を 語るに欠かせない技術者達

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私は小さい頃よりハコスカをライブで見てきて自分なりに培ってきたやり方で自分のハコスカを手掛けて

来ました、それが今の流行とも言えるやり方の逆行であるが故に賛同者も無く 同調出来る友もいない。

自信安危になって来ていましたが“Racing on”の櫻井眞一郎氏のハコスカに対する想いや情熱を

改めて目にして 今までのやり方に間違いは無かったと確信しました。ハコスカがどういうコンセプトで

作られ熟成されていったか それを正しく理解しておかないと迷走したものとなり 一時のサルの腰掛と

なってしまう。ただカッコが良いからだけで乗っていてはハコスカは応えてくれない事は下の櫻井氏の

言葉で分かってもらえると思う。あなたの胸に伝わってくるものが何か有るだろうか。


櫻井眞一郎は「スカイラインの生みの親」ではない

櫻井は「ハコスカとR380の開発者」なのだ

櫻井はハコスカを「こだわりだらけのクルマ」と評し

「レースに勝っても満足した事は無い」と言った

一方でマツダとの対決は「気にしていなかった」と言う

櫻井は、自らの“理想のクルマ像”をもっていた

ハコスカGT-Rはそれを体現したクルマであった

櫻井がハコスカGT-Rに求めたものと

後年のGT-Rたちに感じているものを訊いた−


「高速ツーリングカーを作りたかったんです。鼻で感じるのでない『匂い』が有るというのでしょうか。

乗りこなすのは容易ではないけれど、好きな奴にはとことん好きなってもらえるクルマ。

イヤな人はよそへ行ってくれるだろうという、男くさいクルマを作ろうと思っていました」

2リッターと言う排気量は非常に優れた枠で、日本という国にぴったりだと思っていた。

日本のクルマに最適な排気量は1.8〜2リッターに有ったんだろうと思います。

あくまでも2リッターという枠の中でどれだけ性能を追求出来るかに挑戦したGTだった。

「レースに勝っても満足した事は無く 常に積み残しがあった、そもそも4ドアではやり残した

事があり 後に投入した2ドアのショートホイルベース版は良かったですね。

4ドアでは限界が有ったのですが 理想が実現出来たように思います」

「ロータリーに負けたけれどもあれはセオリーが違うエンジンでレシプロ2リッターという枠の中で

作られたものではなかったから気にはなりませんでした。あれに負けてもなんとも無かったし

闘争心も感じませんでした。そもそもロータリーと戦っても意味が無いとさえ思っていました」

レースの現場では競争を成立させる為に排気量換算率(当時の係数は2)が定められていたが

厳密な理論に基づく数字ではない、したがってその基準で為された競争の結果も櫻井氏にとっては

技術的な意味を待たなかった。後継のケンメリは“女性でも乗れるクルマ”と言うキャッチフレーズ

が付いたように櫻井氏が理想とするGT「男くさいクルマ」とは明らかに異なる路線になって

遠ざかって行った。その後櫻井氏は「もっとサイズダウンするべきだと何度言ったかしれません。

スカイラインGTはハコスカのようにホイルベースが小さなクルマで有るべきでした。

プリンスの時のまま 私にスカイラインを任せていてくれたなら・・・」と櫻井の目は空を切る。


やがてGT-RはR32で復活し現代のR35ではスカイラインではない、独立したモデルとなった。

だがハイテクを満載したR35GT-Rについては櫻井氏は複雑な気持ちを持つ。

「R35がクルマとして悪いという意味ではなく 私自身が好きか嫌いかと問われたら『好きじゃない』

と言わざるを得ません」単に自ら理想とする「味」や「匂い」を新しい技術に感じないからと言う

理由ではない。例えば四輪駆動システムは6代目R30で採用するつもりだった。

「馬は前足と後足を使って走っていく。後足で走る動物はごく一部だけでし。でも電気仕掛けには

したくなかった、機械的に実現したかった。なぜならそうでないと自分の意思通りには動かないからです。

自動車側がドライバーに何かを押し付けてはいけません」

センサーが条件の変化を感じ取りコンピューターが分析して車体各部へ対応を指令する。

そのわずかなタイムラグが櫻井氏には許せない。制御は機械的に直接リンクしたシステムが

リアルタイムに行わなければドライバーの意志とクルマの動きにズレが出来る、と言うのが櫻井氏の持論だ。

その意味でハコスカは「自分で感じて何かを働きかけないとうまく動かない。けれども働きかけに

その通り応えて 運転する自分が納得出来る動きをするクルマ」を理想として櫻井氏が究極に仕上げた

クルマがハコスカ(ハードトップ)であった。


理想のGT 究極のGTを追求し レースと言う場で試行錯誤の上 磨き上げられたひとつの答えが

ハコスカハードトップになったわけで その勇姿に“男前”な匂いがプンプンするクルマなわけだ。

SPIRIT

桜井眞一郎(故人)



桜井 眞一郎(戸籍上の氏名は櫻井眞一郎)(さくらい しんいちろう、1929 - 2011 1月17日、心不全のため死去、81歳。 )は日本の自動車技術者。

株式会社エス・アンド・エス エンジニアリング代表取締役。神奈川県出身。

旧プリンス自動車工業入社組の日産自動車社員として長期間在籍し、旧プリンス時代からスカイラインの初代から企画開発に携わり、

2代目からは開発責任者(主管)として7代目の開発終盤まで長期間携わっていた事から、「ミスタースカイライン」「スカイラインの父」として

自動車ファンの間からも広く知られている。

また、清水建設に勤務していた時代に、日本で初めてバッチャープラントとコンクリートミキサー車(生コン車)を開発した人物でもある。

清水建設時代
1951年旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)を卒業後、自動車メーカーへの就職を希望したが、当時の自動車業界は不況のため

新卒者を採用せず、教師の勧めで清水建設を受験することとなった。桜井自身はこの会社に興味があったわけではなく、

「受験者ゼロでは翌年以降の求人に関わる、受かるわけないし受験だけでいいから」と言う学校側の事情と、「日当と弁当が出る」という条件に

つられて受験することになった。

「挑戦的な性格」と自他共に認める桜井は、面接では言いたい放題で「当然受かるわけがない」と気楽だったが、清水建設側は彼に内定通知を

おくる。桜井はあわてて学校側に抗議するが、内定拒否などすれば受験者ゼロより悪影響なのは明らかで、学校側は「自動車会社からの求人が

あったら、真っ先に連絡する」と約束して説得。結局桜井は清水建設に入社する。

東京駅近くの現場を担当することになった彼は、その研究熱心な性格と、もともと機械を専攻していた技術力から、自動的にセメントをこねて

コンクリートにする機械(バッチャープラント)を発明し、この現場にて使用する。これにより、工期を大幅に短縮した彼は、社内での評価を

急上昇させる。

続いて担当した現場では、バッチャープラントを設置するスペースがなかった。桜井はアメリカですでに使われていたコンクリートミキサーを

トラックのシャシーに載せることを発想し、国内では初めてのコンクリートミキサー車(生コン車)を完成させる。そしてこの現場も、従来の工期より

早く完成を迎えることが出来た。

たま自動車〜プリンス自動車工業〜日産自動車時代
1952年10月、プリンス自動車工業の前身であるたま自動車の求人情報を学校から聞いた桜井は、清水建設の上司の引止めを振り切って転職。

設計課に配属される。プリンスの面接でも、実質的創業者だった外山保から「なぜ清水建設を辞めてウチのような貧乏会社を志望するのか」と

質問され、「私は自動車をやるために志望しました。貧乏会社? 大いに結構」と啖呵を切ったという。

配属後、すぐに、プリンス・セダンのコラムシフトレバーの改良を任せられる。このレバーは折れやすくクレームが多発していた。

この設計において上司と対立。強度を上げるために太くするべきという上司に対し、桜井は細くしてしなりを持たせるべきだと主張して改良を

施した結果、プリンス・セダンのコラムシフトレバーのクレームやトラブルはすぐに解消されたエピソードがある。

スカイラインには初代から開発に携わり、2代目(S50系型)から6代目(R30型・ニューマン)まで開発責任者(主管)を務めた。

6代目(R30型・ニューマン)に引続き、7代目(R31型・7th(セブンス))も開発責任者(主管)として指揮を執っていたが、開発終盤段階の1984年に

突然病に倒れてしまい入院。急遽、プリンス自動車時代からの仲間で一番弟子の伊藤修令に後継者としてバトンタッチした。

桜井はスカイライン以外に、C31型ローレルの開発責任者を務めていた事もあった。スカイラインには、桜井自ら広告塔としても関わっていた。

プリンス自動車、スカイラインについては、それぞれの項目を参照されたい。

開発に関わった主な車両
スカイライン(初代より開発に関わっており、2代目〜7代目の発売直前まで開発主管を務めていた)
ローレル(C31型)
R380 1966年 1型から3型まであるが、1型が第3回日本グランプリ優勝車(11号車砂子義一)。

1967年の第4回に2型が、1968年の第5回に3型が参戦しているが、これらは優勝を逃している。

1998年に桜井自らの会社エス・アンド・エス エンジニアリングの手によりレプリカが製作された。

R381 1968年第5回日本グランプリ優勝車(20号車北野元)。左右に分割され、リアサスペンションに連動してそれぞれが独立して角度が

変わるウィングを有し「怪鳥」の異名を持つ。シボレー製のV8エンジンを搭載していた。2005年のニスモフェスティバルにて、レストア車両が

披露された。

R382 1969年第6回日本グランプリ優勝(21号車黒沢元治)及び2位(20号車北野元)。600馬力超のV型12気筒エンジンを搭載。

型式名から「サンパーニ」と呼ばれた。映画「栄光への5000キロ」で、石原裕次郎がドライビングしている。

21号車はこの後渡米(理由ははっきりしないがCAN-AM参戦をもくろんでいたらしい)し、北米日産のレース車両倉庫にあるところを発見された。

1991年に帰国し2004年にレストアされた。

R383 1970年の主力マシンとして製作されたが、世情が排ガス問題や交通戦争など自動車に対し厳しい目を向けるようになったため、

この年の日本グランプリは中止となり、ニッサンも排ガス規制の対応に追われ、テスト走行すら行うことなく役目を終えた。

パワーウェイトレシオが1以下というモンスターマシンである。2006年にレストアを受け、その年のニスモフェスティバルにて走行した。

なんと製作から36年目にして初めて走る姿が披露されたのである。

プロジェクト] 〜挑戦者たち〜 “ラストファイト 名車よ永遠なれ”より

オーテックジャパン時代
1985年に退院した桜井は日産の開発部門に復職せず、スカイラインファン・プリンスファン・日産ファンの多くが当然と思った日産自動車の

取締役に就任することもなく、翌年、オーテックジャパンの設立に携わり、初代社長に就任する。

社長とはいえ子会社に転じた事は、スカイラインファン・プリンスファン・日産ファンからは意外に思われたが、これには桜井がプリンス時代からの

商品企画に継承されている職人気質である事と、大所帯の日産では彼の望み通りの仕事がなかなかしづらい環境であった事が背景にあり、

実際には桜井の良き理解者でもあった当時の日産自動車社長・久米豊の計らいであったようだ。ちなみに同様の例は、ほぼ同時期に

NISMOの初代社長となった難波靖治の処遇においても見られている。

また、当時の日産自動車では東京大学出身者の学閥が非常に強力であり(久米豊は東大第二工学部卒)、桜井は東大卒で無かった事と、

旧・プリンス自動車の出身であった事もあって、たとえ桜井本人が望んだとしても取締役に就任できる可能性は限りなく低かったと指摘する

関係者も少なくない。

桜井が社長を務めるオーテックジャパンには、旧プリンス時代からの後輩の伊藤修令が常務取締役(現在は顧問)に就任し、旧・プリンス時代から

継承されている日産の企画開発部門・関連各社出身者で構成される、通称「桜井学校」「桜井ファミリー」と称される数多くの日産の社員が

オーテックジャパンに出向・移籍しており、意欲的な特装車の開発や、スカイライン、シルビアなどの独自チューン、

オーテック・ザガート・ステルビオの開発などで絶えず注目を浴び、日産ファンをはじめとして、旧・プリンスファン、歴代のスカイラインファン、

自動車ファンなどから信頼の厚い特装車メーカーとして名を馳せる事となる。

現在
1995年にエス・アンド・エス エンジニアリングを設立し、ボディー補強材やディーゼルエンジンの排出ガス浄化装置等を開発して現在に至る。

1997年にはプリンス&スカイラインミュウジアムの館長に就任(現在は名誉館長)。

2005年には、1960年代のホンダF1チーム監督を務めた中村良夫と共に日本自動車殿堂入りを果たした。

設計思想
少年時代に大病を患い、神奈川県海老名で転地療養生活を送った。この時に自然に親しむ生活を送った経験から、自然の摂理に則り、

人間の血の通ったクルマ造りを信条とする。性能向上を優先するあまり実際に運転する人間のことを考えていないとしてロータス嫌いを

公言しているのも、この信条ゆえである。

市販車とレース車の開発を同時進行で進めていたプリンス時代の経験もあり、レース車の技術は市販車のためにあるべきであるとの考えに立つ。

日産時代には「F1は市販車に還元できる技術が何もない」と発言した事もある。

コンクリートミキサー車の発明者である事は彼の自慢であり、オーテックジャパン社長就任の際は、パン焼き窯を装備し車内で焼いたばかりの

パンを販売する自動車を構想して、夢として語っている。

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S&S ENGINEERIG

 櫻井眞一郎は、1952年にプリンス自動車工業(後に日産自動車と合併)に入社以来、「人と車の対話」を基に次々に名車を生み出してきました。 

特に「スカイライン」は初代〜7代目までの開発を担当しました。

この車を題材にして、長年追求し続けている自然の摂理(自然界の動物、特に馬を手本)に基づく走りに徹した思想を具現化してきました。

 「スカイライン」における、世界初、日本初の新機構には次のようなものがあります。

・モノコックボディーの前進である「バックボーントレー式フレーム」
・ばね下重量を軽くし走行安定性を向上させた「ド・デオン・アクスル」
・メンテナンスフリーをテーマとした「無給油シャシー、封印エンジン」
・カーナビゲーターの前進である「ドライブガイド」を1970年に実現
・ドライバーに対する利便性を考慮した「リヤウィンドワイパー」「トランクオープナー」
・本格的な2000cc「ターボチャージャーエンジン」を搭載した車両
・セダンに比べホイールベースを70mm短縮して、運動性を重視したハードトップ

 一方、櫻井眞一郎は極限の走りを求めて、日本初の本格的プロトタイプR380.R381,R382を開発、いずれも日本グランプリで

優勝させてきました。 1986年にオーテックジャパンを設立。 

1995年からはオーダーメイド車の開発・製造を行うエス・アンド・エスエンジニアリングを設立し、代表取締役として車の更に新たな

アイテム開発に挑戦し続けています。

当社は、1994年12月に自動車エンジニアリングの専門会社として設立いたしました。「これまでに得た自動車技術の諸経験を生かし、

国境を意識しないボーダレスの自動車づくりをし、更にその中でお客様に最も寄り添った商品づくりを行う」を趣旨にスタートいたしました。

 お蔭様で個別のお客様から、ご自分のカーライフを満足させるオーダーをいただけるようになり、これにお応えできるような機能を持った

個別商品の開発をおこない、商品化をして参りました。また、東南アジアやその他の地域から自動車の開発依頼も頂き、

その業務も消化して参りました。

 一方、きれいな地球環境を守るためディーゼルの排気対策に力を注ぎ、国土交通省NOx・PM法に適合する排気ガス浄化装置を開発し、

商品化いたしました。 これからも、社会に貢献する技術の開発に邁進する所存です。 

何卒、今後とも変わらぬご支援、ご鞭撻を賜りますようお願い申し上げます。=会社概要より=

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別文献

櫻井 眞一郎(さくらい しんいちろう)

1929年4月神奈川県生まれ。漢学者の父親と教員の母の間に生まれる。幼少期に病弱であったために、海老名で転地療養。

このときに多くの動物を飼っていたことから、「人の真似はしない。教えを請うのは自然の摂理」という櫻井氏の哲学が生まれたのであろうと

思われる。

旧制横浜工業専門学校(現横浜国立大学工学部)を卒業し、清水建設に入社。当時自動車メーカーから求人がなかったためといわれる。

しかし、このとき造機部に配属され、それが縁で日本初のコンクリートミキサー車を開発。これが後のオーテックジャパン設立に少なからず

貢献したのではと思われる。

52年、たま自動車工業(後のプリンス自動車)に転職。車体設計・サスペンションの主担当となる。新型セダンの開発中の55年に、

志賀高原・草津方面にスキー旅行に出かける。そのとき芳ヶ平で見た光景に感動し、この新型セダンの名前の公募用紙に

「スカイライン(=稜線)」と記して応募、これが採用された。

第1回日本GPに惨敗したプリンス自動車は人事刷新を行い、櫻井氏は量販車とレース車両の両方の開発を担当することとなった。

そして、苦闘の末S54B、すなわちスカイライン2000GTが誕生することとなる。この車は急遽参戦を決めたポルシェ904に挑み、

周回遅れを利用した一瞬のときにトップに立つことに成功するが、結局は抜き返された。

その後に、櫻井氏は上司の中川良一氏から日産によるプリンス自動車の吸収合併の決定という事実を知らされるが、

その探究心は萎えることなくレース専用のプロトタイプカー・プリンスR380を誕生させ、次の66年日本GPで雪辱を果たす。

日産に移ってからも、モータースポーツと生産車・スカイラインの開発に並行して当たった。R381、R382でもポルシェやトヨタを撃破したが、

石油ショック・排気ガス規制等のためモータースポーツからは撤退せざるを得ず、櫻井氏の開発したR383はレースに出場することなく、

幻のマシンとなった。

その後、ハコスカ(C10)・ケンメリ(C110)・ジャパン(C210)・ニューマン(R30)と一貫してスカイラインの開発に当たったが、

7th(R31)の開発途中で病に倒れ、ここで櫻井氏の姿は量販車の開発現場の第1線から消えることとなる。

病の癒えた翌年、技術車両設計部長となり、大量生産車両から多品種少量生産のパイクカーの開発部門に移る。

このとき櫻井氏がパイクカーの生産委託先・高田工業で図面を書いたことから生まれたのがMID4であり、

85年の世界スポーツプロトタイプカー耐久選手権(WEC)でペースカーを務めた。

86年には関係会社室に異動となり、その頃から新・少量生産自動車のための開発生産会社の設立に向けて奔走し、

86年10月に潟Iーテックジャパンが設立され、社長に就任した。

オーテック時代はR31、R32、A31セフィーロのオーテックバージョンを開発、好評を博した。また、イタリアザガート社とのプロジェクトで

オーテックザガート・ステルビオという、当時1,760万円する高級スポーツクーペも生み出している。

また、この頃から日産のモータースポーツエンジンの開発の受託も行うようになった。これはJSPC(全日本スポーツプロトタイプカー選手権)から

始まり、ルマン24時間、デイトナ24時間と発展し、現在もスーパーGT選手権のエンジン供給およびスポンサー活動を続けている。

オーテック退任後の94年末にS&Sエンジニアリングを設立。プリンス時代からの高い技術力とオーダーメードのきめ細かい車両カスタマイズが

好評を博していたが、東京都を始めとするディーゼル車の排気ガス規制の施行に伴い、中古トラックでも後付装置で規制をクリアできる

「デュエットバーンシステム」を開発するなど、現在も同社代表取締役社長として、エンジニアとして先頭に立ち続けている。

1980年、毎日デザイン賞受賞。2005年、日本自動車殿堂入り。

なお、2006年の日産モータースポーツフェスティバルでR383がついにその封印を解かれ、長谷見昌弘氏のドライブにより富士スピードウェイを

激走した。さらに2007年3月、有志の支援により芳ヶ平ヒュッテに「スカイライン命名の地」のプレートが埋め込まれた。

櫻井氏直筆のものであり、設置当日は櫻井夫妻も駆けつけている。

------------ Separate case -----------

櫻井真一郎氏がハコスカ開発直後に寄せた寄稿文があった!

櫻井真一郎氏からのメッセージ(引用)

★「自動車に設計者の血と肉と体温をあたえる」ことこそエンジニアの愛情であり、

また、ユーザーにとっても捨てがたい味となるのではないかと思っている。

★設計者として気をつけなければならないことは、技術的満足のために自己陶酔した商品を作ってはならない。

各設計者の意欲を盛り立てながら、この辺のバランスを取っていくことが企画陣の頭脳であり、秘訣でもあると考えている。

★旧プリンス系のスカイラインに対し、日産自動車が会社総がかりで、ニッサンスカイラインとして育て上げようとする

意気込みと、力の入れかたが強烈に感じられた。このことなくしては今日のスカイラインはなかったのではないかと、

しみじみ感じ入っている。

★充実した車を作り上げるためには、リーダーたるものは計画に着手する前に、自己の心の中を分析し、

そのバランスを傾かないものに仕上げることこそ、何よりも重要なことではあるまいか。

ハコスカは、日産によるプリンス合併をまたいで開発されました。合併後は、開発手法や部品共有化、

量産対応等で苦難も多かったことが文中から伺えます。古い言い方ですが、苦難を肥やしにして

更に大きく飛躍しようと努める姿に、スケールの大きい魂と燃え盛る情熱、

そして果てしないクルマ愛を実感した次第です。

桜井氏 軌跡画像

青地 康雄(あおじ やすお)プリンス・モータースポーツの総指揮官 (故人)


当初はダットサンのボディの製作を行なう傍ら、フライングフェザーという軽自動車を販売していた住之江製作所へ勤務していたが、

住之江製作所が経済的に行き詰まったことから、プリンス自動車へ中途入社した。

プリンス自動車ではエンジン実験課に配属され、主にキャブレター等の吸気系のエンジン部品の開発を担当していたが、

63年の日本GPでプリンス自動車が惨敗すると、人事刷新が行われ、レースチームの監督に就任した。

64年の日本GPではS54でポルシェ904に挑むも惜敗、66年の日本GPで櫻井氏らが中心となって製作されたR380によりポルシェ906を

撃破した。

この活躍もあり、日産自動車による吸収合併後も、プリンスのファクトリーチームはそのまま日産ワークスとして活動することとなり、

青地氏は第二特殊車両課長として引き続き監督を務めた。ハコスカGT−Rでのツーリングカーレースでは通算51勝を挙げ、

日本レース界の不滅の金字塔を打ち立てた。

しかし、この通算51勝については多くの苦難が伴い、ベース車両が4ドアセダンから2ドアハードトップに変更になったり、

末期はマツダRX3(サバンナ)の猛追を受けるなどのこともあり、見た目ほど楽な勝利ではなかったようである。特に、RX3の追撃は激しく、

モデル末期には荻窪事業所でS20をベースにした「S22」の開発を行なっており、試作までにこぎつけたものの、排気ガス規制対策に

集中するためレースから日産が撤退するなどの事情もあり、残念ながら日の目を見ることは無かった。

2004年末、逝去。

青地氏の著書より

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榊原 雄二(さかきばら ゆうじ)エンジン設計エンジニア


1924年愛知県生まれ。戦時中の1943年に旧制浜松高等工業高校(現静岡大学工学部)を卒業し、

中島飛行機に入社、2ヶ月の研修期間を経て整備課に配属される。製造工程の立案や製造機械のレイアウト等、生産管理の仕事を務めていた。

その後、中島飛行機が空襲を逃れるため、工場ごと疎開することとなり、榊原氏は浜松製作所の新居工場に異動となる。

そこでは学徒動員で集められた学生の教育係や増産のための生産管理を行っていた。

終戦後には中島飛行機に復職、しばらくは残務処理の仕事に終われていたが、中島飛行機がGHQ(連合国総司令部)により分割され

富士産業としてスタートすると、ミシンの開発に携わることとなった。榊原氏の設計したミシンは「リズム」と名づけられ、資金的にも

富士産業のスタートを支えることとなった。

1950年に旧中島飛行機の東京工場跡に富士精密工業が設立されると、榊原氏はこの荻窪に移った。

この1950年は富士精密工業がたま自動車より自動車用エンジンの開発依頼を受けてガソリンエンジンの開発を始めた年であり、

榊原氏は岡本和理氏の下、自動車のエンジン開発に携わることとなる。

榊原氏の技術が自動車界で日の目を見るのは、直列4気筒OHV方式のFG4Aエンジンであった。

これは、当時たま自動車に出資していた石橋正二郎氏のプジョーのエンジンを参考に設計したものであった。

自動車という多数の部品を必要とするものを製造するためには、多くの協力会社や製造設備が必要となるが、旧中島飛行機時代の

部品メーカーの協力を得て、飛行機用のエンジン生産設備を利用し、予定より5ヶ月遅れながらFG4Aエンジンを完成させることができた。

このエンジンを搭載したのが「たまプリンスセダン」である。

この「たまプリンスセダン」の成功により、富士精密工業は次第に自動車のエンジンメーカーとしての業務に主力を移していくこととなる。

その後、たま自動車との合併を経て、2代目新型グロリアについては、直列6気筒OHCエンジン主力にすえて開発することとなる。

このとき、岡本氏は生産技術部に移動しており、設計課長に昇進した榊原氏が開発の中心を担うこととなる。

エンジンの目標はリッター50psを突破する、高速走行時代に耐えられる高性能エンジンというものであった。

国産初の直列6気筒エンジンということもあり、前回のFG4A同様外国車のエンジンを参考にせざるを得なかった。

また、未経験の分野であるため、パーツの素材選びや信頼性の確保という点においては慎重を期さざるを得なかった。

そのため、榊原氏はメルセデスベンツやBMWのエンジンを参考にしながら、多少の重量増やサイズアップには目を瞑り、

確実に目標を達成する方法を取った。この方法は、後のFJ20型エンジンやRB型エンジンにもその思想が受け継がれているように思われる。

ともあれ、その結果、105psの出力を誇るG7型エンジンが生まれることとなる。世界的に見ても、2リッタークラスのエンジンは4気筒が主力であり、

ましてや当時の技術ではOHCを採用することは稀であった。流麗なスタイルやモノコックフレームの前身であるトレー式フレームなどの採用により、

2代目グロリアは高い評価を得ることとなる。

しかしながら、高級車用として生まれたこの直列6気筒エンジンは思わぬ方向転換を迫られることになる。

第1回日本GPで惨敗したプリンス自動車は、その雪辱のために設計部門や実験部門を巻き込んだ全社体制で翌年のレースに臨むこととなる。

そして、国産車が勝てるチャンスの無いと思われていたGTクラスに参加するため、急遽本来はファミリーカーとして生まれたはずの

2代目のスカイラインにG7型エンジンを搭載することとなり、そのエンジンにもスポーツチューニングを施すこととなる。

榊原氏は中川良一氏のアドバイスを受けながら、ウェーバーの3連キャブレターを搭載し、G7型エンジンのパワーアップに成功することになる。

パワーが165PSまでに高められたエンジンに対し、開発当初はシャシーが付いていけないほどの高性能振りであった。

結果として、第2回日本GPはポルシェ904の出現によってGTクラスには惜敗したものの、それ以外のクラスではぶっちぎりの勝利であった。

榊原氏はGTクラスのエンジンの開発に追われながらも、ツーリングカークラスのスカイラインなどの開発も並行作業しており、

前述のFG4A型エンジンは最高のパフォーマンスを示した。これにより、S50系のスカイラインはファミリーカーを目指したにもかかわらず、

そのイメージは「スポーツセダン」として確立されていくこととなる。

榊原氏は、このあと第3回日本GPでの完全制覇のため、ポルシェに対抗できるプロトタイプカーの製作にかかわることとなる。

また、第2回日本GPでの好成績によりスカイラインGTは正規のカタログモデルに昇格したため、急遽ウェーバーのキャブレターが大量に

必要になった。そのため、上司の田中次郎氏とヨーロッパに渡り、部品メーカーを行脚した。

帰国した榊原氏は、当初グロリアやスカイラインで実績のあるG7エンジンをベースとしたGR7C型エンジンで戦う予定であったが、

ボア×ストローク等高回転化に適さないエンジンと判断され、GR8型エンジンの新開発を行うこととなった。

GR8型エンジンはボア×ストロークから再計算された、全くの新エンジンとして生まれることとなった。

特に、当時としては画期的なDOHC方式で、しかもシリンダーの燃焼室はペントルーフ型の1シリンダー4バルブ方式を採用した。

2リッターのエンジンで、ここまでの技術が投入されているのは当時としては珍しい画期的なエンジンであった。

66年の第3回日本GPではGR8型エンジンを搭載した4台のR380が出場し、ポルシェ906とのデッドヒートの末に、

砂子義一氏駆るプリンスR380が勝利を手にすることとなる。この勝利は日産と合併する直前の、いわばプリンスワークス最後の勝利でもあった。

日産との合併後に登場したC10系のスカイラインは、GT系には日産が独自に開発したL20型エンジンが搭載され、登場した。

C10の開発責任者であった櫻井眞一郎氏は、当初GT系にもプリンスのG7型エンジンを搭載する予定であったが、天の声により

L型エンジンへの換装を余儀なくされたと言われている(その所為か、GT系のデビューはG15エンジンを搭載した4気筒エンジンモデルよりも

デビューが遅れている)。

しかしながら、レースへの参加を求められるスカイラインとしては、開発現場はL型エンジンでの成功は不可能と判断していた。

そこから、少量生産であることを前提にGR8型エンジンをベースにスカイラインのレース用ベース車両の開発を進めることになる。

ここで、再び脚光を浴びたのは設計次長に昇進した榊原氏であった。レース用ベース車両とは言え、スカイラインに搭載することを考慮すると

一般ユーザーにも市販されることとなり、市街地での走行も考慮しなくてはならない。

そこで、レースのレギュレーションで変更可能なところは市販用に扱いやすさを重視した仕様に改められた。

レース参加の車両は、R380のノウハウでエンジンをレース用に戻せば良いという考え方である。その結果、S20型エンジンが誕生し、

ここにスカイラインGT‐Rが登場した。

榊原氏はその後もエンジンの開発を中心に研究を続け、プリンス自工時代に開発に着手し、日産との合併後に納車となった御料車

「ニッサンプリンスロイヤル」のエンジン、W64の開発責任者として腕を振るう。

V型8気筒6.4リッターOHVのこのエンジンは、やはり信頼性の確保を第一とした手堅い設計が光り、時速10キロで2時間走行しても

オーバーヒートしないタフな性能を示した。

晩年は日産グループで主に4気筒エンジンやトランスミッションの開発・生産を担当する愛知機械工業鰍ノ移り、

後進の育成に努め、現在は悠々自適の生活を送られている。


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中川 良一(なかがわ りょういち) 故人


1913年4月東京都生まれ。東京帝国大学卒業後、1936年中島飛行機入社。エンジン開発技師となり、「栄21型」を開発。

このエンジンは39年より終戦の45年まで約3万台が製造される、零戦や隼では定番となった高性能エンジンであった。

また、この「栄」をベースにシリンダー数を増やしてパワーアップしたのが「誉」である。

このとき、彼の後輩であったのが後に本田技研で初代F1監督となり、常務取締役まで昇進した中村良夫氏(2005年自動車殿堂入り)であった。

これらのエンジン、特に「誉」については色々な論評があるが、唯一つ言えることは戦時中の物資不足のために部品の品質管理が一定しておらず、

また生産工員も本来の工員は戦地に兵隊として赴き、学徒動員の学生が生産作業に当たっていたため、生産面においてもかなりの

ハンディキャップがあった。そのため、本来の性能が戦時中に発揮できたかどうかは疑わしいというところである。事実、戦後米軍により

「誉」をテストしたところ、大変な高性能だったということであり、米軍に“Nice Engine Too Late”(遅すぎた=太平洋戦争に間に合わなかった

傑作エンジン)と言わせたほどであった。

45年、終戦となるとGHQ(連合国総司令部)より飛行機の製造禁止命令が発せられた。

中島飛行機は富士産業としてエンジン製造会社に転身するが、50年のGHQによる財閥解体により15社に分割されてしまう。

このうち、太田工場を中心にオーナーの中島家が経営に当たったのが富士重工業(スバル)である。中川氏は開発技師であり、

荻窪を勤務地としていたため、この荻窪を母体に分割独立した富士精密工業に所属することとなる。

この富士精密工業にガソリンエンジンの開発を依頼したのが「たま電気自動車」であった。

旧立川飛行機・陸軍出身で当時たま自動車の外山保氏は、富士精密工業が元々航空機のエンジンの開発・試作を行っていた

中島飛行機荻窪工場がベースとなっていることを知っており、中川氏の上司、新山春雄氏は外山氏と旧知の中であった。

たま電気自動車は経営幹部会の結果、エンジン開発を依頼したのである。

 当時富士精密工業の技術部長であった中川氏は、プジョーのエンジンを参考にして1500ccのガソリンエンジンを開発、

これがたま自動車に供給され、52年に「たまプリンスセダン」がデビューする。また、たま自動車はプリンス自動車に社名変更したが、

プリンスは車体メーカー、富士精密工業はエンジンメーカーであり、お互いを補完する関係にあったことから、54年に両社は合併することとなる。

 合併後の会社では役員を務めた。63年の日本GPでは、自動車工業会の「改造はしない」の申し合わせを守ったために、プリンス勢は惨敗する。

当時常務となっていた中川氏は減給処分となる。そこで中川氏は雪辱を期し、設計部門等を含めた人事刷新を行い、

モータースポーツに本格的に参戦することとなる。

 中川氏は、その中でモータースポーツ・技術陣の取りまとめ責任者であったが、餅は餅屋でシャシー関係の開発については、

基本的に田中次郎・櫻井眞一郎氏の両名に任せていた。逆に、専門であるエンジンに関しては自身も資料を取り寄せ研究するほどで、

3連ウェーバーキャブの採用など、榊原雄二氏らの開発陣に積極的にアドバイスを行っていた。

しかしながら、64年日本GPはポルシェ904の出現により、好レースを展開するも惜敗する。

そして、プリンス自動車は66年8月に日産自動車に吸収されることが決定する。

これは、当時プリンス自動車の大株主であったブリヂストン、メインバンクの住友銀行(現三井住友銀行)、通産省(現経済産業省)の

肝いりで決まった合併であり、中川氏は役員であるにもかかわらず直前まで知らされていなかった。

中川氏は、日頃櫻井氏に「オレが会社を大きくしてやるから、そうしたらお前はやりたいことを思いっきりやれ」と話していたそうであるが、

合併決定の事実を櫻井氏に伝えるときは「お前との約束が果たせなくなった」と謝罪したという。

その後、合併直前の66年日本GPで、プリンスR380はレース監督の青地氏のピット戦略等もあり、見事に優勝する。

当時の日産の社長は日本興業銀行出身の川又克二氏であり、川又氏と中川氏の話し合いの結果、「帳面は同じにするが、

開発体制はこれまでどおり」という約束が交わされた。そのため、合併後も荻窪の開発部門はそのまま残ることとなり、

モータースポーツやスカイラインの開発は荻窪のメンバーを中心に行われることとなった。

中川氏は、日産に転じてからも役員(常務取締役)を務め、技術陣のまとめ役となった。R382のGRX12・V型12気筒6リッターの

エンジン開発の最終決定を下したのは中川氏といわれ、これについては後に「(プリンスを残してやれなかった)オレの櫻井に対する

罪滅ぼしだ」と語っていた。

 専務取締役になってからは、排気ガス規制対策に奔走することとなった。

また、自動車工業界の発展のために尽くし、72年から75年まで社団法人自動車技術会の会長を務め、

自ら基金を提供して学術貢献賞・技術貢献賞を創設した。また、社団法人日本工学アカデミーの副会長も務め、

副会長退任後も顧問として終身務めた。

また、日産社内では宇宙航空事業によるロケットの開発なども荻窪で行われていた。

これは、富士精密工業が自動車産業が主力になってからも荻窪で続けられた事業であり、プリンス自工を経て日産でもその開発が続けられた。

自動車屋として大成した中川氏であるが、空へのロマンは絶ちがたかったようであり、荻窪事業所跡地には「国産ロケット発祥の地」の碑が

残っている(残念ながらロケット事業は日産リバイバルプランの実行により、石川島播磨重工業<IHIエアロスペース>に事業売却されてしまった)。

1998年7月逝去。

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田中 次郎(たなか じろう)

航空機技術者から自動車技術者に

 田中次郎氏は1939年東京工業大学機械工学科を卒業し、念願の立川飛行機株式会社に入社。同年陸軍第一期技術候補生に入隊、

陸軍航空技術研究所・航空審査部等航空関係を歴任した。

 終戦後、立川飛行機に残留し、同社の製作した長距離連絡機、高高度長距離爆撃機等の米軍への引き渡し業務と残務整理に当たった。 

 残留従業員は、飛行機機体製造技術で培った技術を生かして、新たな業務を展開する必要があった。

調査検討の結果、将来性の大いにある自動車産業に進出する事を決定した。当時ガソリンは統制品で入手が困難な状態であったが電力は

供給量に余裕があった為、電気自動車で自動車業界に参入する事となった。

電気自動車の開発

 航空機産業からの転換事業としての電気自動車開発は、田中氏をリーダーとして、自動車技術ゼロの状態から行なわれた。バッテリー交換方式、

自動電磁界切替電動機等の新技術を採用した小型電気自動車、及び中型乗用電気自動車の開発を行なった。

当電気自動車は、通産省(現・経済産業省)主催の第2回性能試験の1充電走行距離試験では平均速度22.8km/hで231kmの好成績を挙げる等、

いずれの試験項目も1位の成績を得た。

 この車両は東京、大阪、名古屋等でタクシーとして多用された。しかし朝鮮動乱によるガソリンの統制解除、鉛価格の暴騰により電気自動車は

終焉を迎えた。

ガソリン自動車への転換と技術開発

 電気自動車の生産中止に伴いガソリン車の研究開発が開始された。後発メーカーとしてガソリン車の業界に参入するに際し、他社に優る独自の

技術による「高級・高性能車」を開発の目標とした。ガソリンエンジンの要求性能仕様を研究企画すると共に、車両計画では、乗用車は乗用車

専用キックアップ付X型フレーム、リモートコントロールトランスミッション等を採用し、フラッシャ式方向指示器、油圧・充電関係の警告灯方式等

新機構を採用した我が国初の1.5リットルエンジン搭載の6人乗高級乗用車プリンスセダン「AISH」を開発した。

 同時に開発したトラック「AFTF」は1.2トン積みで、当時の小型トラックの中で最大の積載量と馬力を有し、市場の好評を博した。

 さらにその後、市場調査の結果を踏まえ、本邦初の完全フルキャブオーバー型トラックを企画開発した。

 当トラックは、全長規制の範囲で荷台長の増加、回転範囲の縮小、タイヤ荷重のバランス適正化に成功し、以降我が国トラックの標準タイプと

なっている。

スカイラインシリーズの開発、初代スカイライン

 スカイラインの開発は「国際的に通用する乗用車」を目標として企画立案された。当車は、新技術としてバックボーンフレームを採用して

重心位置を下げ、乗り心地、操縦安定性向上のためバネ下重量を軽減したド・ディオンアクスル等先進的な機構を採用し、また艤装装備品も

充実した独創的な高級車を開発した。尚この研究開発に対して、自動車技術会より「自動車技術賞」を授与された。

また英国のMIRA(マイラ研究所)が日本の代表車種として調査するなど、国内外で高く評価された。

2代目スカイライン

 自動車大衆化時代を迎えスカイラインを小型乗用車として開発企画を行なった。初めて自動車オーナーとなるユーザーを目標することから、

保守の容易化を図り、シャシー部は3万km無給油、エンジンの保証期間を4万kmとした「封印エンジン」とし、メンテナンスフリーを実現した。

また無反射メーター等、世界初の新製品を装備した先進的小型ファミリーカーとなった。

大型乗用車の開発

 経済状態の向上に鑑み、将来の車両大型化に備え普通乗用車の研究に着手し、我が国戦後初の大型乗用車「BNSJ」を開発した。

その研究成果は、次の高級車グロリア「S40」の開発に活用された。

レース車の開発

 1964年の第2回自動車レースには、田中氏をリーダーとして開発部門が開発に参画し、必勝を期する事になった。

技術検討の結果、GT部門での対抗車種としては、世界的に見て有力なコルチナロータス車があり、これに対抗するために2代目スカイラインの

車体を延長し、6気筒200馬力エンジンを搭載するスカイラインGTを計画開発した。レースの結果は、ツーリング部門に全て圧勝した。

しかしGT部門は急遽参加したポルシェに1位を奪われたが、2位以下を全て占め大勝した。この結果は、リーダーの適切な技術開発の指揮と

全員の協力を得た運営によるものである。 グランプリレース後ポルシェに対抗する為に、プロトタイプ「R380」を企画開発した。

 しかし、1965年のグランプリレースが中止となった為、「R380」で矢田部の国際コースで速度の国際記録に挑戦を行なった。

そして、2年後の1967年には、「R380−U」によって250km/hの壁を破り、当時の国際記録を大幅に更新し、7種目の国際新記録を樹立している。

 これらの活動により、レースにおけるプリンスの名声と、発展の基礎を確立したと言える。そしてPGC10の製作企画想立。

御料車の開発

 天皇御料車の国産化開発要請を受けたが、大型リムジンに関するノウハウは皆無で、宮内庁車馬課との意見交換を通じて各種の技術課題の

解決に当たると共に、信頼性の高い製品の開発を指示した。日本自動車技術の粋とも言うべき、我が国初の全長6.3m、全幅2.1mの大型リムジン車

ニツサンプリンスロイヤルを完成納入した。

新大衆車「チェリー」の開発

 大衆車需要層に対応して、横置きエンジンのFF車を企画開発した。この車は独創的なスタイルのFF車で、欧州では高速安定性を買われて

大量に輸出され、欧州進出の中心となった。さらにこのFF技術は、日産自動車の各車種FF化の基礎を作った。

多目的乗用車「プレーリー」の技術開発

 従来の乗用車と全く異なった観点から構想し、ユーティリティーに重点を搾った開発であり、ドライバー席から最後席までをフラットなフロアーとして、

センターピラーを除去し、後方ドアをスライドドア化し、キャビンの全開放化に成功した。 その結果、キャンピング時の住居用、移動販売の店舗

用車両として、自動車用途の新分野を開拓したもので、車全体が、創意工夫に富んだものである。

 パリ・ショーに出品し賞賛を得たこの形式の車は、その後諸外国でも開発され、日本でもさまざまなメーカーから後発車が登場し、現在のミニ

バンブームの先駆となった。

自動車技術開発に関する理念

 田中氏は、自動車の技術開発に当たって新技術への挑戦、高性能車両の開発はもちろんであるが、次の様な考えをもって開発に望み部下の

指導育成を行なった。

1. 車は人にやさしく便利に

 一般自動車のドライバーは、素人だから出来るだけ運転を楽にすることが必要との考えから、油圧・発電等の警報灯システム化、運転席から

開閉出来るトランク・オプナー、コンビネーションライティングスイッチ、4万km保証封印エンジン、3万km無給油シャシー等各種の新機軸製品を

他社に先駆けて企画指示して開発を行なった。これらは高い便利性を評価され、他社の車にも採用されているものもある。

2. 皆で作ろう良い車 

 設計、実験、試作間のチームワークを重視し、この考えで部下を指導教育し、場合によっては実験担当者に改良設計を担当させる等、開発

部門が一体となっての技術開発を推進する体制とした。

3. 物から学べ

 後発メーカーとして挑戦的な新製品を開発し、製品の優位を勝ち取るため、独創的な新製品新技術の採用は、当初は技術的蓄積も浅く、

実験手法、実験設備も不十分な状態にあって、市場から苦情の洗礼を受け苦戦することもしばしばであった。これらの問題を解決する過程で物

(不具合現品の観察研究、顧客情報等)から学べと強調された。これによる課題の発見研究を通じて、基盤技術の蓄積と技術者の育成進歩が

図られた。 田中氏の自動車技術開発への情熱は社内における部下・後輩への指導・教育に止まらず、自動車技術会活動への積極的な貢献と

なって現れ、この功績が認められ、自動車技術会より技術貢献賞を受賞された。

自動車技術会活動

 田中氏は、1972年に会計担当理事に選任された。当時の自動車技術会の財政状態は危機的状態にあり、諸運営規程等も不備の状態で、

会員数も1万人に達していなかった。 そこで諸規程の整備を行ない業務執行の円滑化を実現した。また会員増加活動を展開すると共に、

会員サービスの充実をはかり、今日の個人会員4万人、賛助会員500社余の技術会となる発展の基礎を築いた。この功労が高く評価され、

1986年に自動車技術会名誉会員となられたのである。(元日本電子機器株式会社常務取締役 渡邉顕一)

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渡邉 衡三(わたなべ こうぞう)サスペンション設計担当


1942年大阪府生まれ。若い頃からモータースポーツに興味を示し、東京大学時代は趣味でラリーをやっていたこともある。

そのため、レーシングカーの設計の仕事を探し、当時ホンダF1の監督であった中村良夫氏

(後に本田技研工業・常務取締役・2005年日本自動車殿堂入り)の紹介で、ブラバムチームに加入の話を持ちかけてもらったこともあるとか。

ホンダへの就職の道も考えられたが、2輪部門に配属されるのは好まないとの理由から、中村氏の中島飛行機時代の上司・中川良一氏が

役員に当たるプリンス自動車に入社することとなった。その直後の日産とプリンスの合併により、プリンス自動車吸収後の日産自動車に

67年入社した。

 入社後は荻窪の開発に配属となり、櫻井眞一郎氏や伊藤修令氏の下で、ハコスカ(C10)GT−Rのレース用リアサスペンションの設計を

皮切りに、プロトタイプカーであるR381・R382のサスペンションの設計、安全実験対策のプロジェクトに加わる。

その傍ら、ケンメリ(C110)のサスペンション、ジャパン(C210)の基本設計、R30・R31の基本コンセプト作成、R32の実験主担と常に

何らかの形でスカイラインにかかわり、R33開発途中の92年から田口浩氏よりバトンを受けR33の商品開発主管となった。

 R33は安全対策の関係上、サイズこそR32より肥大化したものの、新設計のフロントサスペンションや剛性の向上したボディにより、

R32の欠点であったアンダーステアが解消されるなど、進化した部分も多かった。

しかし、バブル経済の崩壊によるローレルとのシャシー共用化などコストダウンの跡も見受けられ、これがスカイラインファンより敬遠される

理由となった。また、R32で逆転したセダンとクーペの販売状況をセダン中心に戻そうとしたため、デザインも優しいものとしたが、

その頃セダンの客層は既にステーションワゴンに移っており、結果として販売上苦戦した。

そこで、渡邉氏はR30よりスカイラインのエクステリアに携わってきた西泉秀俊氏を招聘、R33GT−R、R33マイナーチェンジでは

再びスポーツ路線を強調した。また、徹底的な開発テストを重ね、スカイラインのモデルチェンジとしては異例の5年をかけて、

R34をデビューさせた。

このR34、評価を真っ二つに分けてしまった。走りやスタイルなど、すべての面で「スカイラインらしさ」を前面に押し出して開発されたため、

歴代スカイラインを愛してきた人にはおおむね好評であったが、新しいファンを作り出すどころか、一般の消費者にはかなり古典的な車に映った。

おまけに、日産リバイバルプランや排気ガス規制等により、スカイライン史上最も短命のモデルとなってしまった。

しかし、飛躍的に向上したボディ剛性など、性能的にはもはやヨーロッパのスポーツセダン&クーペに並ぶところまでになっていた。

 渡邉氏はR34GT−R発表直後の99年に、ニッサンモータースポーツインターナショナル(ニスモ)に移籍し、役員に就任する。

ニスモの役員となってからも、ダカールラリーのチーム運営の傍ら、ZtuneやF−Sport GT Packageなど、R34GT−Rのコンプリートカーを

リリースした。「富貴三代・方知飲食」という言葉を引き合いに出し、開発者たちの長期に渡る継続的なアップデートがスカイラインを育てたことを

ファンに伝えていたが、ニスモでのR34GT−Rのコンプリートカー開発は、このことを自ら実践していたように思われる。

この頃には、新車でわずか11,000台強しか売れなかったR34GT−Rは皮肉にも中古車市場で再評価され、高値での取引は日常化し、

盗難被害が続発する人気車種となってしまっていた。

 現在はニスモの役員を退き、自動車技術会における後進の育成や、イベントやトークショウでの講演を中心に活動している。

2008年、自動車技術会フェロー認定。


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島田 勝利(しまだ かつとし)設計技師


1937年東京都生まれ。1956年に富士精密工業(後のプリンス自動車)に入社。

設計の仕事を希望し、櫻井氏の下に配属される。以後、櫻井眞一郎氏の貴重な右腕として活躍する。64年の日本GPの時には、

櫻井氏の命を受けて隠密行動で英国に向い、英国ダンロップよりスカイラインGT用のタイヤを輸入し、同GPでのスカイラインの活躍を支えた。

続くR380ではサスペンションの設計を担当し、日本GP制覇に貢献した。

その後もシャシー設計に従事し、プリンス自動車が日産自動車に吸収された後も櫻井氏と共に開発の現場に身を置き続けた。

日産テクニカルセンター勤務を経て、88年に櫻井氏と共にオーテックジャパンに移籍、品質本部長に就任する。

R31のオーテックバージョンも開発全般にかかわり、自身もこの車を所有するほど気に入っている。

「日産との関係上、ニスモのGTS‐Rと同じ210psの最高出力表示にしていますが、(R31オーテックバージョンは)220psはでていると思います。

新規にエンジンを作るつもりで、ベンチテストで何台もエンジンを壊しましたから」とは、島田氏の武勇伝である。

94年にS&Sエンジニアリングに移籍し、取締役に就任。名実共に櫻井氏を支え続けた。

97年のプリンスR380復刻版製作のプロジェクトでは再び設計の現場に立ち、サスペンションの設計を変更して改良に当たると共に、

カーボンファイバー等最新の技術・素材を利用し、より完成度の高いR380を世に送り出した。

その間、同業他社から多くのヘッドハントの声があったがそれをすべて断り、取締役を退任した今もS&Sで櫻井氏の下、

排気ガス浄化装置・デュエットバーンシステムの開発・製造を続けている。



松宮 修一 (歴代スカイラインのデザインプロデューサー)

3代目のC10は森典彦氏のデザインである。この当時は、スカイラインは基本形として4気筒エンジンの4ドアモデルを基本形としてデザインし、

これをロングノーズにしてGTにし、天井を下げてリアキャビンをすぼめて2ドアを作るというのが常套手段であった。

基本形となる4気筒の4ドアセダンは森典彦氏がデザインし、松宮氏はそれをベースとした2ドアHTを担当することとなった。

このC10の2ドアは、レースのためにホイールベースを短縮したことなど、どうしてもメカニカルな部分に脚光が当たりがちな車であるが、

三角窓を残しつつもうまくセンターピラーを取り除いた一体感ある小気味の良いデザインは今でもファンが多い。

GT−Rはオーバーフェンダーのためにサーフィンラインをカットしているが、旧車ファンの中には「サーフィンラインをカットしていない

オリジナルのGTのHTが最も凛として格好いい」という声は多い。当初、2ドアはデビュー時にフロントマスクを4ドアと変えていたのだが、

2ドアのデザインが好評なために、4ドアの最終型も結局は2ドアと同型のものに改められた。

自動車の開発は現行モデルの改良(マイナーチェンジ)と新型車両の開発(フルモデルチェンジ)を同時進行しなくてはならないときがある。

所帯の小さな旧プリンスの日産荻窪では、ハコスカの改良を担当しつつ、同時進行でローレルとC110ケンメリスカイラインの開発を行なうという

ハードワーク状態であった。



  榊原雄二      増田哲三     中川良一     田中次郎      青地康雄     桜井真一郎




9人の侍

GT‐R 57勝 中

久保田洋史 13勝 (プライベーター セミワークス)

GT‐Rの連勝記録樹立 最大の立役者はワークスドライバーではなくプライベーターである久保田洋史選手であることは一般的

には広く知られていない。賞賛すべきは久保田選手であり、‘71 12月12日富士ツーリストトロフィレースでもしラストのトラブルが

なければ区切りの50勝目は久保田/杉崎組が飾っていた。レースの世界に”たら れば”は言え無いが もっと久保田選手に

スポットライトが当たっていた事だろう。その当時の話を伺ってみたい。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

久保田 洋史(くぼた ひろし、1949年 - )は、元日産自動車の自動車クラブのひとつPMC・Sに所属していたアマチュアドライバーで、スカイライン2000GT-R57勝のうちワークスドライバーをも凌ぐ最多の13勝を挙げた人物である。

経歴
1969年にスカイライン2000GT-Rでデビュー。すぐに頭角を現し、プライベートGT-Rの中では常に1位、2位を争うようになる。

1970年5月の「全日本鈴鹿1000キロレース」では、70年当時のGT-Rプライベーターの雄、箕輪眞治と組み、レース終盤までトヨタワークス高橋晴邦/高橋利昭組のマークIIGSSとつばぜり合い、見事下して総合2位、クラス優勝を果たしている。

1971年からはマツダのロータリー軍団との争いが激化したことに伴って大きなレースにも出る機会が増え、同年9月4日の「富士GCシリーズ富士インター200マイルレース」においてワークスGT-R2台(このときのドライバーは北野元と長谷見昌弘という腕利きのドライバーであったが、プライベートユーザーに花を持たせようというワークス側の配慮によって、あえてペースを落としたものと見られる)を従えての優勝を飾っている。又この年には、「レース・ド・ニッポン6時間」や「全日本鈴鹿1000キロレース」、「富士1000キロレース」といった耐久レースに、ニッサン大森ワークスドライバー田村三夫や鈴木誠一をコ・ドライバーとして組み自車で戦っている。

1972年10月のレースを最後にワークスGT-Rが撤退した後もGT-Rでレースに出場し続け、1973年7月の「全日本富士1000Kmレース」では正谷栄邦と組んで5位入賞を獲得している(クラス優勝)。当時の当レースを紹介した雑誌記事には、「レース中盤雨脚が強くなり、二台の日産車が躍進した。一台はワークスで唯一生き残っている歳森康師の240Z、そしてもう一台は久保田洋史が駆るオールド・スカイラインGT-Rだ。二台はトップを大幅に上回るペースで狂ったように走り回った。特に久保田のGT-Rはストレートで左右に振られながらも独特の甲高いエグゾーストノートを撒き散らしながら他車をごぼう抜きして行く様は印象的であった。久保田は歳森の240Zをも抜き去り、全盛を過ぎたGT-Rを猛雨の中に復活させた。」と記されている(久保田自身も、当レースは思い出深い一戦であったと後に語っている)。この時の車両が現存しており、あるスカイライン愛好家がレストアして実走行可能な状態で保存している。

又、同年10月10日開催の「富士GCシリーズ富士マスターズ250`レース」では、サニーエクセレントを駆り、トヨタワークスが誇るテクニシャン蟹江光正及び久木留博之のセリカ1600GTを撃破しクラス優勝を果たした。久保田最後のGT-R出場レースは窪寺泰昌と組みクラス優勝(総合6位)した、同年11月に行われた「富士ツーリストトロフィーパンナム500マイルレース」。引退レースの「'74富士ツーリング・チャンピオン・レース」(1974年3月)では、サニーエクセレントにて優勝を飾った。

エピソード
一貫してといっても過言で無いほど、GT-Rでレースに出場している(但し1973年からは自分のGT-Rを手放したのか、他のGT-Rオーナーのコ・ドライバーとして耐久レースに出場することが多かった。また、数戦ほどであるが、ニッサンサニー1200GXやサニーエクセレント、FL500などでもレースに出場しており、結果を残している)。
1971年頃から、同じプライベートGT-Rの杉崎直司と共にブリヂストンのレーシングタイヤの開発を行っていた。又、当時ニッサンワークスの一員だった黒沢元治もBSタイヤ開発の一員に加わっており、久保田のGT-Rでタイヤテストを行った。その時に黒沢よりレーシングテクニックやメカニズム、マシンセッティング方法等を教わり、めきめきと実力を上げた。
GT-Rの50連勝をかけた1971年12月の「第6回富士ツーリスト・トロフィーレース」で日産、マツダともに次々とワークスマシンがリタイヤしていく中、プライベートGT-R対プライベートサバンナとの一騎打ちになったが、最後の最後でGT-Rがトラブルに見舞われ、惜しくも50連勝の記録を逃した。このときのプライベートGT-Rが彼と杉崎のコンビだった。
1972年11月3日に行われた「第7回富士ツーリスト・トロフィーレース」では、コ・ドライバーとして「Z使い」で有名なSCCNの柳田春人を招きGT-Rで出場しているのは大変珍しく、面白い。 
GT-Rプライベーターの中でも頭角を現した久保田は、ワークスからも認められるようになる。実際日本グランプリ等ではワークスよりエンジンやマシンを提供されることもあった。ニッサンワークス入りの噂もあったが、家業の都合により惜しまれつつもレース界から引退した。

71年12月12日 富士ツーリストトロフィ‐レースの頃の久保田洋史談
「この頃ワークスGT‐Rが1万rpm回っていました。プライベートでも9.200rpm。でも1レースしか耐たないガラスみたいなエンジンでした。」
72年GT‐Rのレース活動が終焉を迎える頃の久保田洋史談
「内緒でサバンナRX3に乗せてもらった事があるんです、S字が素晴らしく速い。アクセルをめいっぱい踏んでも滑らないし、足回りが進歩してきた。重量が軽い。トルクは無いがパワーがある。もう前と見違えるようになっていました。もうGT‐Rは勝てないと思いましたね。どんな手を使ってもダメでした。GT‐Rという車はレーシングカーとしては乗り辛い。タイムはなかなか出せないし、車両重量は重い。尻は滑るし コーナーに鋭く突っ込まなければ向きが変わりません。正谷さんを何回も僕の車に乗せたんですが『アンダーステアが強くて乗れない。ステアリングを切ってもそのまま行ってしまう』と言っていました。飛び込むスピードが僕よりやや遅いですからね。僕が乗ればオーバーステアになります。それくらいコーナーに突っ込まなければタイムは出ませんでした。それを知らなければGT‐Rは乗れません。アクセルのオフのタイミングでコーナーを曲がります。キズだらけで完全な優勝は無かったですね。」

PS.久保田氏によるコメントは↑上記のような印象であったようだが 実質レース結果や内容を見てみると純日産ワークス勢とセミワークス勢の技量の差は明らかで乗るマシンの差も有ったとは思うがスカイラインGT-Rをドライブする印象は随分異なる、と言っても最後までGT-Rでレース活動をやっていたところを見ると本当にスカイラインが好きだったに違いない。

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正谷 栄邦(プライベーター セミワークス)

正谷 栄邦 (まさたに よしくに、1944年 - )は、元日産の自動車クラブのひとつPMC・Sに所属していたアマチュアドライバーで、スカイライン2000GT-R57勝(諸説あり)のうち2勝(42、56勝目)を挙げた。

経歴
1969年、スカイライン2000GT-Bでデビュー。しかし競争力に欠け、翌70年シーズンからは一時レース活動を止めることになった千代間由親(67年〜69年、71年〜73年までレース活動を行っていたPMC・S所属のアマチュアドライバーで、GT-Rでは2勝を挙げた)からGT-Rを譲り受け、レースに出場するようになる。同年5月の「70JAFグランプリ」では大クラッシュ(マシンの後半部分が完全に大破するほどのひどいクラッシュだった)を演じ、その後ワークスがセダンから2ドアのハードトップに替えたのを期に、セダンをハードトップに作り変えて参戦を続け、71年の富士フレッシュマンレースで優勝、73年の全日本富士1000kmレースで5位入賞の成績を残した。

エピソード
彼が所有していたGT-Rは、その後数人のオーナーを経て現在も大切に保存されている。(カラーリングは73年全日本富士1000kmレース当時のまま)


正谷氏はもう1台GT‐Rを所有して足に使っていた。

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窪寺 泰昌(プライベーター セミワークス)

昭和22年5月25日生 東京出身 身長174cm。当時日産チェリー池上販売に勤務する普通のサラリーマン、レースは仕事の傍ら もっぱら趣味として楽しんでいる。レースの他にはコレといった趣味を持たないというが社会人として働く彼には時間的な制約もあり思うように練習に行けないのが目下の悩み。

=レース歴=
44年 9月 富士フレッシュマン ベレG クラス8位
↑〃10月 富士TTレース ベレG 総合31位
46年 1月 富士フレッシュマン フェアレディ2000 リタイア
47年 1月 富士フレッシュマン スカイラインHT GT‐R 総合16位
↑〃 3月 富士フレッシュマン スカイラインHT GT‐R リタイア
↑〃 4月 レース・ド・ニッポン フェアレディ240Z リタイア
↑〃 5月 日本グランプリ スカイラインHT GT‐R クラス9位


高橋国光 9勝 (ワークス)故人

高橋 国光(たかはし くにみつ、1940年1月29日 - 2022年3月16日)は、日本の元レーシングライダー、元レーシングドライバー。東京都北多摩郡小金井町(現:小金井市)出身。血液型:B型。愛称は国さん。

二輪・四輪合わせて489レースに出場、通算71勝を挙げており、日本のモータースポーツの世界では生きる伝説といっていい存在。

華麗なドリフト走法で知られ、黒沢元治に代表されるグリップ走法派のドライバーが台頭した後も、レースでドリフトを多用したことで知られる。そのためドリキン(ドリフト・キング)こと土屋圭市達から、師匠的な扱いを受けている。とはいえマシンやタイヤの進化に合わせ、高橋も以前ほど派手なドリフトは見せなくなった。なお一部で「日本におけるドリフトは高橋国光が元祖」などという説が流布されているようだが、高橋が四輪レースに転向する以前から、日本のトップドライバー達はドリフト走行を行っていたことに注意。

1999年に59歳で現役を引退。2000年以降は、自らのレーシングチームであるチーム国光の監督を務める。以前はSUPER GTを運営するGTアソシエイションの会長も務めていた。

経歴
1958年、2輪の第1回全日本クラブマンレース・ジュニア(350cc)クラスにBSAで出場し、セニア(350cc超)クラスを上回る平均速度で優勝。1959年の第2回全日本クラブマンレースのセニアクラスにBSAで出場し、BMWに乗る伊藤史朗に続いて2位を獲得。10代の若さで日本を代表するライダーの一人になる。

これをきっかけにホンダのワークスライダーとなり、1960年からロードレース世界選手権(世界GP)に出場。

1961年には西ドイツGP(当時)の250ccクラスで、日本人として初めての世界GPレース優勝を遂げる。当時開園したばかりの多摩テックの初代所長も拝命する(ただし実務は行わない名誉職)。

1962年は世界GPの125ccクラスで初戦と2戦で連勝と波に乗る。第3戦であるマン島TTレースでも好調を持続していたが、決勝をスタートして間もなく激しく転倒。意識不明の重体に陥り、一時は生命も危ぶまれるほどの状態だった。高橋は事故前後の記憶がないほどだというが、「誰も全開にできないようなコーナーを予選で全開で走れた。世界チャンピオンクラスのライバルから危ないと心配されたのが逆に嬉しくて、マシンも身体も暖まっていない1周目から全開にしたのがいけなかった」と反省している。マン島での事故の後、2輪ライダーとしては以前ほどの速さを取り戻すことはできなかった。

1964年、ホンダワークスの先輩格である田中健二郎に導かれる形で、同僚の北野元と共に四輪に転向。日産のワークスチームである追浜ワークスに加入する。R380などのプロトタイプマシンから、市販車改造マシンまで幅広く乗りこなした。C10型・愛称「箱スカ」スカイラインGT-Rが50勝の記録を達成した時のドライバーでもある。北野元、黒沢元治と並び「追浜ワークス三羽ガラス」と呼ばれ、名実共に日本のトップドライバーと目されていた。

1973年の第1次オイルショックでワークスチームの活動が縮小された後は、富士グランドチャンピオンレース(富士GC)、全日本F2選手権・全日本F3000選手権などで活躍。1977年には、F1日本GPにスポット参戦したこともある。

'70年代後半までは長らく「無冠の帝王」と呼ばれていた。日本グランプリなどのビッグレースでたびたびポールポジションを獲得し、実力ナンバーワンと目されながら、決勝ではマシントラブルなどでなかなか優勝できなかったためである。特に1967年の第4回日本グランプリで日産R380に乗り、生沢徹のポルシェ・カレラ6を徹底的に追い詰めながら、生沢のスピンに巻き込まれて優勝を逃したことは有名(優勝した生沢より追い上げる高橋の方が明らかに速かった)。しかし1978年に鈴鹿で開催されたJAFグランプリ(カテゴリーはF2)で、F1ドライバーのリカルド・パトレーゼらと競り合った末に優勝。実に38歳にしてビッグタイトルを獲得する。

1983年以降は全日本耐久選手権に活躍の場を移し、ポルシェ956・962Cなどで活躍。ル・マン24時間レースにも参戦したが、結果は良くなかった。

後年はチーム国光を立ち上げ、全日本ツーリングカー選手権(グループA)では土屋圭市と組みR32スカイラインGT-Rで活躍した。また全日本GT選手権では飯田章と組んでRAYBRIG NSXを駆り、通算2勝を挙げた。

1995年にはル・マン24時間レースで土屋圭市、飯田章と組みホンダ・NSXで参戦、GT2クラス優勝を果たす。

1999年にレーシングドライバーとしての引退を表明し一線を退いたが、その後もセパンサーキットで行われる12時間耐久レースに参戦するなど、ドライバーとしての活動は継続している。

近況
レーシングドライバー引退後もチーム国光の監督としてRAYBRIG NSXで全日本GT選手権、SUPER GTに参戦。2005年ツインリンクもてぎで現役引退以来6年ぶりの優勝を監督として果たした。

1998年にはツインリンクもてぎで開催された第1回もて耐(2輪のアマチュアレース)に長谷見昌弘、飯田章と組んで出場し、往年の世界GPライダーの腕を披露。各種イベントで2輪と4輪のヒストリックマシンを走らせている。


世界のトップレーサーを尻込みさせた富士スピードウェイの “須走り落とし”で性能の限界を引き出した高橋選手のスカイラインGT‐Rは
5‐4‐3速と立て続けにシフトダウン、第2の難関、高速右カーブへと突入。マシンの信頼が彼の神技を可能にする。


黒沢元治 7勝 (ワークス)

黒澤 元治(くろさわ もとはる、1940年8月6日 - )は、茨城県日立市出身の自動車評論家である。1960年代から1970年代に掛けて活躍したレーシングドライバーでもある。ニックネームは、ガンさん。

来歴
ホンダ系チームで2輪ライダーとして活動。1962年に開催された鈴鹿サーキットのオープニングレース(第1回全日本選手権ロードレース)の50ccクラスで優勝するなど(つまり鈴鹿サーキットで最初の優勝者)、国内2輪レースで数多くの好成績を収める。

1965年に日産自動車と契約し、4輪に転向。日産内の二軍的存在である大森ワークスに所属。ただし2年間ほどは、大森ワークスのリーダーだった鈴木誠一のチーム城北ライダースに所属する形で、2輪モトクロスなどに並行して出場する。

速さとマシンのセッティング能力が評価され、1968年に日産の一軍である追浜ワークスに昇格。1969年の日本グランプリに日産R382で出場し優勝。高橋国光、北野元と並び「追浜ワークス三羽ガラス」などと称され、日本を代表するレーシングドライバーになる。

日産ワークスドライバーとしてスカイラインGT-Rなどで活躍するが、1973年に日産ワークスを離脱し、プライベートチームであるヒーローズレーシングに所属。富士グランドチャンピオンレースで連続してポールポジションを獲得し、日本グランプリで優勝するなど、圧倒的な速さと強さを見せる。

1974年には自らのチームとしてクロサワ・エンタープライズを設立し、チームオーナー兼ドライバーとしてレースに出場する。

しかし1974年6月2日に富士スピードウェイで起きた大事故(多重クラッシュでドライバーが2人死亡した)の原因を作ったとして、レース関係者から糾弾されることになる。黒澤はJAFに競技ライセンスを返上し、一時現役を去った。1975年にレースに復帰するものの、かつてほどの速さや強さを示すことはできず、レースの第一線からは退いた。

以後はレース活動と平行して従事したブリヂストンの市販スポーツタイヤの開発テスターのほうに情熱を傾けた。同社のタイヤが1980年代にポルシェに正式採用されるなど世界ブランドとして認知されたのは、黒澤の開発能力があったからと評価されている。

同時期、モータージャーナリスト活動も始める。友人である作家・五木寛之の薦めだったという。その理論的かつ的確な表現は、それまで曖昧模糊とした表現が横行していた自動車の試乗記などに一石を投じた。「ステアリング・インフォメーション」などの言葉は黒澤が語り出したものである。


富士スピードウェイの難しいコーナーのひとつS字カーブを巧みな4輪ドリフトで抜けてゆく黒沢選手のスカイラインGT‐R。
その鋭い加速を見せるドライビングには寸分の狂いも見られない。余裕しゃくしゃくたる彼の表情が伺える。


長谷見昌弘 5勝 (ワークス)

長谷見 昌弘(はせみ まさひろ、1945年11月13日 - )は、日本のレーシングドライバー。現在は有限会社ハセミモータースポーツ代表。東京都青梅市出身。東京都立八王子工業高等学校卒業。

略歴
15才のときに全日本モトクロスレースへ参戦しレースデビューする。同時期に2輪レース活動を行っていた生沢徹(当時大学生)は、「高校生のガキ」(長谷見のこと)にあっさり抜かれたことでショックを受け、2輪に見切りを付けて4輪に転向したという話もある。

1964年四輪レーシングドライバーとなり日産・大森ワークスに所属、デビュー戦を勝利で飾る。その後は日産を離れフリー(タキ・レーシング所属)になったこともあるが、後に日産・追浜ワークスに復帰しており、基本的には日産系ドライバーと見なされている。1970年代から1990年代にかけて、長く日本のトップドライバーとして活躍を続けた。

1976年のF1世界選手権・イン・ジャパンにコジマからスポット参戦。予選1回目で4位となり、F1にレギュラー出場している海外トップチームを驚愕させた。2回目セッションでポールポジションを狙って乾坤一擲のアタックを試みるが、惜しくも最終コーナでコースアウト、クラッシュを喫してしまう。原因はサスペンショントラブルだった。マシンはほぼ全損といっていい状況であったが、コジマのスタッフだけではなく他チームの関係者もボランティアでマシン修復を手伝い、驚くことに決勝レースまでには走れる状態に再生してしまった。しかし急ごしらえのマシンだけに事故前のコンディションには程遠く、10番グリッドからスタートしたレースでは、完走を果たしたが、7周遅れの11位にとどまった。

1980年に国内レース史上初の4冠を達成(富士GC、全日本F2、鈴鹿F2、フォーミュラ・パシフィック)。1992年のデイトナ24時間レースにおいて、林義正率いる日産ワークスで、星野一義、鈴木利男と共に日本人ドライバーによる日本車初優勝を成し遂げる。

2000年いっぱいでレーシングドライバーを引退。その後はハセミモータースポーツの代表・監督として全日本GT選手権→SUPER GTなどに参戦している。

4輪レース引退後も、プライベートで2輪エンデューロやラリーへの参戦を続けている。50代の時期、若いライダーも普通に参加する本格的2輪エンデューロレースで優勝を果たし、関係者の間で話題になったこともあった。

引退の理由は「日産が新型のレーシングカーを供給してくれなくなったから[1]。日産にとって僕は必要ではないと思われたんでしょう」と語っていた。実際、四輪転向から引退まで(フォーミュラカー路線を除けば)基本的に日産一筋であった星野と比べると、長谷見は1996年に全日本ツーリングカー選手権(JTCC)にエッチ・ケー・エスからオペル・ベクトラを駆って参戦するなど、日産ワークスを離れての活動も目立っていた。このことから、当時の日産の中で長谷見は星野よりも優先度が低い扱いだったという見方をされる場合もある。

スカイラインとの関わり
長谷見は(幻のマシンとなった)日産・R383の開発要員としてタキ・レーシングから日産へ戻ったが、公害対策などの社会的要因にて開発が中止されるとスカイラインGT-R(KPGC10型)によるレース活動に参加。数々のレースにて活躍をする。

日産がワークス活動を停止した時期もプライベーターとして、ハセミモータースポーツとして活動を続けていたが、「レースで走るスカイラインが見たい」との思いをプリンス自販(当時)の社員から聞いた長谷見は、プリンス自販の社員に一枚1000円程度の「日産プリンス・ディーラーズ・クラブ(NISSAN・PDC)」のステッカーを購入してもらうことでレース活動の資金を得て、追浜の研究所から当時PA10型バイオレットのグループ5仕様車に搭載されていたLZ20Bエンジンをレンタルしてもらって、シャシー設計は東京R&Dに依頼してスカイラインのグループ5仕様を作る計画を立てたところ、追浜研究所の予想以上の支援が得られた結果、日産ワークスとして活動することになる。

ただし紆余曲折を経て、結局国内用のマシンは追浜ではなく大森ワークスが管轄することになり、同時に車両製作はノバエンジニアリング、デザインは由良拓也が行う形に体制も変更された。このとき「スカイラインだけじゃだめだ」との本社の意向で、同時にシルビア(S110型)、ブルーバード(910型)のグループ5仕様車も製作することになり、ここに「日産スーパーシルエット軍団」が形成されることになった。ところがスカイラインはデビューが一番遅くなり、1982年5月に筑波サーキットでのレースでデビューしたものの、初陣はリタイヤという成績で幕を閉じた。しかし次戦・富士スピードウェイでのレースでは優勝を飾った。

この時の模様が長谷見は印象深かったようで「スカイラインが最終コーナーを立ち上がるとね、お客さんが総立ちになってるんですよ。あれを見たら、ああスカイラインで走ってよかったなぁって思いましたね。」と語っている。以降もスカイラインがレース活動をする際は必ずステアリングを握ってきたことから「スカイライン=長谷見昌弘」とイメージする人も少なくない。

一方で追浜と東京R&Dでは海外遠征用のマシンを仕立てることになり、こちらは結局グループ5ではなくグループCのマシンである日産・スカイラインターボCとなって結実した。後の全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)における日産ワークスの系譜の端緒を飾るマシンである。

ちなみに、長谷見が一番好きなスカイラインは「ハコスカのGT-Rのレース仕様車」とのことで、「弱オーバーで乗りやすくて楽しいクルマでしたよ」と常々語っている。

トミー
玩具メーカーのトミー(現:タカラトミー)は長年に亘る長谷見のスポンサーであり、長谷見の乗るマシンには“トミカ(TOMICA)”のロゴが必ずと言っていいほど見られた。 「長谷見とトミカ」は、「星野一義とカルソニック」「中嶋悟とエプソン・PIAA」と同じく長年のパートナーとして広く認識されている。なお、長谷見とトミーとの関係は、星野・中嶋のそれぞれの関係よりも長期間に及ぶものである。

元々はモータースポーツ好きのトミー社員が長谷見の走りに魅せられたことが始まりで、トミー側から持ちかけたスポンサードであったという。現在もハセミモータースポーツの主要スポンサーの1社として名を連ねている。また、これまで長谷見が乗ったマシンやハセミモータースポーツのマシンのほとんどをトミカで製品化されているのも大きな特徴である。2008年には関連会社のトミーテックからトミカ・スカイラインの1/24モデルが発売になるなど、現在もその動きは続いている。

2001年シーズンの全日本GT選手権において、同じ日産系チームである星野のホシノインパルはスカイラインGT-Rの供給を受けGT500クラスに継続参戦できたのに対し、ハセミモータースポーツはGT-Rの供給を受けられず、GT300クラスへのステップダウンを余儀なくされた。

長谷見昌弘

スタイリッシュなHTは市販車としても人気を呼ぶとになるが実はこのマシンレース部隊からショートホイルベース仕様がリクエストされた事で誕生したモデル。双方のモデルを乗り “”尽くした長谷見も「4ドアはオーバーステアが強かったけど HTになってホイルベースが短くなり またリヤの部分が軽くなったことで操縦性は弱オーバーステアになった。間違いなくベストなGT‐Rだったと思う」と目を細める。さらに忘れてはなら無いのが空力パーツ。4ドア時代の70年シーズン終盤から実践に投入されたリヤウィングは 空気抵抗を引き下げながらもダウンフォースを生み出す秘密兵器となりHTでは最初から多くのマシンに標準装備されるまでになっていた。さらにタイヤをより幅広なものにコンバートすることになり それを覆うオーナーフェンダーも初期のごく慎ましやかなものから 最終的には大きな形状のものへと変化していった。これは空力的にも少なからず寄与していたようでGT‐Rは最後まで同じFISCOでも長いストレートを持ったフルコース(6km右回り)の方がショートコース(4.3km左回り)よりも得意だった。長谷見自身も「(ロングコースだったら)ストレートをスリップストリームで引っぱってもらい 30度バンクを駆け下りた先 横山コーナーからS字で抜く事が出来た」と分析している。いずれにしてもハコスカの最終進化型であるHTは使い手として知られた長谷見をして「これまでに乗ったレーシングマシンでベストな1台」と言わしめている。


豪快なエキゾーストノートを轟かせながらスカイラインGT‐Rは富士スピードウェイの100Rを抜け最もきついカーブ ヘアピンへ向かう。
実践で鍛えられたサスペンションはまったくバランスを崩さない。新鋭 長谷見選手の見事なコーナリングだ。


北野元 (ワークス)

北野 元(きたの もと、1941年1月1日 - )は、京都府京都市出身。元ホンダワークス所属の世界GPライダー、元レーシングドライバーで、かつて日産自動車追浜ワークスの三羽ガラスと呼ばれたうちのひとりである。

2007年11月現在、二輪用のタイヤを扱うタイヤショップウルフ・モトを経営。ツインリンクもてぎ内の博物館ホンダコレクションホールに動態保存されている多くの2輪・4輪のレース用マシンを、イベントなどで走らせるドライバー役も務める。愛称北さん。血液型O型。

経歴
19594月に大阪の信太山で開催された「第1回全日本モトクロス競技大会」でデビューし、オープンレースでいきなりの優勝を飾る。同年8月の第2回全日本クラブマンレース(アマチュアが対象)に出場。市販モデルのホンダベンリイスーパースポーツCB92で125ccクラスに、市販レーサーであるドリームスーパースポーツCR71で250ccクラスに出場し、両クラスで優勝する。同レースと併催だった第3回浅間火山レース(ワークスチームが対象)125ccクラスにも招待され、市販マシンCB92でホンダのワークス勢を抑えての優勝を果たす(1レースで3勝)。浅間火山レースの250ccクラスにも招待されていたが、このレースには出走していない。125ccに続き250ccクラスでもホンダワークスが負けては困ると、ホンダから北野に対し出場を控えるよう要請があったのではないか・・・という説もある(CR71は名目上は市販車だが事実上ホンダ系チームだけに貸与されていた)。

これらの活躍で一躍注目の的となり、翌1960年にホンダワークスに加入。弱冠19歳で世界最高峰の難レースと言われたマン島TTに出場したのを始め、ロードレース世界選手権に出場し活躍することになる。同じホンダの高橋国光や、ヤマハに乗る伊藤史朗と並び、若き天才ライダーと呼ばれた。

ただし1961年のマン島TTの練習時に転倒し重傷を負ってしまい、同年の大半を治療等に費やす結果になった。その後もホンダワークスライダーとして世界GPに出場するが、目立った成績は残していない。

1964年5月、鈴鹿サーキットで行われた第2回日本グランプリ(4輪)にホンダもS600で出場することになり、2輪の契約ライダーだった北野もステアリングを握ることになった。北野は予選前日の150R(現在の130R)で大クラッシュを演じたにもかかわらず、同じチームの外国人ドライバーロニー・バックナム(ホンダF1の初代ドライバー)に次ぐ2位でレースを終えている。

1965年からはホンダ2輪チームの先輩格にあたる田中健二郎に誘われる形で、同チームの高橋国光とともに日産の追浜ワークスに移籍。以降は4輪ドライバーとして活躍する。最初はフェアレディ1600を駆ってレースに出場していたが、ライバルとのポテンシャルの差からなかなか勝てずにいた。それでも1966年の「第3回日本グランプリ」ではフェアレディS(日産がフェアレディ1600をベースに直列6気筒DOHC2000ccを載せたマシンで、実戦参加はこの1戦だけだった)を駆って予選では2番手を約15秒離して堂々のポールポジションを獲得した。翌1967年の「第4回日本グランプリ」では、初めて乗ったミッドシップの本格的なプロトタイプ日産・R380AーII(この前年にプリンス自動車工業と合併しており、プリンスのマシンはそのまま日産のマシンとして継続された)に苦戦しながらも4位入賞するなど、彼の技術は確実に磨かれていった。

1968年の「68日本グランプリ」において日産・R381で念願の総合優勝を獲得、名実ともに一流ドライバーの仲間入りを果たすこととなった。

1969年の「69日本グランプリ」でも日産・R382で、同じチームの黒沢元治に次いで2位。1970年6月の「富士300マイル」で優勝とプロトタイプでの活躍が続いた。ただし折からのオイルショックや排ガス規制の波によって日産がレース活動を縮小したため、プロトタイプでの活動はこの70年が最後になってしまった。

その後はツーリングカーやGTカーを主体にレース活動を行った。フェアレディZ432では、同車のデビュー戦となった1970年鈴鹿300kmレースでリタイヤに終わったものの、当時「レースの神様」と呼ばれた田中健次郎を絶賛させた。フェアレディ240Zでは、1971年の全日本ドライバー選手権で土付かずの年間チャンピオンを獲得。1972年9月3日の「富士インター200マイルレース」ではスカイライン2000GT-Rに乗り、マツダサバンナRX-3を駆る従野孝司との死闘を制し52勝目の勝利をGT-Rにもたらした。サニーエクセレントでは、1972年の日本グランプリでスタート直後の大事故で多くのサニー勢が消えた中、たった一台でトヨタ勢とバトル。そのほかブルーバード、チェリーなど多くのマシンで数多くの優勝、入賞を果たしている。

1973年中盤からは富士グランドチャンピオンレース(通称・富士GC)や全日本F2000(→後のF2)に進出。チーム体制やマシンのポテンシャルの問題から苦戦を強いられることが多かった(両シリーズ合わせて最高位2位)が、常にトップドライバーと見なされていた。

1978年の「78JAF富士グランプリ」での6位を最後に一度現役を退く。以後、2輪用タイヤショップを経営。

1987年の「全日本ツーリングカー選手権」(通称・グループA)に、レイトンハウスのスカイラインRSターボで出場(コンビを組んだのは影山正彦)。

1988年、日産ワークスの後輩である星野一義主宰のホシノ・レーシングから、本格的にレースに復帰。和田孝夫とコンビを組み、スカイラインGTS-Rで全日本ツーリングカー選手権に参戦。1989年は星野と組んで1年間戦い、西仙台ハイランド300kmレースでは17年ぶりの総合優勝を飾っている。

現在では二輪タイヤショップウルフ・モトのオーナーとして、そのバイクに合ったベストなタイヤ選択と安全に速く走る方法を顧客に伝えている。

近年、ニッサンが年に一度開催する「NISMO FESTIVAL」で、往年のマシンをデモ走行させている。2003年はスカイライン2000GT-Rレーシング仕様、2004年はレストアを終えたR382(ゼッケン21は黒沢元治だが)、フェアレディ240Z(当時テスト用として使われていたマシンらしい)、2005年は北野が「68日本グランプリ」で総合優勝したニッサンンR381(ゼッケン20)を走らせ、往年のファン達を喜ばせている。

特徴
4輪時代は黒いジェット型ヘルメットに口ひげがトレードマーク。右側にちょっと首を傾げてドライブするのも特徴で、ツーリングカーでは右手を窓枠にかけ、しばしば片手ハンドルを行っていた。

日本の4輪レースでフルフェイス型ヘルメットが初めて使用されたのは、1969年の日本グランプリにおける日産チームだったと言われる(元祖フルフェイスである米ベル社のヘルメットを、日産がワークスドライバーに支給)。ほとんどのドライバーが喜んでフルフェイスを使用する中、北野は「重く違和感がある」とジェット型ヘルメットに固執し、結果として同レースでは2位入賞。その後フルフェイスが完全に主流になった '70年代中盤でも、ジェットを使用し続けていた。とはいえ北野は70年6月に行われた全日本富士300マイルで、白地に黄色い横のストライプの入ったフルフェイスをかぶって、黒沢元治とともにニッサンR382をドライブし優勝。75年シーズンからは黒のフルフェイスをかぶっている。

高橋国光などと並び天才肌と称されたが、比較的早めにトップカテゴリーから引退しているため、現役時を知らない若いレースファンにとってはやや地味なイメージになっている面もある。しかし当時を知る関係者や、近年のメモリアルイベントの現場で直に接した人々の間では、「あれだけの実績があるのに偉ぶらず親切で礼儀正しい人」と非常に人気が高い。師匠筋である田中健二郎も「北野は向こうっ気が強い面もあったが、仲間やライバルが事故でコースアウトしていたりすると、すぐにマシンを止め真っ先に救助に駆け付ける男でもある」と評している。

レースでは誰よりも激しい走りを見せ全盛期の星野一義をも驚かせた北野だが、オーナーであるタイヤショップを訪れる一般ライダーには「タイヤの馴らしが終わるまで絶対に無理するなよ、スピードは控えめにしろよ、他人にいい格好を見せようとしちゃ駄目だよ」などと、元世界GPライダーとは思えないほど(逆に言えば危険な領域を知っているからこその)安全第一の丁寧なアドバイスを送ることで知られている。

エピソード
元日に生まれたことから「元」と名付けられたと言われる。
北野がホンダのワークスライダーとしてGP参戦のため渡欧した際、当初欧州の人々に「元」はニックネームなのだと思われていたらしい。「元」の音とローマ字のスペル「Moto」が、フランス語やイタリア語などで「オートバイ」を意味する「Moto」と全く同じだったためである。
ホンダワークス〜ニッサン追浜ワークスの間、ずっと同じチームに所属していた高橋国光とは一度も口を利いたことが無く、初めて口を利いたのはグループAに復帰してからだったそうである。同格のドライバーだった現役時代は、お互いに意識し合っていて素直になれなかったのだという。現在では無二の親友らしい。
三菱ワークスドライバーだった望月修がF2マシンを転覆させ下敷きになった際、北野は一番先に現場に駆け付けて救助に当たった。同じ日産の黒沢元治がテスト中にコースアウトしマシンを転覆させた際も、コース脇の草むらをかき分け最初に救助に駆け付けたのは北野だった。
1972年9月3日の富士インター200マイルレースでは、従野孝司のサバンナを徹底的にブロックして優勝したが、レース後に従野の母が北野のもとを訪れ「息子にレースというものの厳しさを教えてくださってありがとうございました」と挨拶してきたという。
富士インター200マイルレースの後、従野の実兄の片山義美が抗議(あるいはブロックの仕返しの通告)に訪れた際、他の日産勢はどこかに消えてしまったが、北野だけは逃げずに片山の話を聞いたという。
実は左手の人差し指が無いというハンディを持ってレース活動を行っていた。2輪ホンダワークス所属時にトレーニング中のアクシデントで指を負傷したが、直後のレースに支障が出ないよう治療を諦め、あえて切断という選択をしたと言われる。ハンディをものともせずに数多くの優勝・入賞を遂げてきたことは、すさまじい精神力と努力の賜物という他ない。
星野一義は日産の頃からずっと北野にあこがれていた。北野の技量の高さだけではなく、人柄にも惚れていたらしい。



コーナーをフルに使って 北野選手のスカイラインGT‐Rは4輪ドリフトさせながら 2速フルスロットルでヘアピンから鋭い立ち上がりを見せる。
スリップストリームを生かした後続のスカイラインGT‐R(黒沢)との間は1メートルと満たない絶妙な走行である。


都平健二 (ワークス)

都平 健二(とひら けんじ、1941年2月15日 - )は、茨城県出身の元日産追浜ワークスドライバー。スカイライン2000GT-Rやサニー1200GXに乗り、幾多の名勝負を展開。特に1970年代後半から1980年代にかけてのマイナーツーリングレースでは常に優勝候補と言われるなど、ハコ(ツーリングカー)使いの名手として知られた。現在はレースの一線は退き、茨城県でカーショップの「リミット」を経営。血液型O型。愛称トッペイちゃん。

経歴
モトクロス界の名門チームだった城北ライダースに所属し、1964年のMCFAJのチャンピオンを経て、同年末日産の大森宣伝第3課(大森ワークス)と契約し4輪ドライバーに転向。ただし2年間ほどは4輪レースと併行して、城北ライダースから2輪モトクロスにも出場していた。

1965年3月に川口オートレース場で行われた、ストックカーレースで4輪レースにデビュー。

1969年に日産追浜ワークスに昇格。同年5月の日本グランプリで高橋国光とコンビを組み、日産R382を操るが結果としてリタイヤ。高橋国光の名前しか出ない場合が多いが、この時期の日本グランプリは長丁場のため複数のドライバーでエントリーすることが認められており、都平も決勝レースを走っている。

以降も日産ワークスドライバーとしてツーリングカーレースなどに出場する一方、プライベート活動として富士グランドチャンピオンレースやフォーミュラカーレースにも出場。

1988年R31スカイラインGTS-R全日本ツーリングカー選手権 (JTC/JTCC)に、鈴木亜久里/アンダース・オロフソン等と参戦。
1993年BOSEスカイラインBNR32GT-RN1耐久シリーズ参戦。河合博之とのコンビで第5戦十勝を征した。
1994年ワイズスポーツスカイラインBNR32GT-RN1耐久シリーズに参戦。前年と同じ河合博之とのコンビで全8戦中3戦で優勝。年間タイトルを獲得。
N1耐久チャンピオン獲得の翌年、1995年の開幕戦では、河合博之および須賀宏明と組んでR32GT-Rで出場。このレースは新型R33GT-Rの初陣だったが、都平は旧型マシンで新型を破って優勝し、ベテランの妙味を見せつける格好になった。

翌1996年まで現役を続け引退。以後はショップ経営に専念している。長年、自らの手でマシンのチューニングやセッティングを行ってきた経験から、GT-Rなどのチューニングには定評がある。


富士スピードウェイのヘアピンカーブでみせるスカG‐R編隊、まるでボディが触れんばかりの至近距離での この妙技。
チームメイトとマシンが一体となった都平選手の芸術とも云える巧みなコーナーワークだ。


横山達 (ワークス)故人

S8・1・15生 江戸っ子。父親は秋田雨雀の弟子で清藤森夫というペンネームの童話作家であった。太平洋戦争の空爆で家を焼かれ、神奈川県茅ヶ崎へ疎開し、そのまま茅ヶ崎に居つく。藤沢高校から明治大学商学部へ進む。昭和30年卒業後、オートバイメーカーの陸王に出入りして、33年の第3回浅間火山レースに出場する予定でいたが、メーカーがつぶれてご破算になった。第1回日本GPジャガーEタイプで出場、優勝。その夏プリンスファクトリーに入る。スカイライン2000GTで主に活躍し、41年第3回日本グランプリではR380で4位に入った。第4回日本GPスカイライン2000GTでは総合優勝を飾った。同年10月には谷田部でR380Uで7つの国際スピード記録を保持。ニッサンレーシングチームキャプテンを務め レーシングアドバイザーとして後輩の指導に当たる。スクーデリアニッサン創設。


‘71日本グランプリに登場〜このスカイラインGT‐Rがその予定車だ。時速200キロを超える超高速で走り去るハードトップのスカG‐R。
強烈なコーナリングとテールウィングの効果がR380の記録をしのぐタイムを期待できるだろう。


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砂子義一 (ワークス)故人

砂子義一氏 1932・9・23生まれ

大阪生まれ、昭和32年第2回浅間火山レースにヤマハワークスの一員として参加。この時ヤマハは全国から優秀なライダーを集め、総勢12名の大チームであった。チームメイトには野口種晴、望月修、伊藤史郎、益子治、大石秀夫、と言った連中がいた。250ccレースでは、益子に次いで2位に入った。その後もヤマハのワークスライダーとして、伊藤、益子、大石とともに2輪の世界グランプリを転戦した。昭和38年11月に伊藤史郎とともにプリンスチームに入り デビューレースは39年第2回日本グランプリ・GTクラスで2位に入った。1966年の第3回日本グランプリでは日本初の純粋レーシングマシンR380にてポルシェ906を制す。プリンス自動車と日産自動車の合併にともないニッサンファクトリーの1員となる。‘68日本グランプリではR381で出場、オーバーヒートに悩まされながら完走6位にはいった。日本の4輪レースの草分け的存在である。横山氏の後任としてニッサンレーシングチームのキャプテンとして活躍。

その後合併した日産自動車のワークスドライバーとして活躍したGTR50勝伝説の立役者の一人。


杉崎直司

中学時代レーサーに憧れ、16歳でジムカーナをはじめた冒険家。71年ニッサンオールスターシリーズVで優勝。実力をメキメキ付け注目を浴びる。PMC・S所属。当時学業とレースを両立しながら活動。   


 青地康雄〜ニッサン特殊車両部第2特殊車両課:ファクトリーチーム総監督(故人)

1925年東京生まれ。45年陸軍航空士官学校より復員の後、50年日本大学工学部機械工学科を卒業。梁瀬自動車梶@

鰹Z江製作所を経て富士精密工業梶o後のプリンス自動車}に入社。エンジン開発実験に従事し、その後レース車両の開発

及びレースの実施を担当。スカイラインGT及びGT‐Rの連戦連勝とプロトタイプR380 R381 R382により日本グランプリ優勝

を果し、72年にはGT‐Rを50勝に導く。80年に日産自動車を退職、鞄y屋製作所に入社し取締役開発本部長を務め、88年には

日和工業且ミ長を兼務。89年土屋製作所退任、93年日和工業且ミ長を退任。2005年永眠享年80歳。



大森宣伝部所属ドライバーと共に

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=勝利ドライバー一覧=

1969
 5 3 JAFグランプリ  
篠原 孝道 ←1勝(GT‐R4DRデビュー戦)
 6 29 富士300km
黒沢 元治←2勝
 7 27 富士1000km
長村/篠原←3勝
 8 10 NETスピードカップ 
都平 健二 ←4勝
 8 24 日産サンデー
千代間 由親 ←5勝
 8 31 富士ゴールデン
長村 瑞臣 ←6勝
 9 21 12th全日本ストックカー
都平 健二 ←7勝
 10 10 日本GP
寺西 孝利 ←8勝
 10 19 富士TT
長村/篠原 ←9勝
 11 3 全日本鈴鹿
都平 健二 ←10勝
 11 3 FISCOフェスティバル
千代間 由親 ←11勝
 12 14 富士100ロード
長村 瑞臣 ←12勝
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1970
 1 15 富士フレッシュマン
久保田 洋史 ←13勝
 1 18 全日本鈴鹿300km
高橋 国光 ←14勝
 3 15 富士フレッシュマン
久保田 洋史 ←15勝
 3 22 ストックカー富士300
高橋 国光 ←16勝
 4 5 鈴鹿500km
箕輪 真治 ←17勝
 4 12 レースド日本6時間
黒沢/砂子  ←18勝
 5 3 JAFグランプリ
黒沢 元治 ←19勝
 5 17 富士フレッシュマン
塩谷 俊介 ←20勝
 5 24 鈴鹿1000km
久保田/箕輪 ←21勝
 6 7 富士300マイル
長谷見 昌弘 ←22勝
 6 28 12thクラブマン
星野 一義 ←23勝
 7 5 北海道オープニング 
須田 祐弘 ←24勝
 7 12 全日本選手権
高橋 国光 ←25勝
 7 19 日産サンデー
久保田 洋史 ←26勝
 7 26 富士1000km
砂子/長谷見 ←27勝
 8 23 鈴鹿12時間
高橋/都平 ←28勝
 8 23 富士フレッシュマン
久保田 洋史 ←29勝
 9 6 富士インター200マイル
杉崎 直司 ←30勝
 9 27 富士フレッシュマン
久保田 洋史←31勝
 10 10 日本オールスター
杉崎 直司 ←32勝
 11 3 富士TT
北野/長谷見 ←33勝
 11 3 全日本鈴鹿
高橋 国光 ←34勝
 11 15 富士フレッシュマン
久保田 洋史 ←35勝
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1971
 1 10 全日本鈴鹿300km
長谷見 昌弘 ←36勝
 3 7 全日本鈴鹿自動車
黒沢 元治 ←37勝(HTデビュー戦)
 3 21 ストックカー富士300
神谷 東一郎 ←38勝
 4 11 レースド日本6時間
歳森/星野 ←39勝
 4 25 富士300kmスピード
久保田 洋史 ←40勝
 5 3 日本GP
高橋 国光 ←41勝
 5 16 富士フレッシュマン
正谷 栄邦 ←42勝
 5 23 日産オールスター
河原 伸光   ←43勝
 6 6 富士グラン300マイル
黒沢 元治 ←44勝  
 7 18 日産オールスター
久保田 洋史 ←45勝
 7 18 ストックカー筑波100km
長谷見 昌弘 ←46勝
 7 25 富士1000km
久保田/鈴木

 8 22 鈴鹿グレート20ドライバーズ
黒沢 元治 ←47勝
 9 5 富士インター200マイル
久保田 洋史 ←48勝
 10 10 富士マスターズ250km
黒沢 元治 ←49勝(BS初スリック採用)
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1972
 3 20 富士300kmスピード 高橋 国光 ←50勝  ⇒ 世間で言う一応の節目

 6 4 富士グラン300マイル
高橋 国光 ←51勝 ← リヤディスク初採用
 9 3 富士インター200マイル
北野 元 ←52勝 ワークス体勢で勝った最後のレース
 10 22 富士1000km
窪寺/飯村 ←53勝
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1973
 4 8 レースドニッポン
寺窪/久保田 ←54勝
 7 29 富士1000km
正谷/久保田 ←55勝
 11 4 富士TTパンナム500
寺窪/久保田 ←56勝
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1974
 7.29 全日本富士1000キロレース 
正谷/久保田  ←57勝

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To be continued.


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