、
 手伝いをするのは当たり前の事だ」と却下。勿論今考えてみると当たり前の事だがウチは他所と違う事にショックを
 受けた。働いた分その報酬をもらうと言う事を教えるという人も居るだろうが家の手伝いだ。これぞ教育だと思った。
 大した事も出来ないくせに こう言う事が日常にあると世の中舐めた子供になるんだと実感した。

今振り返ると我が家にHT・GT-Rが来た時から 私の人生に大きく影響を与えた。

レースやメカニズムに興味を持ち進んだ道が工学系 仕事も畑こそ違うがそのものズバリ。

その間人生の宝とも言える人にも関わり合い貴重な助言も頂きました、その助言も進路に

多大な影響を及ぼしました。ハコスカと共に歩んできた感じがします。

なにしろプリンス魂が根幹となり寄り添って 来たような気がします。

青地氏 桜井氏 生き証人が他界されていった、時は流れ薄れてゆく魂。

ハコスカに乗ってゆく限り その魂は継承して行かなければならないと思っています。

= 親父 : オヤジ =

私も家庭を持ち子供も大きくなり 父と息子の接し方をオヤジと私の接し方を比較するとまるで違う。

私は親父の威厳を保つ為に肩を張ったりしない、私なりの自然体で接している。しかし私とオヤジの

関係を振り返ってみると普通に会話をした覚えが無い。「最近 学校どうや」とか「彼女出来たのか」

など。進路の選択の時ぐらいかな。身長が高く 筋肉質でいくら立ち向かっても絶対勝てないイメージ。

自分で仕事を始めたり 家庭を持ったりすると オヤジの偉大さが身に染みて分かる。

高校卒業と共に親元を離れ今に至る、「若い頃は外で揉まれて来い」とか「若い時には苦労は買ってでも

しろ」と言っていたのが耳に残る。私もそう思ったので故郷から離れた地を選び転々とした。

まさか私自身もオヤジも故郷に帰って来ないとは思わなかったが・・・ 

オヤジは18歳の時広島港からまさに出兵すると言う時に原爆を受けた、終戦後 家に戻るが爺さんが

職人で「宵越しの金は持たねェ」的な人であった為家庭は困窮。このままでは兄弟5人(オヤジは長男)は

弟達が学校も行けないと自ら勉学を諦め働き弟達全員を学校から出す事が出来た。たまに「お父さんは

本当は学問がしたかった」と言っていた。弟達が家庭を持ちようになり まとまったお金が必要になると

お爺さんに金のむしんに来てもお爺さんが出した事にしてオヤジが立て替えて出したそうだ。そういった

お金は返す事も無いのだが返済の請求もオヤジはしないのだ。私たち兄弟3人が大学をダブった時も

大好きなハコスカを売ってそれを当ててくれたがオヤジは何も言わない。実弟が会社を作るのに

大半のお金を出資した事で事業は成功し ヒト財産を築く事が出来た、伯父さんは一人で成功したと

親戚に自慢をするがオヤジはそれを聞いても何も言わないどころか 笑っている、弟の成功が

何より嬉しいのだ。金儲けがうまくて溜まった金ではなく 節制してコツコツ貯めた血の滲むお金だ。

自分を殺して家族の為にと決して表に出ず裏方に徹する そんな人なのだ。

私も年を取るに連れオヤジの背中がますます大きく見え 到底真似は出来ない。多くを言わない変わりに

背中で語っていたのだ。男気を感じる、オヤジの人生を振り返ると目頭が熱くなる。

“偉大なるオヤジの背中” 正義感は半端無し 曲がった事が大嫌い

そのオヤジにハコスカを見せる為に年2回故郷に帰る やはり言葉には出さないが

目じりにシワが入る 喜んでいる証

お願いだからいつまでも長生きしてくれ お願いだから


オヤジは俳優の山村聡さんにそっくり

H23年の正月 帰省した折り いつもは親戚廻りにはオヤジは一緒に行動しないのだが今回は

一家総出で行く事になった。私のハコスカの助手席には誰も何も言わないうちにオヤジが乗った。

小さい頃はオヤジが運転して私が助手席 当たり前だがこの歳になるとコレが当たり前、時の流れを感じる。

乗り降りの際 膝が痛そうで辛そうだ、助手席に座った感じはどんなんだったのだろう それも息子の運転で。

こんな時がいつか来ると想像しただろうか オヤジ85歳。懐かしそうに室内を見回している、

そしていつものように多くを語らないが目尻のシワが嬉しさを物語っている。

ただひとつだけ親孝行が出来たかな。


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