=続き=

H26正月 オヤジに異変が起きていた。私より3時間早く次男の兄貴が帰っていてその間ひと時も

離れる事無くしゃべり続けていたそうだ。それに年末になるにつれ「子供らが帰ってくる」とそわそわし

 次男の兄貴の顔を見るなり泣いたそうだ。それに話の内容は人の悪口ばかり・・・

私が家に着くなりその兄貴が飛び出してきてその変わりようを話してきた「子供帰り」のようだと。

それを踏まえ部屋に入った、オヤジはニコニコしながら話しかけてきた。オヤジの隣に座り話を聞いていると

兄貴のいうとおりだ。しかし戦時中の事やら爺さん&婆さん 兄弟と今まで聞いた事の無い話ばかり・・・

前半は滅多に聞けない事ばかりだったので面白かったがやはり普段のオヤジではない。

そして帰省中の3日間 誰も聞いていないのにず〜と大きな声でしゃべり続けていた。

ひどい時は寝ている兄貴に顔を近づけ ず〜と話をしている様は異様だった。

私たちが帰った3日後同居している長男の兄貴から連絡が入った、嫌な予感がした。

「オヤジが病院に入院した、精神科の・・・」 驚いた。

その後 行動はエスカレートし深夜金鎚で家のガラスを割りまくったそうだ、そして自分で救急車を

呼んで病院に搬送されたそうだ 「自分はもう死ぬ」と連呼していたそうだ。

病名は“せん妄” 認知症やアルツに間違えられがちな病気らしいが治癒可能なものだと聞いて安心した。

後日 あらためて連絡があり おなかに巨大な動脈瘤が見つかり いつ破裂してもおかしくない状態らしい。

もし破裂した場合救いようが無いので覚悟しておいて欲しいと医者は言う。

またその“せん妄”が治まらない限りは動脈瘤の手術は難しいと言う。

お袋から連絡があり「いつ何があるか分からないので生きているうちに顔を見に帰ってこい」と言う。

オヤジの場合 昔 苦労した事や人の尻拭きに回っていた事の怒りが収まらないようで 衝動的に

荒れるようだ。いつも自分は後でも親 兄弟の為に自分が犠牲になっても“縁の下の力持ち”役を

かって出 人の悪口は決して言わない人だった。それが一気に爆発したかのように今は真逆になっている。

私としては今オヤジに会いたくなかった、今帰ると悪い方に進んで行ってしまうような気がして・・・

いつ爆発するか分からない爆弾をかかえて 増して自分が何故病院へ入っているか理解していないようだ。

見舞いに来る身内に罵声を浴びせるは 看護士は殴るは・・・ 拘束帯を付けられているらしい。

でないと点滴も出来ない状態。

ひとつ朗報が・・・ “せん妄”と動脈瘤を同時に引き受けてくれそうな国立病院があるそうで面談の上

受け入れてくれるかどうか判断する と言う。

指定の日 お袋、兄貴、オヤジの3人でその国立病院に行った、問題の動脈瘤は何も無ければ5〜6年は

大丈夫と言う事で今居る精神病院へ帰り“せん妄”の治療に専念する事になった。

帰り オヤジは家に帰れると思っていたらしく精神病院の前に着くなり「家族はオレを見捨てた」と思ったようで

病院の屈強な看護士に両脇を固められ引きずるように入っていったそうだ。その時「○○〜(兄貴の名前)」

を連呼しながら連れられていったという。その時兄貴は罪悪感に苛まれ 非常に辛かったと言っていた。

その場に居たお袋も辛かっただろう、本人は何処も悪くないのに家族に見放され病院に放り込まれたと

思っているようだ。その数日後私が帰る予定になっていたが病院からの帰り道「今来ない方が良い」と

連絡をくれた。ひとまずは時限爆弾はすぐに爆発しないという事で一安心した。

------------ At a later date ----------- 

それから1週間は経っただろうか 実家から連絡が入り オヤジが私に逢いたがっている と連絡が入った。

すぐ家内と帰る事にした。お袋、兄貴と合流 病院へ向かう。

逢った時にオヤジはどんな顔をするのだろう、何と言うのだろう と 道中考えながら環境の良さそうな

病院に着いた。その日に行く事は知らせていない 起きているのか 拘束帯を着けられているのか・・・

いつもなら病室に行くところ応接室で待たされた、するとオヤジは車椅子に乗せられやってきた。

表情は硬くニコリともしない うつむき加減で・・・ 席に着くと「お前らは病院に洗脳されてワシを

こんなところに押し込めて・・・」 そしてお袋を睨みつけて「永年連れ添って最後にワシを裏切った」

「今までワシは人に恨まれるような事はひとつも無い それどころか親兄弟の為に必死に働いてきた

勉強したかったのに・・・ 中二で学校をやめ必死に働いた。それをこの仕打ちか!

 お前らを大学に行かす時にどんなにしんどかったか!」オヤジは泣いていた 鼻水たらして・・・

そして老眼鏡を外し頭を抱えるように机に伏した オヤジのこんな悲しそうな様子を見た事が無い。

背中をさすってあげたい衝動に駆られたがカラダが動かなかった。

病気とはいえオヤジにしたら身を粉にして家族の為に働いてきたそおの家族に見捨てられたと

本気で思っている、としたらその気持ちは計り知れないだろう。オヤジ 違うんだ 違う。

しかし否定するような言葉は掛けてはいけない、「早く治そう」とか 「がんばって」とか・・・

本人は至って正気なのだ。自覚が無いのでいよいよ掛ける言葉が見当たらない。

「○○(私の名前)そばに来い 弁護士を頼んでワシを早くココから連れ出してくれ わかったな

○○(私の名前)までワシを裏切るなら 死んだら皆んな恨み殺してやるからな よ〜く覚えとけ」

私はただただ「うんうん」うなずくだけだった。私は「ごはん食べとる?」と聞くと「点滴とまずい

ゼリーだけだ」 ご飯は喉に引っ掛かり通り難いのでまだ食べれないようだ。足を触れと言うので

触るとルパン三世のように細くなっている、あの筋肉質で屈強なオヤジが・・・

そして意外とあっさり「もう帰れ」と言ってあとも振り向かずオヤジは病室へと引き上げていった。

一度も振り向かず・・・

何とも言いようの無い気分で私たちも病院を引き上げた。糖尿があるのでその薬と“せん妄”の

薬は同時に投薬出来ないようで日々の様態は安定していないそうだ。ただ拘束帯は外れ

人の前に出てこれるということは少し好転したと見て良いのではないかと思う。

そして医者が言うには「この病気が治れば多くの人は病中の事は覚えていない」と言う。

そうであって欲しい。痩せこけてあの恨みに満ちた眼光鋭い表情は目に焼きついた。

これほど皆んな早く治って欲しい 何としても治してやると思う気持ちとオヤジが抱いている

気持ちがこれほど乖離がある事が辛い。今オヤジはひとり病室で何を思い過ごしているのだろう。

そう思うとやり切れない 切ない。

------------ Then -----------

その精神病院はクルマも運転出来ないお袋にとって電車 バス 徒歩と84歳のカラダにはしんどいだろうと

思われる道のりを何時間も掛け毎日通い始めた 顔を見ると罵声を浴びせるオヤジのもとに・・・。

通っているうちに少しは受け入れるようにもなったようだが「あれ買って来い ナニをしろ」とわがままを

言い お袋をこき使っていたそうだ。そうしているうちにオヤジは肺炎を併発したようで酸素マスクをし

ぜぇぜぇ はたで見ているだけでしんどそうな日々が数日続いたそうだ。その後の病状が気になるので

お袋に電話すると「だいぶ良くなった 息もしんどそうでは無くなったし」と。「そんなにしょっちゅう連絡

して来なくて良い」と言う。「何かあったら連絡するから・・・」 いやいや何かあったら困るんだけど。

お袋はそんな意味で言ったのでは無いと思ったが・・・

まずは肺炎も峠を越え ほっとした。

------------ After a few days -----------

兄貴から電話が入り 地元の主治医のいる病院に移ったと連絡が入った。兄貴とお袋が付き添って。

オヤジもちょっと前「ココは精神病院だからこんなところで死ねん 地元の○○病院に移してくれ」と

何度も言っていたそうだ。入院の検診を終えて病室にストレッチャーで運ばれる際 お袋が「○○病院に

戻ってきたよ 分かる?」と問いかけた時酸素マスクをして「うんうん」とうなづいていたそうだ。

その精神病院では肺炎は充分な治療が出来ないとして本人の希望もあり地元の病院で専念する

という意向のようだ。一歩づつだが障害を乗り越えてきているので後は日にち薬かと安堵した。

それが午前中。

------------ and -----------

その日の夕方 兄貴の嫁から連絡が入り「今 病院から連絡が入り オヤジの息が止まっている」と

連絡が入った」と・・・ そ そ そんな・・・ 嘘だろ

「今 兄貴とお袋が病院に向かったいる また連絡する」と。

愕然とした 嘘や 間違いであって欲しい と願いつつ連絡を待った。その時間の長い事長い事。

夜11時兄貴からの電話 私は開口一番「オヤジは息を吹き返したか?」と聞いた。

兄貴は低い声で「オヤジが亡くなった・・・」と。言葉が出なかった。だってお昼にだいぶ落ち着いた

といってたじゃん・・・

私は「分かった すぐ帰る」と言って電話を切った。

放心状態 私が一番恐れていた しかしいずれは来る事が今現実に・・・

手が振るえ 涙がとめどなく流れてきた。

狼狽しながら家内に連絡をし帰り支度をした。

家に帰り明日の為に自分の部屋で寝ようと目に入ったものが 今年の正月オヤジが「持って帰れ」と

くれた 携帯用自転車 レトロなカメラ類が。何気にコレが遺品とならないように と思ってはいたが・・・

むなしく 悲しい風景だった。 涙がとめどなく流れる

------------ Next morning -----------

勿論眠れるわけでもなく朝を向かえ高速を飛ばしかえった、車中無言。

家に着いてオヤジを見たときどんな衝動にかられるか 頭の中をぐるぐる巡る 嘘であって欲しい。

家に着くとオヤジは自分の部屋でいつものように寝ていた 頭や顔を触ると異常に冷たい。

本当に死んだんだと悟った オヤジ早過ぎる・・・ 目を覚ましてくれ いつもの笑顔を見せてくれ

そんな そんな そんな・・・ ずっ〜とオヤジの顔を見ていた。

今までありがとう ありがとう ありがとう 口には出さなかったけど大好きだった。

いつか来るとは思っていたがいざとなると受け入れられない。

何度も何度も顔を触っていた あまりに冷たいので僕の手で暖めてあげたくて 目を開けてくれないかと。

ずっ〜と顔を見ていた。涙が止まらない 悔しい。

父ちゃん(小さい頃から家では父ちゃんと言っていた)は自分の人生満足出来たものだったのか。

どう 良かった?と心の中で問いかける。

涙が止まらない

昨日の今は生きていたのに

少し安心したのはあの時と違い 実に和やかな顔をしていた事

泣き顔を家族に見られたくないのでしばらく表でぼぉ〜としていた

子供の頃に良く見上げた空 いつもと同じ でももうオヤジは居ない

また涙が出てきた

しばらくして家族に合流 皆 普段と変わらない 大人だなぁ

悲しくないわけが無いのに

あと数時間でお通夜の為にオヤジは斎場に向けて家を出ると言う

名残惜しくて もう見れないと思うとなるべくオヤジの近くに居たかった

ただただオヤジの顔を見ていた

ありがとう ありがとう

感謝の言葉をいくら並べても足りない すごい人だった 偉大な存在だった

とても真似出来ない


斎場のクルマが来て親族でオヤジを運んだ 軽い

そう言えば私にとって最後となった面会で80キロあったのが60キロになったと言っていた

この軽さが泣けてくる 触った足が細かった 自分の体重も支えられなくなっていた

お通夜 兄弟3人で線香の守 暇が有ればオヤジの顔を眺めていた

昨日まで生きていたのに 自分の寿命が分けてあげられるなら・・・

残りもっと充実した日々を送らせてあげたい

今更と思うけれど いい年こいても甘えていた事を悔いる

いつも大きく見守ってくれていてくれた 大きく深い愛情を感じていた

厳しく 曲がった事が大嫌い そして黙っていても優しかった

そして遂にオヤジは灰になった

この世からオヤジが居なくなった 寂しい 

実家の何処を見てもオヤジの気配がするようで・・・

いつかこの日が来る事は分かっていたが遂にその日が来てしまうとは・・・

江原さんに聞いてみたい 「今 オヤジはどう思っているのか 自分の人生良かったか

私たちは自慢出来る息子であったのか」


オヤジが死んだと聞いてから思った事がある。

今までオヤジ好きなGT-Rが我が家に来たお陰でスカイラインが好きになり いつしかオヤジは“R”を

手放した 我が子の為に、そしていつかスカイラインを私が乗って帰りオヤジの喜ぶ顔が見てみたいと。

案の定 30年後 予想通り口には出さねど喜んでくれた。

里帰りする度に漠然と「あと何回見せられるだろう」と思いながら。

亡くなってやっと気付いた。

私がハコスカを好きなんじゃなくて“オヤジが好きだったハコスカ”を通してオヤジが好きだったという事を。

そのオヤジから譲り受けたハコスカではないけれど私のハコスカはオヤジの形見だと思うようになっていた。

私のハコスカもオヤジと同じ運命を辿るような気がするが大事に使おう、オヤジと毎日身近に感じて居られるよう。

本当に好きだった

------------------------------------------------------------

火葬場の帰り お袋が横に座っていた。お袋がポツリポツリとオヤジがおかしくなってきた時からの

事を話しだした、勿論すべて知っているが流石のお袋も気が動転しているようだ。

気丈に振舞っているお袋をみると その気持ちの計り知れなさは想像がつかない。

その中で「去年の12月 ゆっくり寝れるように高い布団を買ってあげた」と言う。

「いくらも使わないうちに死んでしまって・・・」その時にオヤジは「ワシは今までやりたい事はすべてやって

欲しい物もすべて手に入れた、もう充分満足している。おまえは今まで自分の欲しい物も我慢してきた。

これからはワシはもういいから自分の為のものを買え」と言ったと言う。また泣けてきた。自分の

両親とは言え「何という夫婦なんだ」と。


オヤジの遺体に掛けてあった布団がその布団だった、家からオヤジを運び出す時誰かが言った。

この布団もう処分したら と。するとお袋はまだ使うから置いといて と言った。布団の裏は

ドライアイスの霜でバリバリになっていたので処分したらと言ったようだ。

お袋はもったいないからではなくて オヤジが最後まで身に着けていたものを使いたかったのだ。

それも少し良くなったと思った矢先の“突然の別れ”だっただけに それも死に目に見とれなかった事。

私財をなげうっても絶対治す と言っていただけに その悔しさは計り知れない。お袋が心配だ。


お袋は子供らが一人立ちするまで自分の好きなことは一切せず節約をしてきた、服も買わず

穴が開いていても治して着ていた。自分の時間が持てるようになって趣味を楽しんでいた。

家を空けることも多くなり オヤジをずっと一人で居させた事を悔いているようだ。

オヤジは今まで苦労させて来たから楽しそうにしているお袋をみて「自由にさせてやろう」と

自分の寂しさを我慢してきたようだ。

この病気が治ったらまた一緒に写真を取りに行ったり 旅行に行こうとオヤジに言ったら

オヤジはウンウンと嬉しそうにうなづいていたそうだ。絶対治してみせると言う気迫と言うか

決意がみなぎっていた。その矢先・・・ さぞ悔しかろう お袋もあまり本心を言う人ではないだけに

気持ちを察すると辛い。何とか和らげてあげる方法は無いものか。


オヤジの様子がおかしくなった正月 オヤジは言っていた。「ワシは自分の趣味で“R”を買って

失敗した、○○(私の名前)はクルマに狂って成績は落ちるし 大きな無駄な金を使ってしまった。

いずれお金が要る事は分かっていて馬鹿な事をした」その為にお袋に苦労を掛けたと悔いていた。

私が帰る時珍しく助手席のドアを空け「こんな金食い虫 早く売ってしまえ いいな」と言っていた。

私はただただ苦笑いするしかなかったが・・・


遺体が帰ってきた夜 お袋はポツリと「最後まで何一つお父さんの言う事を聞いてやれなかった」と言った。

せん妄なので無茶を言うのでそれは仕方が無い と言うと 分かっているけどかわいそうな事をしたと

悔いているようだ。お互いを思う夫婦愛の深さ 泣けてくる。


オヤジは不言実行ですべてを態度で示してきた そのオヤジの背中の大きさ コレが男のかっこ良さだと

態度で示してきた、本当に男の美学だと思ってきた。しかし今は普通に有言実行がカッコ良いとされる

世の中になっている。そんなのクソだ、かっこ悪いと声を大にして言いたい。日本の美学は継承して欲しい。

そんな感覚の人が増えて欲しいものだと切に望む。


後で聞いたのだがすでに随分心臓が弱ってきていて 思うように体も動かない 老いに対する

歯がゆさと失望は身に染みてきていたそうだ。老いた姿を人に見せたくないとも言っていたそうだ。

小便の切れの悪さや近さ だからなるべく水分を取らなくなった オシッコをする時痛みもあったようだ、

高齢による薬漬け 不眠による睡眠薬の常用、食べ物も喉を通り難くなり食も細くなった。

老いさらばえてゆく自分が情けなかったようだ。そして寂しさがせん妄を発病させたようだ。

お袋にとってはあんな姿で最後を迎えさせたことがかわいそうでならず自分を責めているようだ。

あとは我々家族がすこしでも傷んだ心を癒してあげなければ。

出棺の時 お棺の中にメッセージカードをそれぞれ入れたのだが 兄貴の嫁がたまたまお袋の書いた

ものが見えたそうだ、それには「私もすぐ行くからね 待っててね」と書いてあったそうだ。

お袋84 泣けてくる。


訃報が来た日に仕事でやたらイライラする事があった、極めつけは指をきつく挟む怪我をした。

こじ付けと言えばそうかもしれないが第一報から遡れば丁度その時間にあたる、虫の知らせだったのか。


その夜 オヤジが夢枕に出て来ないかと思った、夢でも逢って話がしたかった。


急遽仕事を終え 当日の身支度は家内に任せて翌日荷物をクルマに乗せ走った。

通夜の為 喪服に着替える際家内が奇声を上げて私を呼んだ。「喪服を忘れた!」

一番必要なものを忘れるか 用意はしてあったが積み込むのを忘れたそうだ。

お袋にオヤジの喪服貸してと頼んだ。実は夢だったか ふと思った事か忘れたが

オヤジの葬儀にオヤジの喪服を着たりしてと思った事があった、そうなった。

ズボンは大きかったが上はピッタリ なんだか不思議な気分。

何かオヤジの物を身に付けられて嬉しかった。

日を追ううち オヤジがいない現実に悲しみが深くなっていくんだろうな。

この年になるまで親が亡くなる悲しみを延ばせてもらえた事を有り難く思う。

八十八と言えばオヤジは自分の親より長生きした こんな年まで生きると思わなかったと言ったぐらい

なので大往生と言うべきなのか いやいや自分の親は別だ。

オヤジが入院してこの地域の地神様に毎週休みに「どうかオヤジの力になって下さい、

見守って下さい」と拝みに行っていた この窮地を切り抜けて欲しい為に。

訃報の後 神様は私の願いを聞いてくれなかった と失望したが いやいやオヤジにとって

これでよかったんだと思うようになった。それは一番は治る事だけどいろいろオヤジのカラダの状態を聞くと

ここまで良く耐ったと思ったからだ。病気の力を借りてオヤジの本音も聞けたし オヤジが嫌う

人の世話にならず すっと逝った事。欲を言えばせめてお袋に看取らせてあげたかった。

心の準備をする時間を上げたかった。でも感で肺炎で苦しんでいる姿を見て もしかして・・・

と思ったようで何を言われても毎日行くと言い出した。今行かないと後悔するかもと言っていた。

最後まで寄り添いたかったのだろう。それまで兄貴が行ける7〜10日間隔で行っていたのが

84のカラダで長い時間を掛けて毎日通っていた。電話した時「だいぶ良くなって息も楽になったから

心配せんでもいいよ」と言っていた。その時は随分心臓に負担が掛かっていて命の炎が徐々に

小さくなっていてカラダが動かなかったんだと思う。自分が願っていた地元の病院に着いて

安心してその炎が潰えたんだと思う。逝ったあとは元のオヤジに戻っていて皆にありがとう

満足だったと言っているような気がする。今週地神様にお礼を言いに行こう。

神様は出来る最善の方法を選んでくれたと。

------------------------------------------------------------

=思い出した事をここに印しておく=

そういえばオヤジのパジェロのキーに子供の頃にあげたGT-Rキーホルダーが付いていたのを

思い出した。パジェロも処分される前に絶対もらって帰ろうと兄貴に言うと別のキーケースに変わっていた。

そのキーケースも新品のようだったので極最近変えられたのだろう 出てきたら取って置いてと頼んでおいた。

私のはまだ封も切っていないが私のハコスカに付けておきたいと思ったのだ、残念だ。

私には何より値打ちある遺品だ。

出て来る事を祈る。ハゲハゲ キズキズのキーホルダー。ずっと使っていてくれた事が

何より嬉しかった。

それと私が結婚して家内の発案で毎年誕生日にプレゼントを贈るようになった。

その中で自分が使っていた時計のベルトで被れるようになったと言っていたのを覚えていて

チタンの時計を贈った。家に帰る度その時計は使わず飾ってあった。使わないと意味が無いと言っても

しばらく飾ってあったのを思い出した。私があげたチタンの時計はあるかとおふくろに聞いたら

いつも飲んでいた薬箱の中に入っていた。止まっていたが使用感バリバリだった。

使っていてくれたんだと思い それをもらって帰ってきた。電池入れ替えて動くかな。

いくつになっても親は親 子供は子供、54のオッサンも家に帰ると子供になる。

その家にはいつも両親が居るのが当たり前の事だった、居心地が良い。

それもこれからは・・・ 私が死んだらオヤジと同じ墓に入れて欲しいと随分前から

思うようになっていた。やはり生まれた故郷の土に帰るのが落ち着くと。

そう思えば私の子供たちは可愛そうだ、今住んでいる家は借家で私のものではない。

甲斐性が無いもんでこれから買えるはずも無い。残してやれる家が無いと言うことは

落ち着く実家が無いと言う事だ。オヤジは偉いなぁ。

------------ The following day -----------

翌日 朝起きてもすでに家内はバイト、子供らは学校へ・・・ 誰も居ない。

オヤジの回復を祈願しに行っていた神社に行ってこよう。

オヤジからこの正月に持って帰れと言った折りたたみ式の自転車。

カメラをやっている時にオヤジが持ち運び出来る移動用の為に買った物だ。

伯父さんが亡くなってからカメラもやめ その自転車も使わなくなって倉庫へ入れっぱなしに

していたものだ。私の家には私が乗る自転車が無かった、オヤジの回復祈願に行くのに

丁度良かった。二階から降ろし組み立てていると防犯登録にオヤジの名前が・・・

また涙が出てきた。

やはり何を見てもすべてが悲しく見える、神社ではオヤジに出来る最善の事をして頂いて

本当に有難う御座いました とお礼を言って後にした。

帰り道 何気に思ったことにハコスカに乗っていると良くオッサンに声を掛けられる。

「懐かしいなぁ〜 綺麗に乗っていますね」と。

いつもなら「ええ まぁ」と言うぐらいなのだが

これからは「オヤジの形見です」と言おう と。

------------ and -----------

そしてその後 私が誕生日プレゼントであげたチタンの腕時計を時計屋に出しに言った。見るところ

電池が切れて随分経っていそうだったので液漏れで動かないのではないかと思った。

レンズも黄ばんでチタンの表面も薄汚れ感が。若干の期待も込めて置いて帰った。

仕事場には来ているものの 仕事する気がしない。あれから3時間は経っただろうか、

動くかどうかどうしても気になって引渡し伝票の電話番号に電話した。

私:「云々〜 時計は動いていますでしょうか?」

店員:「少しお待ち下さい・・・」

待つ事1分・・・ 長い ダメなのか

店員:「お待たせしました、ちゃんと時を刻んでおります」

私:「有難う御座います 明日取りに行きますので」

やった〜 ごっつ嬉しかった オヤジの時計の時が動き始めた。


今やもう一つのお守り 肌身離さず持っている

------------------------------------------------------------

お袋が心配だ 常に二人三脚で来た、オヤジはいつも自分の事はさておいてお袋を気遣い 

お袋はいつも自分の事はさておいてオヤジを気遣う夫婦だった。

お袋は治ると信じていたのに黙って一人で逝ってしまった、それも“気違い”のようになって。

もっとああやってあげていたら とか、もっとこうしていれば と後悔ばかりしているに違いない。

さっきまで生きて一緒に居たのに 黙って逝ってしまって 冷たい、と思っているに違いない。

死んでから皆の前ではいつものお袋で気丈にふるまっていた。同居している兄貴の子供が言うには

一人で居る時に涙流してたよ と聞いた。お袋らしい だけに気落ちは計り知れない。

自分を責めて 責めて 責め続けるに違いない。救いなのは兄貴一家が同居しているので

気遣いをしてくれる 話をする相手がすぐそばに居る事だ。オヤジは言っているに違いない。

これからは自分の好きな事をしろ と。



私の心の整理の為に書いています ご勘弁を。

------------ Another day -----------

オヤジの事で御礼を言いに龍馬さんのところに言った、お墓には背中が曲がったお婆ちゃんが

花やらお水の入替えをしていたので手前の京都の町並みが一望出来るところで一服していた。

一服が終わると誰も居なかったのでゆっくりと御参り出来た。振り返るとお婆ちゃんが

水を汲んでいた 横を通り過ぎる時そのお婆ちゃんは「こんにちは」と声を掛けてきた。

私は「良くお花を手向けに来られるのですか」と聞くと「はい 月一度は必ず来ている

この100年近く」 お話を聞くと勤皇の志士ゆかりの方らしい。「近代史お好きなの?」

私は深くは知らないので恥ずかしくなった。いつも一服しているところの奥にもお墓がある。

お婆ちゃんは「こっちは奥に入っているので誰も来なくて寂しそうだ これからはこちらにも

参ってあげてね」と言われるので一緒に手をあわせた。志士の個別の名前をあげ 誰がどうの

こちらがどうの と まるで少し前の事のように説明してくれた、こういう人に会えるなんて

有り難かった。「また来ますので お会いしましょう」と言うと にっこりされて深く頭を下げられ

階段をゆっくり降りて行かれました。一分ほどして私も降りて言ったのだが“あれっ お婆ちゃんが

居ない” あのひとつひとつゆっくり降りて行かれた感じでは充分追いつくと思ったのに・・・

? ? ?

------------ Separate case -----------

昨年の正月だったか いつも夜は遅くまでTVを見ている。夜2時ぐらいだったかオヤジが

起きてきて徐にインスタントコーヒーを入れだした。てっきり自分が飲むものと思ったが

私に差し出し部屋を出て行った。??? 今までこんな事は一度も無かった。

どうしたんだろう? いつものオヤジではない優しさを感じた。

------------ Separate case -----------

今は7月 生活の中でたまに“アンドレ・ギャニオンのめぐり逢い”という音楽がTVやラヂオから聞こえてくる時がある。

この曲は初めて「何という曲だろう?」と思ったのは“余命1ヶ月の花嫁”という実録の番組中で流れていた時だ。

何とも切なく哀愁がある曲なんだろうと気にはなっていた。You Tubeで必死に捜すとやっと見つけた。

それが“アンドレ・ギャニオンのめぐり逢い”という曲だった。

オヤジの葬式 出棺の時にBGMでコレが流れてきた “あっ”・・・

それからこの曲を聴くとオヤジを思い出すようになった、悲しさがこみ上げて来るのではなく

何とも懐かしく あのオヤジの優しさに包まれたような安堵感が出てくる。

いつしかオヤジの曲になっていた。

------------ Wait a little time ----------- 

時が流れるのは早いものでオヤジが亡くなって丸1年・・・ 時の流れが早過ぎる。

今オヤジは何処に居るのだろう たまには見に来てくれているのだろうか。

時折々に思い出す物事があるがつくづく家族、兄弟想いの人だったか 痛切に感じる。

特に子供の先々の事を考え 行動していたかを。

多くを語らない子供ばかりだが年に数度全員が集まるのを心待ちにしていた。

その子供も家族を持ち 全員で集まる、それを何より楽しみにしていた事か・・・

泣けてくる。

お袋から時々聞くことが出来た私の家内 事に触れるたび褒めてくれていたらしい。

家内を選んだ事が唯一の親孝行だったのかもしれない。

人の死に様を考える事も多くなったがオヤジの事をおもうと理想はあっても現実は

そうはいかないものだと思うようになった。

オヤジは地元の病院に帰って お袋が「帰ってきたのが分かる?」と聞いたとき

ストレッチャーの上で軽くうなづいた(最後の時)と言っていたが カラダは動かないが

意識だけははっきりしていて何か訴えたい事があったのではないだろうか。

そしてもう自分は死ぬ事を悟っていたのではないか。

せめて せめて永年連れ添ったお袋には看取らせてあげたかった。

まさか まさかの事だった。

私自身は“死ぬ”事が少しは怖い事では無くなった、オヤジに会えるからだ。

死に方ではなく どう生きてきたかが大事だと教えられた。

オヤジの子供で良かった ありがとう ありがとう。

------------ On the other hand -----------

学生の頃から大きな休みになると実家に帰らず 旅行に行く友達は結構居た、

特にお盆や正月に。親元を離れて生活していてたまの休みに何故故郷に帰らないのか

私には理解出来なかった。親に顔を見せる そして家族全員が揃う それが盆正の意義。

ウチの家族はオヤジがそうしろと言ったわけでなく自然とその意義を理解していたので

その大事な時期に他所で遊びほうける“うつけ者”は一人もいなかった 家庭の教育の

賜物だろう。それより帰ると嬉しそうな顔が見れるのが私も楽しみだったからである。

特にオヤジはそれを楽しみにしていたようだ、特段話をするわけではないのに。

口には出さないけれど。

------------ There from 1 year -----------

オヤジが死んでもう1年経った、自分自身も年を取るたび1年経つのが異様に早く感じる。

夢でも良いからオヤジに逢えないものかと願っていたがまったくその気配は無かった。

そんなある日夢にオヤジが出てきた。

ほんの少しだったが満面の笑みを浮かべ立っている。

私は子供のようにオヤジに抱きついた、そう まさに小さい頃のようなオヤジの大きさだった。

オヤジは笑っていた・・・ 見た事も無いような曇り無き笑顔

ただそれだけの短い夢だった。

私は“ほっ”とした、いつものオヤジに戻っていたからだ。

いつも近くで見守っていて欲しい。

好きだった。

------------ Subsequently -----------

私の子供たちも大きくなるに連れて相対する態度も少しづつ変わってきた。

私が自分の子供と同じ頃を思い出すとつくづく大きな親の愛で包まれていたんだなぁ と思う。

色々な事を思っていたんだろうなぁと思うけど それは口に出して指摘される事は無かった。

信じていてくれたのだと思う。

------------ Wait a little time -----------

オヤジと会う最後の正月に「○○(私)は学生の時に学級委員になった」とポツリと言った。

兄貴に言われたが「オヤジは表には出さなかったが学歴にはひどいコンプレックスをもっていた。

だから自分の息子が表彰されたり役員になったりするのがすごく嬉しかったんだ。」と。

子供にはそんな劣等感だけは持たさない 味あわせたく無いと言う想いの為にGT-Rまで売って学費を捻出してくれた。

私が26の時にオヤジの逆鱗に触れて以降10年間勘当された。

お袋や兄貴はオヤジと意地を張る私の間で右往左往しヤキモキしていた。

そんな中でも一応元気でやっているという証に専門誌に乗る度に家にはその専門誌は送っていた。

その当時 私にはオヤジは全否定状態で何の信頼も無かったようだが その陰では専門誌を持って

ご近所に見せて回っていたそうだ「ウチの息子が本に載っている」と。

親戚の伯父(弟)のところにも・・・


そう言えば学生の頃も 結婚して里帰りする時も帰る日には朝から度々家の前に出て「遅いな

遅いな」と言いながら何度も出たり入ったりしていたそうだ。

そんなことも私は知らず帰ると オヤジはそんな素振りも見せず「おお 帰ったか」と一言。

ただそれだけだ。

それがオヤジだった。


------------2 years since then-----------

あれからもう2年が経とうとしている、時間が経つのが早いのか遅いのか分からない感覚だが・・・

休みの深夜 映画などを見ながら寝るのですが何故か“Alweys ”が見たくなってたまたま手にしたのが

「三丁目の夕日 ‘64」(3作目)でした。劇中小説家として生計を立てている茶川は父から勘当された

経緯があり 父の死後 父の想いを知る事になり父への誤解を悔いるシーンがある。

コレを見ていて私の人生にダブってしまった。

私の場合も当初 大手の企業に勤めていたが親に相談もなく今の仕事を始めた事を事後報告した。

するとオヤジは激怒 「何の相談も無く自分で勝手に決めて・・・ お前には親は必要ないのか!」

「それなら親でもなければ子でも無い 一人で生きてゆけ、兄弟 親戚にも迷惑をかけるんじゃないぞ」と。

あとから考えるにオヤジは学歴などにコンプレックスをもっていて 自分の子供には

同じ思いをさせたくないと言う想いで苦労して学校を出させてくれた。

そして大手に就職出来た事が自慢に思っていた。

そんな想いにも気がつかず自分勝手に判断して行動してしまったのだ。

私も若かったので売り言葉に買い言葉、「もういい 一人で生きてゆく」と。

ソレまでは私の中にアマエがあったのは確か 何かあれば親に言えば良い的なモノが。

これからは着実な商売をしなくては と 確かにやり方は変わった。

親戚の口添えなども途中であったが傲慢にも跳ねつけた。

オヤジと私の間で右往左往するお袋・・・ 8年が経つ間クッションになってくれたのが親と同居する兄貴だった。

その8年の間 言葉を交わす事はしなかったものの 一応元気にやっている証としてレースのリザルトだったり

ウチの車両取材 インプレ 特集がある度にその本は実家に送っていた。

兄貴の話しによれば その本を持って親戚やご近所に見せて回っていたと言う。

劇中にも同様なことが有り 親の情の深さに泣けてくるのである。

------------ Wait a little time -----------

これも後で分かった事だが オヤジの私に対する印象は優柔不断で自分の意思が見られなく頼りない。

要は一人の人間としてまだまだ認めるレベルではないと言うことだったようだ。

オヤジとお袋の間の会話でおそらく私の事になれば頭越しに全否定するような会話が続いたようだ。

そうした時の流れが続いたようだが ある日お袋が切れたそうだ。

今までお袋がオヤジに口答えした事など一度も無く オヤジの言いなり状態だった。

「○○(私の名前)もあれから一人で頑張って親にも頼る事無く 雑誌にも載るまでになった。

もうそろそろ認めてやったらどうか」と。

この一言にオヤジは反論出来なかったそうだ。

その後アニキから電話が掛かってきて「そろそろ帰ってこないか」の一言で私もコレをきっかけに

しないと帰れないのではないかと思い その年のお盆に帰ったのでした。

------------ Then -----------

もうオヤジが亡くなってどのくらいになるんだろう、お袋も認知症を患って

あのやさしいお袋が“お袋”でなくなってきている。

寂しい

最近妙にふるさとに帰りたくてたまらなくなってきている

勿論 第二の人生を過ごす永住の地

オヤジが愛した地元 兄弟や子供の頃楽しい思い出が詰まっている

古くからの友人 懐かしい風景

還暦を超え いつまで経っても“大人”に成りきれない自分が居る。

とうちゃん

------------------------------------------------------------

続き

=To be continued.=

オヤジのもうひとつの趣味

戻る