日産自動車第2特殊車両課レーシングGT‐R開発簡略録
資料:日産自動車第2特殊車両課 青地康雄・内田隆久




S54CR→GT‐Bのエンジンをクロスフローに改造したファクトリーマシン

表・1 新旧スカイラインの比較諸元

車種 2000GT‐A 4DR GT‐R  HT GT‐R
項目 型式 S54‐B PGC10 KPGC10
 全長(mm) 4235 4395 4330
 全幅(mm) 1510 1610 1665
 全高(mm) 1405 1385 1370
 軸距(mm) 2590 2640 2570
重量 空車重量(kg) 1095 1120 1100
最高速度(km/h) 180 200 200
SS1/4マイル(sec) 17.0 16.1 15.6
馬力当り重量(kg/PS) 8.76 7.0 6.9
シリンダー数・配列 6直列 6直列 6直列
弁配置 D・OHC D・OHC D・OHC
総排気量(cc) 1988 1989 1989
最高出力(PS/rpm) 125/5600 160/7000 160/7000
最大トルク(m・kg/rpm) 17.0/4400 18.0/5600 18.0/5600

=1968(S43)=------------------------------------------------------------

10月 GC10発売

同月 第15回東京モーターショーにスカイラインGTレーシング仕様出展 翌年発売されるGT-Rのコンセプトカー

12月 4DR PGC10-R プロジェクト始動

12月11日 生産試作車PGC10T(村山工場)を谷田部、富士スピードウェイに持ち込む

 ‘69JAF GP TSレースに初陣を飾るべく第一次プロジェクト開始
  (PGC10〜S44、2月21日に発表 発売)

 富士6kmコースを初疾走したGT‐Rは2分20秒(平均時速154.286km/h)30ラップ消化して終える。
 旧型スカイラインS54CR→2分20秒前後なので まずまずの結果。
 R380:車両重量約700kg 最大出力230PS→平均ラップ2分前後 最終ベストラップタイム 1分56秒

 {この時の仕様}−試作車のレース用サスペンション−
            タイヤ→フロント:ダンロップ5.00‐14 リヤ5.50‐14
            ホイル→溶接スチールホイル 6J/7J
            エンジン→生産型そのまま(レブリミット:7.000rpmで走行)
            車重1200kg

 結果〜GT‐Bのようなジャジャ馬的な走り方は見られず奥ゆかしい物静かな走行ぶりでレーシングマシンとして十分な素質を持ち
     予期した通りのポテンシャルを持っている事に満足
    ※31周目にバルブリフターが焼付き終了

富士スピードウェイ30ラップの試走によって次のような目標が立てられた。

1.)エンジンオイル、デフオイル、トランスミッション、冷却水などについては翌年5月の気温を考えると温度関係をチェックする必要がある。
2.)燃料タンクの吸い上げ量は不足でレース用を考える必要がある。(バッフルプレートの取り付け)
3.)ハンドルの操作力はやや重いので軽減をはかる。
4.)エンジンについてはR380用を参考として出力の向上を図り200馬力以上を目標にする。
5.)エンジン回転数の増大に伴いクラッチフェ−シングのバースト対策を考慮しておくこと。
6.)その他のレース仕様化に伴い将来オプション設定の必要と思われる部品について検討を進める。

これらの検討結果によりさっそく各種部品の設計を開始し試作手配を進める。


GT‐R用軽量化部品リスト
   部品または部位 → 主要対策
 エンジン関係  クーリングファン → 径の短縮
 フライホイル → 軽量品
 コンロッド → チタン合金製
 エンジンルーム  バッテリーケーブル → アルミ製特注品
 バッテリーアースケーブル → アルミ製特注品
 ボディ関係  フロントフード → FRP
 リヤトランクリッド → FRP
 ドア関係 → FRP
 リヤウィンド → プラスティック
 ドアガラス → プラスティック
 リヤバンパー → 取り外し
 フェンダーミラー → 取り外し
 ドライバーズシート → 軽量品
 パッセンジャーズシート → 軽量品
 リヤシート → 軽量品
 フロアマット → 軽量品
 グローブボックス&カバー → 軽量品
 ルームランプ&サンバイザー → 軽量品
 ヘッドランプ&グリル → 軽量品
 足回り関係  ホイル → マグネシウム
 サスペンションブッシュ → ナイロンブッシュ
・ドア内張り除去 ・計器盤内不要なもの ラジオ ヒーター除去 ・車体で強度に関係ない部分に穴開けなど


来年5月までの間 GT‐Rのレースだけでなく 10月の日本GP出場予定の新型R382の先行開発としてR381改造車(新エンジンGRX‐T型、V型12気筒・4963ccを搭載)による実験も同時に行い、試作工場では新型R382とそれに搭載する新型GRX‐U型(5954cc)の試作も急がれており、GT‐R用の開発部品が目指す日程に合わせて試作が完了するか不安である。同時に日産自動車として石原裕次郎主演の映画”栄光への5000キロ”の撮影に全面協力しており 映画前半日本GPに裕次郎がニッサン車で活躍のシーンがありそのレースシーンを5月11日‘69富士スピードカップレースにR381を2台 R380を2台出場させ、滝レーシングのローラT70にも協力してもらい、R381とローラT70が競うことで日本GPのシーンを撮影する事になっている。我々はR382の先行開発、5月のJAFGPに初出場のGT‐Rの開発と並行して 撮影の為の打ち合わせや出場車の準備だけでなく、怪我をさせないように注意してR381での裕次郎の走行トレーニングにも協力しなければならなかった。

=1969(S44)=------------------------------------------------------------

2月 PGC10発売

1〜2月新車両納入

 ‘69JAF GPのプロジェクト目標
 レース用エンジンの出力を200PSに決める

エンジン仕様
高回転高出力化実現の為:カムシャフト〜ハイオーバーラップカム 鋳造ピストン→鍛造ハイコンプピストンを軽量化 
クランク→ダイナミックバラン コンロッド→重量バランスを兼ねた軽量化

 富士スピードウェイ目標ラップタイムを2分10秒(平均時速166.154km/h)に設定

エンジンはニッサンR380の技術を生かし出力の向上が進められたが セダンGT‐R用として排気管&エアホーンの長さを変更し大幅に性能アップが可能になった。トランスミッションのレシオはフェアレディ用のオプションを当面使用 検討する。

  1st 2st 3st Top O.D
A仕様 1.858 1.383 1.217 1.000 0.852
B仕様 2.678 1.704 1.262 1.000 0.852

 2月〜各種のレース部品の設計と試作に入る

=テスト車によるベストタイム(富士6kmコース)=
2月6〜7日 ベストラップ:2分15秒1 (平均時速約159km/h) 平均ラップ:2分15秒8

問題点発生
1.)ぺラシャフトの振動が大であること
2.)それよりトランスミッションエキステンションからのオイル洩れ
3.)エンジンオイル消費大 トルクの谷発生
4.)右旋回時における油圧低下
5.)ブレーキの効き不良

エンジン改良 プリンス事業部実験課:酒井靖郎 戸島敏明 石井秀人が受け持つ
オイルの片寄り対策 S20を設計した榊原雄二 牛島孝 が担当

2月15日 谷田部自動車試験場 最高速試験 現状車とS54CRの比較
GT‐Bレース仕様車:202.0km/h
GT‐Rレース仕様車:213.0km/h
アンダーカバー装着により3km/h速度が上昇する事も確認
※S54CR→GT‐Bのエンジンをクロスフローに改造したファクトリーマシン

2月20日 富士スピードウェイ 雨中のテスト ベスト2分33秒2

雨中の問題
1.)ワイパーの浮き上がり
2.)天候の変化によるキャブセッティングの相違
3.)デフレシオ4.444は6000rpm以下を使用する部分がありエンジン回転低下による不調が発生、レシオの決定が急務

4.444→4.875に変更 LSDは新製、フロントブレーキはMK63、マスターの径変更、リヤスタビ装着(Ф12.7)、軽量化:FRPボンネット トランクリッド
 オイル消費&横Gの油圧変動対策→大容量オイルパン

3月10〜11日 2分11秒7 (平均時速約164km/h)

その他対策部品を組み込み
FRPパーツ:ボンネット、トランクリッド、ドアパネル
ファイナル;4.444→4.875 強化LSD フロントキャリパー:グロリアPA30用MK63 リア:スタビ(Ф12.7mm)を組み下日テスト

3月18〜19日 2分10秒4 (平均時速約165km/h) 当初設定したタイムは達成

依然としてエンジン油圧変動、デフオイル温度上昇 さらにトランスミッションエキステンションの亀裂の問題は解消されず。

3月26〜27日 ‘69JAFグランプリレースの規則書によりファクトリードライバーが出場できない為 ユーザードライバーを5名選出。

ラップ差:ファクトリードライバー 2分10秒4に対し ユーザードライバー 2分11秒5

(この時のファクトリードライバー:北野元 高橋国光、黒沢元治、砂子義一、都平健二、横山達、大石秀夫)

車両問題点

1.)油圧変動:オイルパンの容量を増大するとともにオイルポンプストレーナの形状変更で対策
2.)デフの油温:オイルクーラーを装備する事により約40℃の温度低下がありその効果は十分であったが重量的に損となる為エアガイドの取り付けと、排気管に遮熱板を付けつことによりまずまずの成果を得た。
3.)ブレーキ:3月までの実験結果によりブレーキパッド数種類より最適なものを選出した。
4.)クラッチディスク:エンジンの出力アップとトルクの増大によりクラッチディスクは次第に辛くなり、S54‐B時代に開発したモノと同様にAJ板にフェーシング材SF‐105を張り付ける方法でディスクのバーストの対策をした。
5.)トランスミッションリヤエクステンションの亀裂:亀裂の発生についてはかなり振動に影響があるので、まずプロペラシャフトのバランスを規格アップするとともにエンジンのバランスをASSYでとることとし、さらにエキステンションに補強リブを追加。
6.)タイヤとホイル:ダンロップ新開発ノ4.75/10.00−14を使用。ホイルハフロント6J リヤ7Jを採用 ワイドタイヤをカバーするだけのオーバーフェンダーをフロントに装着。

4月25〜27日 本番用のエンジンとユーザードライバーのトレーニングを兼ね最終確認実施

ユーザードライバー 2分12〜14秒でラップ

5月1日 ‘69JAFグランプリ → 4DRGT‐R デビュー戦

予選:GT‐R 2分13秒42〜15秒58 コロナ1600GT 2分14秒91〜15秒 

先頭グリッドはGT‐R3台 コロナ1600GT 2列 GT‐R1台 コロナ1600GT2台

 結果 JAF GP TSレース 総合1位、2位獲得 コロナ1600GTがトップ通過するがコース委員から走路妨害のアピールがあり1周減算のぺナルティを受け繰上げ優勝となった、初陣を辛くも獲得。あとあじの悪いものとなった。

5月までの開発経過においてGT‐Rの圧倒的な勝利は確実視されていたが 最後までコロナ1600GTに悩まされた。この原因は何処にあったのか十分な検証が必要だ。現状を十分把握する為 一方ではレース直後の5月8〜10日確認走行試験を実施し、他方ではコンピューターによる車両性能解析およびレース映像の観察に基づく検討を行った。結果

1.)車両性能について− レース出場車両とドライバーについての記録を表にしてみると、5名のユーザードライバーの技量が判り予選結果のタイムは妥当と考えられる。

2.)気象条件について− 開発実験時、2分10秒4を記録しているにも関わらず5月のレース及び確認走行実験時これに近いタイムを出しえなかった理由については、外気温度上昇による出力低下が考えられる 気象の違いによるラップタイムの計算結果を表に示したが外気温が23℃程度になるとエンジン出力は大幅に低下し、ラップタイムは2分12秒台に落ちることが判明した。

3.)車両の安定性について− レース中最終コーナーでたびたびスピンをしていたが車両の安定性についてはレース映像の観察と確認走行実験から何ら問題なくドライバーのコース取りや技量に問題があったように思われる。最終コーナーからの立ち上がりは最高速度にも影響し 直線からバンクにかけてのスピードも上がらずコロナ1600GTと大差ない結果となり このため直線で抜こうとしてもなかなか抜けないと言う事にもなった。

これらの結果から検証すると今回のレース結果が悪かったのはドライバーの技量とレースのかけひきがトヨタ勢よりも劣っていた。ことがあげられるが我々側にも反省すべき点が多々あった。最大の問題点トランスミッションのギア比選定の誤りである。ユーザードライバーの技量を考えた場合スタートの順位が結果に大きく影響すると言う事であった。さらにS54−Bに比べ4DrGT‐Rは車両が大きくなり空気抵抗が全面投影面積が増大した事もあって良くなく その分車両重量をもっと軽くし立ち上がりをよくすべきであった。GT‐Rの場合は車両改造規則により940kgまで軽量化出来るにもかかわらず今回は980kg前後もありコーナーからの立ち上がりが不利にし直線の伸びにも影響させていた。直線でコロナ1600GTを楽に抜ける状態にあればレース展開ももっと楽だったと思われる。

これらの検討結果により秋の日本GPまでに実施すべき対策事項は

1.)エンジン性能:出力はトヨタMk‐U、DOHCのことを考えて 230PS以上とする。
2.)エンジン回転数:レース時の走行状態とギア比との関係を考慮し 最低回転数5.500rpm、最大回転数8.500rpm、最高許容回転は出来るだけ高くし目標を9.000rpmとする。
3.)水温 油温の夏季対策と油圧の低下対策とを早急に実施し 走行実験が思う存分に出来るようにする事。
4.)車両重量は公認重量の10%減を目標に軽減すること。
5.)現在空気抵抗を増大させている原因を究明しその部分を改良を実施。
6.)現状の吸入空気温度は外気温+12〜15℃であり エンジンパワーロスが大きい、エンジンルーム内の温度低減をはかる。
7.)ディスクホイル(スチールホイル)の耐久性も増大すること:現在は200〜300周位で変形が大きく耐久性がない。
8.)トランスミッションはギア比を新設計するとともに振動によるリヤエキステンションの破損対策を実施する。
9.)デフ油温は暫定的にエアダクトで低減したが効果ある根本対策を実施。

=第2次開発実験=

5月22〜23日 初のスズカでテストを行う(鈴鹿でのレースも盛んになってきた為)
 ラップタイム 2分35〜38秒(平均時速 135〜136km/h)
 セッティングは富士と同じ(サスペンション)

鈴鹿は富士と違い幅員は狭く直線は短くコーナーも多いので平均速度は遅いがエンジン回転が高くなり クランクシャフトのダンパー破損という別の問題も発生。

富士及び鈴鹿用のトランスミッションのギア比
 1 速  2 速  3 速  4 速  O .D
富士 検討 仕様  2.520  1.762  1.268  1.000  0.8565
27/25 35/15  31/19  27/23    23/29
鈴鹿 検討 仕様  2.295  1.473  1.166  1.000  0.8565
27/25 34/16  30/22  27/25    23/29

6月

6月以降気温も上昇してきたので温度関係に重点をおきオイルク−ラ−の検討 吸入空気温度の低減対策 デフ油温低減対策等の実験を進めトランスミッションギア比、ファイナルドライブギア比の検討も 着々と成果が現れてきた。

1.)6.000rpm付近のバラツキについてはエキゾーストマニホールドの集合部分までの長さについて 台上と実車による試験を繰り返し エキゾーストテールパイプを軽量を兼ねて短くしボディサイド横向きとし この結果6.000〜8.500rpmの回転域で問題ないものを選出する事が出来た。
※短いタイプはR380でも高性能を発揮しGT‐Rにも採用された、テールエンドは面積を潰さないよう楕円の加工されたものだが耐久性に問題がありファクトリーのみで採用、その後レースにおいてテールパイプをボディサイドに向けるのは規則によって禁止されその採用を断念した。
2.)エンジン油温についてはオイルク−ラ−3種類を試作し取り付け位置の検討も含め対策。
3.)デフ油温については従来のエアダクトをやめ デフケースリヤカバーを鋳物製フィン付きを製作、油量も0.4.L増やした結果約20℃低減。
4.)右コーナーでの油圧低下に対してはオイルパンのバッフル形状を変更 さらにオイルパン容量8Lから9.4Lに増大しストレーナー形状も補強を 兼ねて変更。
5.)フューエルインジェクションの開発(ルーカス製機械式):すでにR380でも採用しておりトルクの谷を無くす為にも有効であった、キャブに比較して充填効率が上がり燃料の霧化も良くなり大幅にエンジン出力が上げられる。さらに加速レスポンスも良く 軽い空気の流速に対し重い燃料は遅れがちでキャブの場合は加速ポンプで補っているがインジェクションの方が追従性が良い。
6.)トランスミッションギア比については下記↓のように設定

1速 2速 3速 4速 O・D
C仕様 2.552 1.757 1.271 1.000 0.850

7.)アルミ製プレスホイルが開発されたが重量のあるGT‐Rには耐久力が不足するという結論となり約13kg軽量化のミリョクを感じながら採用にはならなかった。

8.)サスペンション:車両性能が向上するとともに操縦安定性も変化してきた為 バネ定数の変更、ショックアブソーバー減衰力の変更も実施。

以上の成果を実証する為レースに参加


オイルクーラー:フロントエプロン下部に装備 デフ:400cc増量 アルフィンカバー交換後−20度低下
サス:スプリングのバネレート、ダンパーを高めに変更 下記↓レースで検証

6月29日 富士300キロゴールデンレース第2戦 ファクトリードライバーによる初めてのレース。気温も高く予選のベストタイム 2分12秒84
       ライバル車 2分20秒前後
決勝:雨 タイヤの選定が甘かったファクトリー勢は直線でふらつき苦労するが優勝:黒沢→通算7勝。

8月10日 NETグリーンカップレース(日本GPの前哨戦) トヨタニュー7(5リッターエンジン)のデビュー戦 ニッサンはR381‐U(可変ウィング無し)に5リッターエンジンを積み迎え撃つがエンジントラブルでリタイヤ。
 予選ベストラップタイムGT‐R 2分14秒42 決勝 GT‐R:1位都平健二 2位須田祐弘

8月24日 ニッサンサンデーレース T-Wクラス1〜5位独占 優勝:千代間
8月31日 富士300kmゴールデンシリーズレース第3戦 ともにプライベートGT‐Rが優勝:長村

8月27日富士スピードウェイ フューエルインジェクション搭載GT‐R ヘアピンを含めコーナーの立ち上がりのレスポンスが良く 6.000〜8.500rpmのバラツキも無く快適な走行が出来た。ベストタイム:2分10秒5 夏季の天候でよく出たものだ。

9月21日 第12回全日本ストックカー富士300kmレース 左回り4.3kmコースの直線にシケインを設けた300kmレース
ポルシェカレラ6 ロータス47GT等との混合レース 互角に戦い総合3位 T-Uクラス優勝 都平健二/横山達 〜フェアレディを上回る

スカイラインはレースでの活動が話題になりはじめ 販売キャンペーンが功を奏し 月販5.000台を超えた

JAF GPより出場した6レースすべてに優勝

 10月10日 ‘69 日本GPを目標としてプロジェクト開始

 ヒューエルインジェクション(燃料噴射装置)
 チタン合金のコネクティングロッドをS20に組み込み

 この結果 エンジン出力はR380に近い230PSまでに上がった。

最高出力:230PS/8.400rpm 最大トルク:20.55kg-m/6.800rpm 最高許容回転数:8.500rpm 車両重量:1.030kg 
パワーウェイトレシオ:4.48kg/PS

 8月下旬 スズカのラップタイム 2分10秒5をマーク(平均時速165km/h)

10月10日 ‘69 日本GP メインレース〜R382が総合1、2位を独占
                 TSレース GT‐R 1〜8位独占(PGC10に燃料噴射装置)

10月19日 富士ツーリストトロフィーレース 篠原/長村 総合優勝
11月3日 富士300kmゴールデンシリーズ 千代間優勝
 同日 全日本鈴鹿自動車レース

(燃料噴射装置付きGT‐Rで出場した都平健二は予選ベストラップタイム 2分33秒4を出し 決勝でロータス47GT フェアレディ2000などを抑えて優勝)
12月14日 富士100kmロードレース TS-U優勝 ‘69年中に11勝を上げる

=1970(S45)=------------------------------------------------------------

1月15日富士フレッシュマンレース第1 TSクラス:久保田優勝
1月18日 全日本鈴鹿300kmレース(ポルシェ908 910などが出場) 総合3位 クラス優勝 高橋国光
(‘69日本GP以降初めてのファクトリー出場)

 5月の‘70 JAF GPを目標にプロジェクト開始
1.)エンジン:耐ノック対策にS20吸気ポートを加工 吸気インマニ→マグネシューム合金に変更 カムシャフト:リフト増大

ウェットサンプ→ドライサンプ仕様 吸入効率の拡大の為シリンダーヘッドの改修、吸入ポート、燃焼室の改善。カムシャフトは数種類試作し性能の良いものを選出、インテークマニホールドはマグネシウム インジェクションバルブ型式変更:バタフライバルブ→スライドバルブ(ベアリング式) 点火はフルトラ→C.D.I型を採用

2.)コーナリングの向上→タイヤとホイルのワイド化を図り フロントに8J リヤに10Jのマグネシュームホイルを採用(タイヤ:フロント 4.75/10.00‐14 リヤ 4.75/11.30‐14)。空力を考慮した前後オーバーフェンダー
※マグホイル採用によりバネ下が軽減された為 サスのバネ定数やスタビの再検討

3.)空気抵抗の低減 12月19〜20日 12月23〜25日2度にわたり実車による空洞実験を実施。ワイドオーバーフェンダー

@ライトカバーの影響 Aボディ各部の段付部の影響 Bアンダーカバーの効果 Cオーバーフェンダーの形状 Dオイルク−ラ−の取り付け位置と取り付け方の影響 Eフロントフードにノーズカバーの取り付けによる影響 F将来に備えリヤテールウィングに対する基礎実験

4.9ブレーキ性能の向上→制動力を増大する為 ローター径を拡大し ブレーキパッドの当たり面積を広げた。リヤにアルミフィン付きドラムを採用し軽量化も図る。サス:バネ定数 ミディアム ダンパー:縮み側 ミディアム 伸び側 ハード設定

最高出力:240PS/8.400rpm 最大トルク:21.4kg-m/6.800rpm パワーウェイトレシオ:4.29kg/PSまで向上

以上の開発項目を富士スピードウェイで走行試験を実施

 

2月18〜19日 ベストラップ:2分10秒2を記録したが昨年の同期の2分10秒4と大差なく むしろウェーバーからフューエルインジェクションであることも考えるとかなり悪いタイムと言える。従来から懸案になっていた吸入空気温度の低減に対して 競技規定を度外視し 外気導入法について検討しタイム向上の要因を探求した。

エアインテークガイドを取り付けることにより吸入空気温度は外気温+10〜15degに比べ +2〜3degまで下げる事が出来 実用化を検討。
また今回のエンジンをベンチテストした結果 出力がかなり低下していることがわかり やや安心した。
※エンジンがベストの状態で走行できるのは富士でいうと100周くらいまで 原因は新しい部品を組み込んでいたこともあり走行テストの前半はタイムアタックするより慣らしやセットに時間を費やしその間の走行距離がかなり多くなった為であった。

3月8日 全日本鈴鹿自動車レース 高橋:総合4位 TSクラス優勝以下
3月15日 富士フレッシュマンレース第2戦 久保田:TSクラス優勝
3月22日 第13回全日本ストックカー300kmレース 高橋:総合優勝
4月5日 全日本鈴鹿500kmレース にプライベート箕輪GT‐Rが出場し 総合5位 T-Uクラス優勝
4月12日 レース・ド・ニッポン ファクトリーGT‐R黒沢/砂子 TS-Vクラス優勝 → 通算18勝
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3月下旬 試作パーツがようやく出揃い富士へ ベストラップタイム2分08秒8
4月上旬 ブレーキドラム ドア関係 インストルメントパネルなどの軽量パーツも入手 ベストラップタイム 2分07秒8
4月下旬 JAFグランプリ本番車とドライバーを中心にテスト ベストラップタイム 2分07秒4

5月2日 ‘70 JAF GP エントリー台数52台 予選で37台に絞込み
予選 黒沢2分07秒で1位 箕輪2分07秒98で2位 都平2分08秒14で3位 高橋2分08秒16で4位
    ファミリアロータリークーぺ 片山2分08秒38 5位 武智2分09秒72 6位(フロント10Jリヤ12JのワイドトレッドのBS試作タイヤが装着されておりこのレースへの力の入れようは並大抵でないことをうかがわせていた)
 

 ロータリークーペを退けて総合1位黒沢元治 2位都平健二 4位箕輪真治 →通算19勝

ロータリー ノーマルエンジンはサイドポートだがレース用はペリフェラルポート 最高出力:180PSを発揮
この時点でファミリアは車体が軽量で小さく 全面投影面積が小さいので加速は速く 直線スピードでもGT-Rより勝っていた
リアサスペンションはリーフリジットでキャンバー変化が無い為 コーナリングは及ばない

 
映像は同年8月23日全日本鈴鹿12時間自動車レースのものだがこの日本GPでFRPのボンネット、リアトランクに加えドアもファイバー化された


その後最高速度向上の為 空気力学的向上をめざし、テールウィングの開発
実験結果 ウィングなし:205km/h ウィング付き:210km/hと向上(エンジンパワー換算:12馬力アップに相当)

 これはS45 10月10日 日本オールスターレースで実力発揮、見事優勝
 タイヤ→BS RA200採用(11月3日スズカ自動車レース)
 エンジン吸入空気の冷気導入式の開発

この時点で富士でのラップタイムがGT‐RはR380‐Tとほぼ同じ2分05秒台をマーク(平均時速172.8km/h)

※1月15〜11月15日まで24勝中でも8月23日、11月3日はダブルウィン。PGC10は50勝中 36勝をマーク

6月8日 日産自動車は取り巻く環境問題のためプロトタイプレーシングカーの開発を一時中止を発表
しかし 生産者のレース参加による高速安定性や信頼向上の技術開発と、健全なるモータースポーツの普及に寄与する為のツーリングカーやグランドツーリングカーレース支援とレース用オプション部品の設定の為の開発は引き続き実施を表明。

この年の日本グランプリレースも中止となった。

5月17日 富士フレッシュマンレース第3戦 左回り4.3kmコース 小雨 TSクラス:塩谷優勝
5月24日 全日本鈴鹿1000kmレース プライベート久保田/箕輪GT‐R 総合2位 T-Uクラス優勝
6月7日 全日本富士300マイルレース 長谷見最後尾からスタートし優勝 →通算22勝
6月28日 第12回全日本クラブマンレース(筑波サーキットオープニングレース) 新人星野一義 優勝
7月5日 北海道スピードウェイオープニングレース TSクラス優勝 R380MkV Z432Rデモンストレーション走行
7月12日 全日本ドライバー選手権 T-Uクラス優勝:高橋 2位:都平
7月19日 ニッサン・サンデーレース 久保田優勝 → 通算26勝
7月26日 全日本富士1000kmレース 240Zデビュー  砂子/長谷見GT‐R総合2位 TS-Vクラス優勝 →通算27勝
8月23日 全日本鈴鹿12時間レース 高橋/都平総合2位 T-Uクラス優勝(12時間レース最後の年となった)
同日 富士フレッシュマンレース Z432Rを抜き久保田GT-Rが優勝
9月6日 富士インターナショナル・ゴールデン100マイルBレース TSクラス 
      優勝:杉崎GT-R 2位:千代間GT-R 3位久保田GT-R →通算30勝
9月27日 富士フレッシュマンレース第5戦 TSクラス優勝:久保田 → 通算31勝

10月 2ドアハードトップ発売
    KPGC10発売

10月10日 日本オールスターレース 243台エントリー〜プライベーター杉崎選手の手によってリヤウィングを付けて優勝 
        ベストラップタイム 2分05秒85高橋国光が出したが予選でピットクルーの不慮の事故が発生しニッサンファクトリーは喪に服し出場を辞退 当面の目標としていたR380‐T型のタイム2分05秒02にはいま一歩及ばなかったがセダンタイプの車が05秒85をマークできた事が驚異的で開発効果が十分発揮出来た。

10度20度30度テスト結果:10度〜効果出ず 30度〜効果有り しかし高速コーナーでフロントが浮き強アンダーステア発生
結果:20度効果有り フロントアンダー出ず この角度に決定

11月3日 全日本鈴鹿自動車レース TSクラス高橋優勝
同日 富士ツーリスト・トロフィレース エントリー59台 北野/長谷見優勝
11月15日 富士フレッシュマンレース第7戦 TSクラス久保田優勝 通算35勝

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以降 KPGC10へバトンタッチ


これぞ激レア映像! ハードトップ発表前の覆面テスト走行のスクープ映像


主要寸法は4Drに比べ全長:65mm短く 全幅:55mm広く 全高:15mm低く ホイルベース:70mm短く 車重:20kg軽量

数ヶ月前まで村山テストコースを覆面で走っていた試作車の1台はすべての試験が終わり第2特殊車両課にやってきた、見た目には立派な中古車で、すでに数万キロ走っているのでレース用実験車として使うには惜しげないベースである。レース車として改修が開始されたが主に軽量化とオーバーフェンダーの取り付け作業だ、後に4Drで開発されたレース用部品を組み込む。共用できないドア関係、ウィンド関係はノーマルのまま。

10月23日 富士スピードウェイ HT GT‐R シェイクダウン

ドライバー:横山 黒沢 両選手が慣らし走行後徐々にペースアップ 横山:10ラップ 黒沢:9ラップ中 ベストラップタイム 2分06秒3

無理をせず流しただけでいきなりこのタイムは驚いた。4DRの感覚でアクセルを踏んでいくとついついオーバースピードになってしまい ついに100Rでクラッシュ転倒 幸い怪我も無く車両も軽傷で修復できる程度であった。車に何の欠陥も無く修理後再スタート。その後2分05秒6を出す。

ドライバーのフィーリングによる4Drとの違い

1.)全般的にエンジン回転の上昇が速く バンク入り口、最終コーナー手前で8.500rpmに達し 4Drに比べ500rpm高い。

2.)最終コーナー出口では4速で7.500〜7.600rpmで4Drに比べ300〜400rpm高い。

3.)フロントスタビФ24では極端なアンダーで 特に高速コーナーほど傾向が強い。

ハードトップGT‐Rはボディスタイルが変わり空気抵抗が減少している、空力的には前後バランスが4DrGT‐Rと変わりリヤのリフトが小さくテールウィングの効果が顕著に現れている。ホイルベース短縮の影響は直線安定性には影響なく むしろ乗りやすい。HT GT‐Rの特性がわかった今さらにタイムを短縮し 操縦しやすい性質があり今後が非常に楽しみで期待できるマシンであった。(車両設計は桜井真一郎氏)

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11月 新車が入手され開発実験も随時実施された、その主なものは下記↓の通りである。

1.)空力的な前後バランスはテールウィングによるリヤの押さえが4DrGT‐Rより大きく その反力でフロントが浮き気味となるため、コーナーでのアンダーが発生すると考えた。対策としてテールウィングの長さ 幅、取り付け角度等を検討したが4DrGT‐Rと共用とし取り付け角度とフロントスタビの径変更でコーナリングのアンダーを解消。

2.)エンジン使用回転の上昇に伴ってクラッチの滑りが発生、プレッシャープレートのクリップが折損するもので形状変更、材質変更で解消。

3.)タイヤについては磨耗、発熱などの対策としてショルダー部を変更し非対称タイヤの開発を進めた。

4.)既にエンジン性能はR380(GR8)を上回っており タイヤのワイド化でコーナースピードを上げる事を考え 将来に備えホイルはフロント:8J リヤ:11Jにすべく設計を開始。それに合わせHT GT‐R用のオーバーフェンダーを新設計、勿論空気抵抗を考慮に入れて規定範囲内で形状を決めた。8.5”×11”のホイルが出来上がるまでタイヤの実験用として前年中止していたアルミ板合わせによるホイルの実験を再開した。

タイヤの開発は目覚しく ‘70 12月には2分04秒6まで向上し アルミ製ホイル使用により車両のマッチングも良くなり‘71 3月には2分03秒4をマーク。

アルミ製ホイルは合わせ面に問題が残り ボルトの折損や緩みは材質変更、締め付けトルクの変更 合わせ面の形状変更など実施したが要求する耐久性を満足出来なかった。規定のマグネシュームホイル(神戸製鋼製)の納入が間に合わず5月は信頼性が高い従来のフロント8Jリヤ10.5Jを使用することとした。


=1971(S46)=------------------------------------------------------------

1月10日 全日本鈴鹿300kmレース 長谷見総合2位 TSクラス優勝 →4ドアGT-R最後のレースとなる

3月初旬 HT GT-Rは2分03秒4をマーク

3月7日 全日本鈴鹿自動車レース 小雪 ハードトップGT‐R黒沢ドライブで KPGC10デビュー戦を飾る。総合5位 Tクラス優勝
          この時のGT‐Rレースバージョンは従来の開発パーツを組み込む。

 =5月 ‘71 日本GPめざしプロジェクト開始=
 エンジン回転数のアップ(10.000〜12.000rpm)
 コーナリングスピードの向上(ノンスリップデフ、独立懸架、スタビライザー)

 KPGC10はPGC10より さらに高い戦闘力を備えていた。

3月21日 ストックカー富士300kmレース 1〜4位独占 長谷見優勝

4月11日 レースド・ニッポン6時間 フェアレディ240Z 1・2位 3・4位GT-R TS-Vクラス 歳森/星野優勝

4月25日 富士グランチャンピオン・シリーズ300kmスピードレース Tc-Bクラス久保田優勝→通算40勝 
       同日 240Zは高橋国光によって 2分の壁を破った。 1:59.160

       この頃「スカイラインがレースで負けるとニュースになる」と言われていた

4月下旬 GP本番車が完成、重量は約20kg軽くなり950kgを下回ることが出来た。

       エンジン出力が思うに任せずニュータイヤダンロップCR92に期待した。このタイヤで本番車は2分03秒2を記録 
       ホイルの重量差をタイヤで解消した感があった。

5月3日 ‘71 日本GP T-bレース スカイラインHTとマツダロータリーの対決

ロータリー勢の予選タイムが振るわない為 HT GT‐Rがどこまでタイムを縮めるか期待された。

高橋国光:2分02秒25 長谷見昌弘:2分03秒3 久保田洋史(プライベーター):2分06秒85

対する ロータリー勢2分08秒45 を筆頭に2分13〜14秒

TSレース 総合1位高橋,2位長谷見 3位久保田 上位独占 →グランプリ4連覇

PS.不振に終わったロータリー勢はその後ヨーロッパレースで好成績を挙げ 不参加だったトヨタ勢はターボチャージャー付きの実験車を鈴鹿で走らせている。いずれこれらの成果は国内レースに持ち込まれることを覚悟せねばならない。特にマツダは海外レースで実証済みのペリフェラルポート方式のエンジンをカペラに搭載して”打倒 スカイライン”を目標に開発を進めている。(ロータリーエンジンのポート方式の変更はレギュレーションにより‘72より禁止された)

この時GT-Rは強いアンダーステアが問題となり サーキットでのタイムは伸び悩んでいた:対策でフロントスポイラーが提案
8月の富士でコンディションの悪い中 2分03秒を重ねていた。

日本GP後 カムシャフトを改良 最高出力は250馬力に近づく

5月16日 富士フレッシュマンレース第3戦 左回り4.3km 正谷優勝

5月23日 ニッサン・オールスターレース 河原優勝 

6月6日 富士グラン300マイルレース ロータリー勢は万全の体制で望んできた
予選:黒沢 2分04秒49 高橋 2分04秒61 ロータリーカペラ片山 2分05秒79 天候:豪雨
GT-R:BS RA200を装着 決勝小雨 優勝黒沢 2位高橋 3位カペラ(2位と1分半の大差を付けられる)

7月18日 筑波ストックカー100km 優勝長谷見HT GT-R
同日 ニッサン・オールスターレースU 久保田HT GT-R優勝
8月22日 鈴鹿グレート20ドライバーズレース TSクラス黒沢優勝 総合7位
9月5日 富士グランインター200マイルレース Tc-Bレース 優勝久保田 2位長谷見 3位北野

10月9日 富士GC第4戦 予選 高橋が6kmコースで2分01秒62をマーク(平均時速177.602km/h)
 高橋はダンロップ CR92を使用、黒沢は新鋭のBSスリックタイヤを使用。黒沢は2分01秒92をマーク。

10月10日 富士マスターズ250キロレース 新型サバンナRX‐3デビュー戦  ⇒ ワークスとしてフロントスポイラー装着

予選:高橋国光2分01秒62 黒沢元治2分01秒92 北野元2分02秒55

ロータリー勢 片山義美カペラ2分03秒09 寺田陽次郎サバンナ2分03秒71

決勝 雨 : 優勝黒沢(ドライ) 2位高橋(オールウェザー) 3位片山(1分遅れ) 〜10位北野(ワイパー故障) →通算49勝

天候が悪いとサスが悪いロータリー勢は精彩を欠くレースが多い

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次の開発は細かいところを深く探求する事が必須

ニッサンR380の開発過程においても2分の壁は容易には破れなかったことを考え まず現状のHT GT‐Rの姿を十分に知る事を目標として谷田部高速試験場で定地試験を実施。最高速度 0〜400 0〜1000 各速度からの追い越し加速などを試験し、データを比較検討して車両性能に対する極限追及の資料を得た。この結果目標に対して実施すべき開発項目は

1.)エンジンの出力向上
 シリンダーヘッドの見直しにより まず静的空気量の増大をはかるべく 動弁系を含めて「吹かし運転」を実施、新設計のペントルーフ型燃焼室の開発。カムは再度バルブリフトと作用角の両面から究明してみた。エンジンの高速化に伴う問題としてダンパープーリーの弛み オイルポンプのボルト折損 スライドバルブコントロールリンクの折損を対策。

2.)車両重量の軽減
 4DrGT‐Rデビュー以来未だ公認重量の10%を確保できていないため 思い切った軽減を実施。オイルタンクも消費量を計算してアルミ製の小型のものを作った。

3.)空気抵抗の低減と空力特性の向上(スポイラーの開発)

空気抵抗については過去に実施した風洞実験データを再度検討し効果的なものについて規則とにらみ合わせて開発を進める。空力特性についてはあらためてHT GT‐Rの風洞実験を実施。抗力:8.5% 揚力:18%も4DrGT‐Rより良くなっている。しかし揚力をフロントとリヤに分けるとHT GT‐Rのフロント揚力は4DrGT‐Rより大きい事がわかり フロントスポイラーの開発に着手する。これにより実際目に見えたタイムアップは出なかったが富士6kmコースをコンスタントに2分03秒で走行できるようになった。


フロントスポイラー装着初レース時の映像

タイヤはマグ製ホイルフロント:8.5J リヤ:11.0Jが完成しタイヤのワイド化された新製品が組み込まれた。BSはスリックを新開発し日本GPでよかったCR92を上回る性能を発揮した。

12月12日 富士ツーリストトロフィー500マイルレース 前日の10日に高橋の手によりBS製スリックを耐久レース用に改造し 2分00秒4を出す。

133週500マイルを走破、次第に成熟しつつあるロータリーパワーの存在を無視出来なくなってきたこ のレース、結果 サバンナRX‐3が優勝。プライベートGT‐Rが3位に入賞。ファクトリーGT‐Rは3台出場し 1周目に高橋がコースアウト、残り1台は38ラップ、他の1台は97ラップで従来無かったつまらぬトラブルでリタイヤしてしまった。50勝目を狙ったレースだけに3台とも姿を消す結果に関係者のショックは大きかった。

=‘72 5月の日本GPに向け左回り4.3kmコースの攻略開発開始=

1.)エンジンの出力向上:昨年実施した開発実験で見通しが明るい、シリンダーヘッド、カムシャフト、ピストンなどを中心に開発達成をはかった。

2.)車両重量の軽減:4.3km左回りコースは重量の影響が大きいので、ぜひとも公認重量10%は達成しなければならない。

3.)安全燃料タンクの採用:‘727月からレギュレーションにより安全燃料タンクの使用義務付けがありファクトリーとしては率先して使用着用を進めた。

4.)ブレーキ性能の向上:6kmコースの場合より高性能が要求され冷却効果が高いベンチレーレッドディスクブレーキの開発を進めた。短期間ではあるが出来ればリヤにもディスクブレーキを採用できるよう開発を進めた。

5.)加速レスポンスの向上:コーナーからの立ち上がりを良くするために回転部分の完成モーメントについて全体的に見直しを実施し、必要なものは新設計を実施した。

6.)ギア比の検討 7.)足回りの検討 などは特に短距離レースであることを考慮しかいはつが着々と進められた。

S20:レスポンスアップの為フライホイル軽量加工 カムシャフトプロフィール変更で更に高回転化
結果 最高出力:253PS/8.500rpm 最大トルク:21.94kg-m/6.800rpm 

=1972(S47)=------------------------------------------------------------

3月20日 富士300キロレース <スーパーTSレース> 通算50勝を達成、総合1位高橋 2位久保田 3・4位セリカ蟹江 久木留
       5位岡本RX−3 6位→デビューレースより2年10ヶ月 1位高橋2位以下1ラップ 2位久保田3位セリカに2分の大差となった

 富士6kmラップタイムは高橋国光2分00秒41(平均時速179.387km/h)

豪雨の中 ストレートでふらついている他車の間を強引に突っ走るHT GT‐Rの雄姿を見ると 今更ながら操縦安定性の良い車であると我ながら感心した。レースでの開発熟成の成果を再確認できた。2位以降をすべて1周遅れにした。

この時スカイラインは月販9.000台を超えていた


対ロータリー対策へのマシン開発が熾烈を極めたのはここから

5月の日本GPに向けて新しいオーバーフェンダーもこれまで以上に空気抵抗を小さくするものが完成し その準備も佳境に入った。

・車両とエンジンについて全般的に見直した。足回りの見直しでは不等ピッチのコイルスプリングを試作して走行テストを繰り返し、ようやく固まってきた。

S20型とL24型エンジン搭載車の性能比較
最高出力(ps/rpm) 最大トルク(kg-m/rpm) 車両重量K(kg) 最終ギアレシオ ラップタイム
S20型エンジン搭載車 253/8.500 21.94/6.800 1.020 4.875 2分02秒37
L24型エンジン搭載車 236/7.000 24.70/6.800 1.000 4.111 2分03秒62

※L24型エンジンは最高出力回転数と最大トルク回転数が近く、高速トルク発生型であるのに対し S20型エンジンは中速トルク発生型。

ファイナルギアレシオを考慮した駆動力から判断すると、中速域ではS20型が有利となり、コーナーでの立ち上がりも速い。ストレートでも最高出力差が現れてS20型が有利。L24型の今後の開発計画によると260馬力を目標としており 実現すれば最大出力ではS20型より有利となるが、S20型エンジンも燃焼室改良などによりまだまだ余地を残している。L24型エンジンが必ずしも現時点では優位とは言えないという結果となった。

スカイラインGT‐Rと同様にS20型エンジンを搭載していたフェアレディZ432はL24型エンジンに切り替えてフェアレディ240Zとなる。

S20型排気量アップ構想
この頃ロータリーはM12A型でレシプロ換算で2.292ccに相当する。L24型エンジンの事も有りS20型エンジンを容量増大した場合について検討。シリンダーブロックとヘッドはそのままとし シリンダーライナーの肉厚を薄くする事でボアアップし それに合わせてピストンを新製する計画を構想。2.2リッターエンジンが完成、台上試験結果は無調整で軽く270馬力が得られトルクカーブもフラットとなり非常に期待が持てるエンジンに仕上がる。吸排気のバルブ径増大し充填効率を上げる結果として馬力は上がるがトルクカーブの変動が大きくなり走りにくくなるエンジンになる。燃焼室改良により馬力が上がりトルクがフラットの性能が得られた。こうして得られたデータを組み込んで排気量は上げず燃焼室改良のみで性能向上すべくカムシャフトのオーバーラップとリフトを見直しインジェクションの燃圧変更で レスポンスの良いエンジンに仕上げる事が出来た。これによってコンスタントに260馬力が出るようになり 最高で264馬力が得られた。このエンジンを搭載したGT‐Rが72年10月富士マスターズ250キロのTSレース予選で黒沢が1分59秒70をマークする事が出来た。

※何故ボアアップエンジンS22型に着手しなかったか。
73年1月にGT‐Rも新しい “ケン・メリ”のボディとなったハードトップが登場した。車両寸法もひとまわり大きくなり レース向きのクルマとは言えずポテンシャルが高いものとは言えなかった。いつまでも旧型となったクルマでレースを続けるわけにいかない。世は自動車の排気ガスが大気汚染の元凶として社会問題となっておりレースどころではなくなっていたのも事実です。

71年4月25日 富士グランチャンピオンシリーズ第1戦 富士300キロで240Zは高橋国光によって すでに2分の壁を破っている。

4月9日 レースド・ニッポン6時間 TS-Vクラス 久保田/杉崎28位 優勝セリカ1600GT久木留/竹下

5月3日 ‘72 日本GP <TS bレース> 日産 VS マツダ →GT-R惨敗

 ポールポジション〜ロータリーサバンナRX‐3 富士ショートコース(平均時速168.407km/h)
 日産は‘72日本GPに備えていたがロータリー勢が圧倒、決勝はサバンナRX‐3が総合トリプルフィニッシュ GT‐Rは4,5,6位に留まる。
 クラス優勝では総合4位の高橋

GT-R:エンジン、車両全般見直し サス〜不等ピッチコイル ブリスターオーバーフェンダー 燃焼室排気側:ペントルーフ型 カムシャフト作用角 リフト改良 最高出力:264PS/8.400rpmを発揮

5月21日 ‘72全日本オートスポーツトロフィーレース<スーパーTSレース>
       屈辱を晴らすようにGT‐Rはトリプルフィニッシュを決めた。

6月4日 富士GC第2戦<スーパーTSレース> ポールポジション:黒沢GT‐Rが獲得。
      決勝:高橋GT‐Rが総合優勝

 このレースでリヤドラムからディスクに変更 その実力が発揮された(後継C110と同型)。
           

7月2日 日本オールスターレース <このレースは2ヒート制で行われた>
      1位:従野サバンナRX‐3 2位:黒沢GT‐R 3位:久保田GT‐R

8月16〜17日 富士テスト


ニッサンは村山からHT GT-Rを3台、チェリー2台 追浜から240Zを運び込んだ。
GT-Rにはブリスターオーバーフェンダーを付けていた。

8月20日 全日本鈴鹿300km自動車レース(プライベートGT‐R)
       このレースでは上位をサバンナが圧倒 5位にGT‐R入賞

9月3日 富士GC第3戦200マイルレース<スーパーTSレース> 日産 VS マツダ
      決勝:北野GT‐R が総合優勝 3位久保田 6位正谷 ロータリー及ばず →通算53勝

9月20日 ケンとメリーのスカイライン発表

10月 第19回東京モーターショーに「KPGC110レーシング仕様」出展

10月9日 富士GC第4戦マスターズ250km<スーパーTSレース> 

 予選では日産 VS マツダがヒート、富士6kmコース2分の壁を切った。

 黒沢GT‐Rが1分59秒70(平均時速180.451km/h)

 サバンナRX‐3は1分59秒35(平均時速180.980km/h)

 決勝:優勝はカペラロータリー これを最後にワークスGT‐Rはサーキットから姿を消した。

このあとのプライベーターの活躍

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1th 69年5月3日‘69JAFグランプリTSレース
前日の予選結果からもGT‐Rとトヨタ1600GTの実力は肉迫していた。そしてスタートの瞬間ハイクロスギアを採用するGT‐Rは立ち遅れ、レース終盤まで大きなハンディをしょってしまう事となった。激烈なブロック合戦の末トヨタ1600GTが先にチェッカーを受けたが 公式結果は1位篠原、2位萩原、そしてペナルティをとられた高橋トヨタ1600GTの順になった。
2th 69年6月29日 富士300kmゴールデンシリーズU セダンレース
豪雨の富士スピードウェイにおいてポールポジションを2分12秒84で得た黒沢元治がスタートtoフィニッシュで優勝を飾った。とは言え1周目のヘアピンで3回転もする大スピンを起こしながらの殊勲であった。
3th 69年8月10日 NETスピードカップ ツーリングスペシャルレース
2分14秒42でポールポジションを獲得した都平は2分15秒台でラップを重ね20周を45分25秒61(平均158.496km)で走りきってチェッカー・ド・フラッグを受けた。
4th 69年8月24日‘69ニッサンサンデーレース
PMCS、NDC‐東京、SCCNの日産系3クラブが主催するこのレースは 右回り6kmコースで行われた。結果は20周を46分44秒で走りきった千代間が1位、5位までをすべてGT‐Rが締めた。
5th 69年8月31日 富士300kmゴールデンシリーズV セダンレース
スタートからトップグループを編成したGT‐R3車、すなわち千代間、篠原、長村はラップごとにトヨタ1600GT勢に水をあけリードを保った。そしてファイナルラップ、バンク直前で篠原から奪った長村が0.46秒と言う差でウィナーとなる。
6th 69年9月21日 第12回全日本ストックカー 富士300kmレース(TS)
この選手権はツーリングカーとスポーツカーに区分されているが、この時に限り両部門混合レースというかたちがとられた。直線部にシケインを設けた左回り4.3kmコース。勿論チュードルのカレラ6、ロータス47GTは速かったが都平の駆るGT‐Rは総合3位、T‐Uクラス1位を得た。言うまでも無くすべてのフェアレディを破っての事だ。
7th 69年10月10日‘69日本グランプリTSレース
ポールポジションは2分10秒08(約166km/h)を出した寺西孝利。当時としては驚異的なツーリングカーのタイムでありGT‐Rの潜在力をまざまざと見せ付けた。そして寺西、歳森、鈴木とダンゴになってチェッカーを受け上位8位までを独占するといった快挙を成し遂げたのである。
8th 69年10月19日富士ツーリストトロフィ−レース
給油作戦が明暗を分けたレースであった。800kmにおよぶ長丁場はファイナルラップの逆転劇で幕を閉じたのである。すなわち箕輪/R.レイガン組がガス欠に陥った隙に篠原/長村組のGT‐Rが抜き去り 133周を5時間17分52秒95で走りきって優勝した。
9th 69年11月3日 富士300kmゴールデンシリーズY セダンレース
富士名物の霧がコース全体をおおい 結果的には16周という短い距離で競われる事になった。無論20周のレースであったが厳しい状況をいち早く悟った浅岡競技長のチェッカーは16周を37分38秒53で走った千代間選手に振り下ろされたのだった。
10th 69年11月3日 ‘69全日本鈴鹿自動車レース(TS)
プラクティスの結果 都平健二の駆る燃料噴射装置付きGT‐Rは2分33秒4をマーク。グリッド最前列からスタートして、快調に飛ばし ロータス47GTやフェアレディ2000群を抑えてウィナーとなる。このレースで都平は‘69全日本選手権T‐Uクラスのチャンピオンに確定した。
11th 69年12月14日 富士100kmロードレース(TS)
富士スピードウェイ左回り4.3kmコースを舞台に 寒風をついてホットなレースを繰り広げた。ポールポジションは1分42秒94を出した箕輪真治。多くのフェアレディ群を尻目にトップを走ったが ミッショントラブルで16周目にリタイア。結果はGTSUクラス・総合1位は桜井一が得たが テーツーノーズの大接戦の末 長村選手がTSUクラス ウィンをもぎ取った。
12th 70年1月15日 富士フレッシュマンT MAXI(TS)
小雪模様の富士スピードウェイで予選2位を得た久保田は多くのフェアレディ群の中で孤軍奮闘し TS部門を制した。
13th 70年1月15日 全日本鈴鹿300kmレース(TS)
フェアレディZ432をはじめフォードGT40 ポルシェ908、910など豊富な車種が競うこのレースはツーリングカーにとって決して楽なものではない。だが ゼッケン16番高橋国光の操るGT‐Rはポルシェ908、910に次ぐ総合3位 無論クラス優勝という快挙を成し遂げたのだ。
14th 70年3月8日 ‘70全日本鈴鹿自動車レース(TS)
ゼッケン79番高橋のGT‐Rは 巧みなカウンターステアを用いて意のままに駆り総合4位、ツーリングカー部門を制した。この日の高橋のドライブはパーフェクトに近く最終コーナーでの4輪ドリフトには観客も大きくどよめいたほど。
15th 70年3月15日 富士フレッシュマンU MAXI(TS)
スターティンググリッド最前列は3台のGT‐Rによって占められた。ポールポジションの久保田 そして杉崎、星野の順である。激しく争った末 久保田が杉崎を抑え切り約1秒の差をつけてチェッカーを受けた。
16th 70年3月22日 第13回全日本ストックカー 富士300kmレース(TS)
予想通り1分38秒90(平均156km/h)でポールポジションを獲得した高橋(国)はローリングスタート後、他車をジリジリと引き離し快走に次ぐ快走を続けてウィナーとなった。
17th 70年4月5日 全日本鈴鹿500km自動車レース(T)
陽春の鈴鹿を彩る “耐久シリーズ第1戦”は様々なドラマに湧いた。新旧多彩なドライバーとマシン 相次ぐトラブルを尻目にGT‐Rを駆る箕輪は健闘し総合5位暮らす優勝をした。
18th 70年4月12日 レース・ド・ニッポン6時間(TS)
SCCN主催のこのレースは富士スピードウェイ6kmコースのフルコースで戦われた。北野/長谷見のZ432が総合優勝。横山/寺西のZ432とデッドヒートを演じた黒沢/砂子組のGT‐RがTS‐Vクラスウィン、総合2位を獲ちえたのだ。そして2位も高橋/都平のGT‐Rであった。
19th 70年5月3日 70JAFグランプリTSレース
レースに賭けるメーカーの意気込みはすさまじく 常勝スカイラインGT‐Rにファミリアロータリークーペが戦いを挑み事実上 日産と東洋工業の一騎打ちといったかたちになった。トリオで隊列を組むGT‐R勢に果敢な戦いを挑むロータリー。この両車の対決は最終ラップまで続き 結局ポールポジションから飛び出した黒沢のGT‐Rが最初のチェッカーを受けた。
20th 70年5月17日 富士フレッシュマンV MAXI(TS)
新人の登竜門イベントとして人気を集めているこのレースは小雨煙る富士スピードウェイの左回り4.3kmで行われた。ポールポジションからスタートした塩谷は濡れた路面、スピンにもめげずTSクラスの勝利をものにした。
21th 70年5月24日 全日本鈴鹿1000kmレース(TS)
鈴鹿耐久シリーズ第2戦のこのレースでまたしてもGT‐Rは快走を続け総合2位、T‐Uクラスウィンを得た。そしてプライベートGT‐Rの速さを見せつけたレースでもあった。
22th 70年6月7日 ‘70全日本富士300マイルレース 100マイルB
1300cc以上のTS‐15台、GTS9台で争われたこのレースは最後尾からスタートした長谷見GT‐Rの圧勝に終わった。前日のプラグラクティスで2分10秒26をたたき出し ポールポジションを獲得したが直後100Rで転倒、車両交換の許可を受けなければならなかったのである。長谷見のテクニックを存分に堪能させてくれたレースであった。
23th 70年6月28日 第12回全日本クラブマンレース
筑波サーキットのオープニングレースとして行われたこのイベントは和気藹々とした中で開催された。2ヒート制のこのレースは第1ヒート 2位、第2ヒート 1位の星野が総合優勝した。
24th 70年7月5日 北海道スピードウェイオープニングレース
スポーツマンレースはR380を駆る高橋と砂子のリードで始まり、歳森Zを須田と辻本のGT‐Rが追うスタイルで終始した。トップから4ラップ遅れの56周を1時間09分28秒87で走りきってTSクラス優勝を得た。
25th 70年7月12日 ‘70全日本ドライバー選手権
第4戦<筑波大会>はNAC主催で筑波サーキットで開催された。またこの1戦でチャンピオンが確定するとあって壮烈なデッドヒートが演じられたのだ。高橋、都平のファクトリーGT‐Rはランデブー走行を続け 優勝と同時にT‐2クラスチャンピオンに高橋が確定した。
26th 70年7月19日 ‘70ニッサンサンデーレース(TS)
深い霧に視界を妨げられて最悪のコンディションで行われたこのレースは Z、SR群にGT‐Rが割って入り総合3位、TS‐Vクラス1位を久保田が勝ち取った。
27th 70年7月26日 ‘70全日本富士1000kmレース (TS)
30℃を越す猛暑の中240Zとデッドヒートを繰り広げたGT‐Rは砂子/長谷見組の手で総合2位 無論TS‐Vクラスウィンをもぎとった。一時はトップにも立つ勢いを見せたが、240Z初陣を飾らせるべく高橋の力走は続き225周目にトップに躍り出たのであった。
28th 70年8月23日 全日本鈴鹿12時間自動車レース
50台のマシンによって争われたこのレースは火災事故に彩られた文字通り波乱万丈の耐久レースであった。田中/矢吹組のニットラAC7が2分35秒台のハイペースで追う高橋/都平組のGT‐Rをかろうじて振り切って総合優勝。GT‐RはT部門優勝。GT‐Rの実力を存分に発揮したイベントであった。
29th 70年8月23日 富士フレッシュマンW MAXI
プラクティスで圧倒的な強さを見せたZ432をかきわけるようしてGT‐Rがリードを奪い、久保田はペースを上げてゴールを迎えた。ちなみに優勝した久保田のタイムは21分18秒72だった。
30th 70年9月6日 富士インターナショナル・ゴールデン100マイルB
3台のフューエルインジェクション付きスカイラインGT‐Rに乗る杉崎、千代間、久保田は圧倒的に速く 最前列から好スタートを切り 鮮やかな1、2、3フィニッシュを演じた。まさにスカイライントリオの快挙というべきレースでもあった。
31th 70年9月27日 富士フレッシュマンX MAXI(TS)
GTSクラスのフェアレディZ432と混合で争われるこのレースは決してGT‐Rにとって有利なものではない。だが 久保田の駆るGT‐Rは健闘良く2台のZ432に次ぐ総合3位を獲得、同時にこのシーズンのMAXIチャンピオンをも手中に収めた。
32th 70年10月10日 日本オールスター・シルバーレース
佐藤敏彦メカニックに哀悼の意を表してマシンを引き上げた日産契約ドライバー7人の出場辞退と言う事で2分11秒68を出した杉崎がポールポジションとなり、スタートツーフィニッシュを演じて見事な優勝を飾った。
33th 70年11月3日 ‘70全日本鈴鹿自動車レース
ニュータイヤとテールスポイラーを装着をした高橋のスカイラインGT‐Rは2分3秒台のハイペースを保って独走体制をとり パーフェクト選手権制覇をやってのけた。無論史上初の快挙であった。
34th 70年11月3日 第5回富士ツーリスト・トロフィー・レース
ツーリングカーの祭典と言うべきこのレースは ツーリングカー及び特殊ツーリングカーのカテゴリーによるもの。出場マシンはサニーからGT‐Rまでの59台。ファクトリーGT‐Rが本命視されていたが予想通り北野/長谷見組のGT‐R」が耐久レースを短距離レース並のラップスピードで席巻し優勝した。
35th 70年11月15日 富士フレッシュマンZ MAXI
この年の最後のフレッシュマンレースは小雨がパラつくなかでスタートが切られた。久保田、星野、塩谷のスカイライントリオが一団となって走り トップの久保田は2位の星野に300mもの差をつけて優勝。同時にチャンピオンを確定した。
36th 71年1月10日 ‘71全日本鈴鹿300キロレース
71年シーズンの開幕を告げるこのレースはNRCの主催。そして “鈴鹿ビッグ・レース・シリーズ”の第1戦でもある。ルマン式スタートで熱戦の火蓋は切られ、北野240Zを長谷見、都平、久保田らのGT‐Rが追うかたちになった。結果は総合2位、Tクラスウィンを長谷見が獲得した。
37th 71年3月7日 全日本鈴鹿自動車レース(TS)
小雪のちらつく肌寒い鈴鹿を舞台に繰り広げられた、このイベントはスカイライン・ハードトップの実践初参加という記憶すべきレースでもある。結果は北野、高橋のワークス240ZとZ432、ポルシェ910に次ぐ総合5位、TSクラスを黒沢が制した。
38th 71年3月21日 ‘71全日本ドライバー選手権V
新鋭スカイラインハードトップ勢が前2列を占め、圧倒的な速さを示して上位4位までGT‐Rが独占してしまった。ウィナーは長谷見 2位から高橋、久保田、正谷の順であった。
39th 71年4月11日 ‘71レース・ド・ニッポン6時間(TS)
決勝レースにのぞむ44台のうち上位6位までがすべて240ZとGT‐R勢によって占められた。結果はワークス240Zのワンツーフィニッシュ。GT‐R勢も大活躍をみせて3・4位を得た。無論クラスウィンは歳森/星野組GT‐R・HT。
40th 71年4月25日 ‘71富士グランチャンピオンシリーズT(TS)
久保田の駆るGT‐R・HTはポールポジションからハイペースで飛ばし快進撃を続けた末 優勝のチェッカードフラッグをうけた。向かうところ敵無しと言ったGT‐Rの姿にはツーリングカーの王者としての風格がにじみ出ていたのもこの頃である。
41th 71年5月3日 ‘71日本グランプリTSレース
2分02秒25という驚異的なタイムをたたきだしてポールポジションを握った高橋はレースでも長谷見とランデブー走行を演じ、ワークスGT‐R・HTの速さをまざまざと見せ付けた。ウィナー高橋は平均170.987km/hというスピードでラップを重ねたのだ。
42th 71年5月16日 ‘71富士フレッシュマンレースV MAXI(TS)
9周目 トップを走る山本フェアレディZがディストリビュータのトラブルで退いたあと、正谷栄邦の駆るGT‐Rは快調にラップを重ね、2位に800mもの大差をつけてウィナーとなった。
43th 71年5月23日 ニッサンオールスターシリーズT
日産車ユーザーを対象としたこのイベントは年間3戦のシーリーズ戦。第1戦にあたるこのレースはPMCSの主催。河原伸光のGT‐Rが20周を43分45秒2(平均164.57km/h)で走りきって優勝した。
44th 71年6月6日 富士グラン300マイルレース(TS)
コースはほとんど水びたし 雨をついてのスタートであった。注目された片山カペラロータリーもまだ足が決まらず スカイラインの敵とはなり得なかった。またもワークススカイラインの独走に終わり、黒沢、高橋GT‐Rのワンツーフィニッシュでゴールイン。
45th 71年7月17日 ストックカー筑波100キロレース(選手権Y)
長谷見50秒16、都平50秒45はストックカーのタイムを上まわるもので レースは北野240Zがつぶれたあと 長谷見が1位の座をキープして70周を走りきった。
46th 71年7月18日 ‘71ニッサンオールスターシリーズU
プライベートスカイラインGT‐R勢のトップレベルにランクされる久保田があぶなげない走りで優勝を飾った。
47th 71年8月22日 鈴鹿グレート20ドライバーレース
このレースは国内にいて鈴鹿を2分20秒台で走れるマシンを持つドライバーによって競われる画期的なもの。長谷見・黒沢のワークスGT‐R・HTも2分27秒台を記録、Tクラスのトップだ。ウィナーはローラT212の高原、黒沢は総合7位、クラスウィンをものにした。
48th 71年9月4日 富士グランチャンピオンシリーズW(TS)
ロータリー勢の台頭に立ち向かうべくワークススカイラインを持ち込んだこのレースは中盤にはいろうとする頃Sベントでアクシデントを起こして戦列を去った岡本カペラによってGT‐R・HTの独壇場と化した。そして1位は久保田、2位長谷見、3位北野という結果となった。
49th 71年10月10日 富士グランチャンピオンシリーズX(TS)
新鋭サバンナを擁するマツダ勢をまたも叩きのめした日産ワークス。予選では高橋が2分01秒62をマーク、本番ではドライタイヤを使う黒沢がオールウェザータイヤの高橋をおさえウィナーになった。
50th 72年3月20日 ‘72富士グランチャンピオンシリーズT(TS)
瞬間最大風速18m/SECの強風と加えて雨、まさに嵐の中で行われたこのレースは いみじくもスカイラインが50勝の記録を達成した記憶すべきレースでもあった。プラクティスで2分00秒41(平均180km/h)をマーク、それは高橋国光の というよりはGT‐R自身のベストタイムでもあった。そして全コース水溜りと化した最悪のコンディションのなかで ゼッケン15番、高橋のスカイラインHT・GT‐Rは1台残らず周回遅れに蹴散らしてチェッカードフラッグをかいくぐったのである。


=青地さん著のエンディング=

スカイラインGT-R 全戦績


  榊原雄二      増田哲三     中川良一     田中次郎      青地康雄     桜井真一郎

 暦年  基本型式  国内生産台数 累計台数  備考
 1968  C10  41.578 S50型は1968年8月まで
 1969  71.187  112.765
 1970  96.588  209.353
 1971  117.570  326.923
 1972  C110  132.963  459.886 C10型は1972年9月まで

※‘71 KPGC10シャシ番 000021〜000702 : 681台

‘72 KPGC10シャシ番 001011〜001525 : 514台 計)1.195台


これまでの開発行程を見ればワークスGT‐Rは市販GT‐Rベースと言うのは名ばかりで 特にS20型エンジンはまったく別物で

あることが分る、アレだけの台数を投入しながら完全なるワークスマシンが1台も残っていないのが不思議だったが 当時の車体やそれに

使われていたパーツは若干現存するようだが 肝心のワークスエンジンが載ったマシンは現存しないようだ。青地さんの証言によれば

“技術の流出を恐れすべて潰してしまった ”そうだ。となると#52セミワークス正谷号が唯一それに近い車両として現存するのみのようだ。


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補足:日産ワークス活動体制

日産第3実験課⇒特殊車両部第1実験課〜ラリー専門
プリンスのレース部隊⇒第2実験課として日産レース部門

第2実験課の実体は村山にあった元プリンス自動車の工場を拠点とする。
追浜の特殊車両部の所属という扱いで、村山ワークスと呼ばれることは殆どなくて、あくまで追浜ワークスと呼ばれていた。

追浜ワークス(村山ワークス)

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

追浜ワークス(おっぱまわーくす)とは、1960〜70年代の日産自動車のワークス・チームのうち、横須賀市の追浜工場内にある日産の総合研究所配下のチーム、また同チームと契約を結んでいたドライバー達のことを指す。

概要 :1963年に同社内に実験部第3実験課が創設されたのを「追浜ワークス」の実質的な起源とするのがメディアでは一般的である。初代課長(実質的な監督)には、1958年にオーストラリア・モービルガス・トライアルで日産がクラス優勝を飾った時のドライバーである難波靖治が就任した。

さらに1966年には日産がプリンス自動車と合併したために組織改編が行われ、それまでの日産側のチームが「特殊車両部第1実験課」と名称を改めラリー活動に専念することになり、サーキットレース用の車両については旧プリンス側のチームである「特殊車両部第2実験課」が担当することとなった。旧プリンス側の部隊については、本拠地は追浜ではなくプリンスの村山工場内に置かれていたが、当時メディアではこれら特殊車両部全体を指して「追浜ワークス」と称していた。

第2実験課は日本グランプリ参戦用の車としてR380〜R383に至るプロトタイプカーの開発を担当。一方で第1実験課はサファリラリー等の国際ラリーに出場する車の開発を担当していた。いずれにしても日産社内では「一軍」としての扱いであった。

1970年には「排ガス対策の開発に集中するため」という理由から日産本社が日本グランプリへの参加を取りやめたため、第2実験課がそれまで二軍の大森ワークスが担当していたツーリングカーの開発にシフト。スカイライン2000GT-RやフェアレディZの圧倒的な強さに貢献するが、1974年にオイルショックの影響から日産がツーリングカーレースへの参戦を取りやめると、第2実験課は実質的な活動を停止。

1970年代後半には、日産社内のモータースポーツ関連の予算が大幅に削減されたため、村山の第2実験課が解散し、追浜の第1実験課に機能が統合された。しかし第1実験課によるラリー活動は続けられ、1979年から1982年にかけてはサファリラリーで総合4連覇を達成している。

1980年代に入ると景気が回復したため、追浜もスカイラインターボCに代表されるシルエットフォーミュラの開発など、サーキットレース用の車両開発を徐々に再開。しかし1984年に大森ワークスをベースにNISMOが設立され日産のモータースポーツ活動を全てNISMOに集約することとなったことから、追浜ワークスは消滅した。

主な所属ドライバー
田中健二郎 - 1965年〜1967年まで在籍。1969年にタキ・レーシングに移籍。2007年死去
高橋国光 - 1965年〜1974年に追浜ワークスが正式に活動を停止するまでプライベートチームとの並行活動
北野元 - 1965年〜1974年に追浜ワークスが正式に活動停止をするまでプライベートチームとの並行活動
黒沢元治 - 大森ワークスから1968年昇格、1972年末でニッサンを辞めてヒーローズレーシングへ移籍
都平健二 - 大森ワークスから1969年昇格、1974年の正式な活動停止までプライベートチームとの並行活動
長谷見昌弘 - 大森ワークス〜タキ・レーシングを経て1970年に加入。以後1974年までプライベートチームと並行しての活動
砂子義一 - プリンス自動車との合併後加入。1971年まで活動し、以後はマネジメントにまわる
横山達 - プリンス自動車との合併後加入。1970年まで活動。後にニッサン系の自動車工場スクーデリアニッサンを主宰。1998年死去
大石秀夫 - プリンス自動車との合併後加入。1970年まで所属。その後黒沢レーシングに移籍し1972年まで活動。 故人

大森ワークス

大森ワークス(おおもりワークス)とは、1960〜70年代の日産自動車のワークス・チームのうち、当時東京・大森にあった日産の宣伝部第4課配下のチーム、また同チームと契約を結んでいたドライバー達のことを指す。

日産のもう一つのワークスである追浜ワークスが主にプロトタイプカーの開発を担当し、日産社内においても主力(一軍)扱いだったのに対し、大森ワークスでは主にツーリングカーの開発を担当したため、社内でも二軍として扱われていた。

大森ワークスの契約ドライバーは主にブルーバード・スカイライン・サニー・チェリーなどをベースにレース用に改造を行った車を駆ってレースに出場した。またレースやテストのない日は大森の「モータースポーツ相談室」の相談員として、交代でアマチュアドライバー達からの相談を受け付けたりレース用パーツの販売を行ったりもした。

華やかに語られることが多い追浜ワークスに比べて大森ワークスには地味な印象があり「二軍」呼ばわりされる一方、鈴木誠一に代表されるような「乗るだけではなくマシン作りができる」ドライバーが在籍していたことも事実で(逆に言うと追浜ワークス組は「乗るだけ」)、日本のモータースポーツ発展を支えた優秀な人材を輩出しているという面もある。

1970年に日本グランプリの開催が中止されたのを機に追浜ワークスがツーリングカーの活動も行うようになると、大森ワークスの活動は縮小され、オイルショック後の1974年に日産がツーリングカーレースへの参戦を中止すると契約ドライバーは次々と独立した。ただその後も大森ワークスではレース用パーツの開発・供給が細々と続けられ、後のNISMO設立へとつながっていった。

主な所属ドライバー
鈴木誠一 - 1965年に加入し、リーダー的存在になる。1968年以降は、自身が興した東名自動車(現・東名パワード)と掛け持ちだった。1974年6月の富士GCの多重クラッシュに巻き込まれ、37歳で事故死。
黒澤元治 - 1965年加入。1968年に追浜ワークスに昇格。
都平健二 - 1965年加入。1969年に追浜ワークスに昇格。
長谷見昌弘 - 1965年加入。1967年まで在籍したが、1968年と1969年はプライベーターのタキレーシングで活動。1970年に追浜ワークスに復帰。
津々見友彦 - 1965年加入。
寺西孝利 - 1968年に加入。チームの中では鈴木誠一と並んでリーダー的存在だった。1978年に引退。
須田祐弘 - 1968年ごろから正式に加入。1974年まで主にストックカーレースに参戦。PMC・S事務局長との掛け持ちだった。1974年正式引退。
田村三夫 - 元2輪ライダー。1968年トヨタから移籍。1974年まで主にストックカーレースに参戦。
歳森康師 - 1969年にスカウトされる。1974年まで所属。1975年1月に目を負傷し引退。
星野一義 - 1969年のテストで合格し加入。以後組織変更で大森ワークスからNISMOに変わった後も所属。
本橋明泰 - 元ヤマハ発動機所属の2輪世界GPライダー。1969年、星野とともにテストに合格し加入。GT-R54勝(うち49連勝)のうち1勝している。1970年引退。
辻本征一郎 - 加入年不明。主にツーリングカーで活動。現在ニッサンレーシングスクール校長。


大森宣伝部所属ドライバーと共に



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マツダ系公式記録 サバンナRX−3

1972年

5月3日:72日本グランプリTS-bレース
RX3で出場し、1〜3位まで表彰台を独占しワーク スGTRを撃破する。マツダは、ワークスチームとしてMMS(マツダ モータスポーツ)を結成した最初の参戦。片山は、ポールtoフィニッシュで優勝。(1位片山RX3/2位武智カペラ/3位従野RX3)

9月3日 :富士GCシリーズ富士インタ―200マイルレーススーパーツーリングTCクラス
片山マツダから従野が参戦し予選1位/決勝4位を獲得。優勝は、日産ワークスGTRの北野。この従野のマシンは、リアの板バネを1枚にしてリアアクスルをリンクで支えワットリンクを追加したサスペンションを持つ。(カペラの5リンクサスペンションのパーツを流用)当時の富士の6kmコースは、30度バンクがありバンクでの操安性は、カペラのほうが優れていた。TS規定では、サスペンション形式の変更は不可能なので板バネを単にバネのみとして使用。ヨーロッパツーリング選手権のチャンピオンマシンのフォードカプリも同様な足回りを採用。(カプリの場合、バネはコイルバネを使用してダミの板バネをFRPで成型して使用)レースでは、従野のマシンのガソリンタンク変形が発生しガス欠状況が発生して後半スローダウン。このトラブル発生前までは、日産ワークスGTRの北野とデッドヒートを繰り返した。

10月18日 :富士GCシリーズ TSクラス
MMSから参戦。予選でツーリングカーとして富士の6kmコースで初めて2分の壁を破る。従野がPP獲得、日産ワークスGTRの黒沢も2分の壁を切る。(予選:1位従野RX3/2位黒沢GTR/3位片山RX3の3名が2分の壁を破る)日産ワークスGTRとの死闘のすえ表彰台を確保(優勝は、増田のカペラ)以降日産ワークスGTRは、TSレースから引退。

1973年
TS規定が変更となり、最低50台の生産でシリンダヘッド交換(OHCをDOHCへの変更)が認可された。これに伴い、REはペリフェラリポートの使用が認可される。マツダは、12Aのスポーツキットにペリフェラリポートを追加市販を実施。

1月14日 :全日本鈴鹿新春300kmレース II部門
片山マツダから従野が参戦し総合優勝を獲得。このレースでは、日産ワークスのフェアレディ240Zの北野と戦う。

7月29日 :富士1000kmレース
MMSから2台参戦。雨の中片山/岡本組が総合2位/クラス優勝を獲得。総合優勝は、RクラスのセリカLBターボ
KPGC10‐R:TS‐Vクラス優勝 総合5位 正谷栄邦/久保田洋史 240ZRクラス3位 総合7位 鈴木/歳森 TS‐Vクラス2位 総合11位 窪寺/杉崎

11月4日 :富士TT500マイル
片山マツダとマツダオート東京が参戦。ヨーロッパツーリングカー選手権のチャンピオンのワークスフォードカプリRS2台と対戦し、マツダオート東京(MSCC)からエントリの森部/河野組が総合2位に終わる。総合優勝は、Jマス/DグレムザのワークスカプリRS。この2位は、国産車で最上位であった。

1974年
TS規定が改定され、FIAのグループIIとほぼ同等の規定となった。市販車のイメージを残すためフロントグリルの改造が禁止。(ヘッドライトの装着が義務化)

3月24日 :富士ツーリングチャンピオンレース
宮口が優勝。この年からスーパーツーリングは、GTSのフェアレディ240Zと混走で同一クラスとなる。

6月2日: 富士GCシリーズ第2戦富士グラン200km スーパーツーリング&GTレース
片山が優勝。富士ツーリングチャンピオンと同じくGTSのフェアレディ240Zと混走で同一クラスとなる。スーパーツーリング&GTレースは、第2戦から開催(第1戦は、休止)

1976年:
2月(?) :ナイトスポーツがデイトナ24時間レースに参戦するがリタイヤ。

5月3日 :JAFグランプリTS/GTS-Bレース
片山マツダの片山が参戦し優勝を獲得。サバンナのレース参戦通算100勝を達成。

7月
片山レーシング設立。このとき片山義美専用にRX3の新車を製造。今まで片山マツダで片山が使用していたRX3は、足掛け約6年間使用されていた。

7月4日 :鈴鹿ビッグジョントロフィレース TS/GTS-II部門
片山レーシングの片山が優勝。新車のデビュウレースでポール to フィニッシュを達成。従野のRX3での最終レース(2位入賞)


1972年5月に開催された「日本GP」でハコスカGT-Rを破り、1位から3位を独占した。その後、1978年までに100勝を達成している。

 To be continued.



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