S30系フェアレディZ

スカイラインに比べフェアレディZ(432・240)の開発経緯情報は非常に乏しい

その中で日産ワークスの流れに順ずる記述があった。


=240ZとL型エンジンの功績=

日産ワークスの活動はグループ7カーを中心としていた時代には、量産車系での活動はそれほど大きな比重を

占めていなかったが70年6月に純レーシングカーによる活動中止を表明して以来 その軸足は量産車による

活動となった。もっとも69年JAF-GPで実質負けに等しいデビューを飾ったスカイラインGT-Rの開発・玉成は

そのメカニズムが純レーシングカーに準じた事から荻窪・村山の特殊車両課(プリンス系)が終始関わる経緯

となったが、これと並行して同じエンジンを使うGT部門のフェアレディZ432も ワークス体制による開発が

行われる事になり 早々に同モデルの発表間もない70年1月の鈴鹿300kmレースに持ち込まれていた。

これがいかに急作業であったかは本来はGTクラスでありながらポルシェ908やフォードGT40と同じRクラスでの

参戦になったことからも見て取れる。GTクラスの公認が間に合わなかったのだ。逆に言えばクラスに関わらず

Z432の実戦デビューを急いだ背景には早急にレース仕様車の完成が望まれていた事情が見えてくる。

このレースは日本のモーターレーシング(第一期)がピークを迎えた69年日本グランプリからわずか3ヶ月後の

レースでありプライベートコンストラクターの活動が活発化し始めた時期とも重なって総勢97台のエントリーを

集めていた。いかに盛んであったかはこの台数を見ただけでも想像できるだろう。こうした状況で日産が

持ち込んだZ432はまだプロトタイプと呼べるものでS20型エンジンはウェーバーキャブ仕様。GT-Rが69年

10月に日本グランプリでメカニカルインジェクションを装備していた事を考えれば このZ432がほとんど時間の

無い状況で作られた事がその仕様からも伝わってくる。S30型Z432のファンにとっては伝説として語り

伝えられる70年の鈴鹿300kmレースだが すでにインジェクションを備え基本開発を終えていたGT-Rと

比べてもすでに予選の段階から潜在能力の高いところを示していた。Z432を任されていたのは北野元で

2分38秒7の予選タイムをマーク。ポールポジションのポルシェが2分31秒だった事から かなり速かった

ことがうかがえる。ちなみにツーリングカークラスで最速タイムをマークした高橋国光のGT-Rは2分40秒5

だったから Z432のスピードは相当に速かったことになる。レースは今から振り返れば常識的には考えられない

展開で後続を大きく引き離したポルシェ908の2番手が北野のZ432だったが 北野は田中健二郎のフォード

GT40を従えていたのである。田中のフォードGT40はまともに走れる状況ではなかったのだが仮にも69年

ルマン24時間ウィナーと同型車。まともながら2リッターのGTカーに抑えられる相手ではなかった。しかし

これを差し引いても北野のZ432は快調そのもので3リッタープロトの908に先行を許すだけで その他実績ある

ポルシェ910(風戸)以下を抑えきったのである。しかし レースとはなかなかうまくいかないもので北野曰く

「オフシャルのフラッグミス」というオイル旗の不提示により8周目1コーナーでレースを終えるハメになってしまった。

ドライバーとしての北野にとっては不本意なレースになってしまったが開発側から見ればZ432の潜在能力を

確認できた事で一定の成果を収めたレースと見る事ができた。この結果を受けZ432の開発は急テンポで

進められると考えられていたが わずか半年後の富士1000kmにはダットサンスポーツ240Zが登場。

4バルブDOHCの2リッターではなく2バルブSOHCの2.4リッターが選ばれた形だ。R380の直系の

S20型ファンにとっては落胆を隠せない出来事だったが たまたまシリーズの選択肢に2.4Lエンジンを

持っていたフェアレディZならではの結果である。「排気量が同じなら当然S20型を選ぶ事になるがL24型が

持つ400ccの排気量差は大きかったね。トルクの絶対値が大きく しかも中速域からトルクがあるからL24型

の方がレースに向いていた」とは この年から日産に戻った長谷見昌弘。「まったく他の車両がいない状態で

コースを回るのなら当時のS20型とL24型ではそれほど差は無かったと思うが混戦の中で常にラインを変えて

走らなければならない実戦ではトルク型のL24型エンジンは大きな武器になった」と言う。L型エンジンを

使う240Zにはもうひとつ大きなメリットがあった。メカニズムがシンプルだったためメンテナンスやチューニングの

作業に関してS20型のような高度な技術(といってもレース用であるためそれなりのレベルは必要だが)を

必要とせず チューナー単位で運用する事が可能なエンジンだったのである。GT-Rが現役を退いた後

プライベーターに240Zが支持された理由はこうした点にあり 70年代のモータースポーツを支える貴重な

戦闘力となっていた。240Zの開発に終始関わってきた長谷見昌弘が最後に興味深いコメントを残してくれた。

「実を言えばZはあまりボディ剛性が高くなかった。ボディ剛性という点ではGT-Rのハードトップボディの方が

良かった」Zの話をするべきなのだがGT-Rのハードトップボディがレーシングユースまで見越したものだった

ことには改めて感心させられる。「レースの日産」の呼び名はやはり伊達ではない事を思い知らされる。

この時代で言えば特に旧プリンス系の人たちだが ここから十数年を経てR32GT-Rに繋がっていくのだから

やはり敬服せざるを得ない。

一端表立った活動を控える70年代の中後半はその存在は希薄だったと解釈できるのだが プライベーターによる

モタースポーツ活動の灯を絶やさぬようにその下地作りを行ったという点では日産ワークスが行った240Zの

開発・熟成作業は非常に大きな意味を持っていたのである。


70年4月のレース・ド・ニッポン(富士)に登場したワークスZ432。優勝:北野元/長谷見昌弘


70年5月の鈴鹿1000km。ルマン式スタートから予選ポールのいすづR6クーペを抑えてトップで1コーナーに向かうZ432。


71年1月の鈴鹿300km。ゴールの瞬間を捉えた1カットだが トップでチェッカーを受ける北野の240Zに
周回遅れのドライバーが手を合わせて謝っている。進路妨害でもしたのだろうか?


貴重画像:ワークスZのコクピット Zといえば定番CHECKMANステアリングだと思っていた、

GT-RはCHECKMANはセミワークス ワークスは“mach”。

Zワークスも“mach”だったとは。


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