=Wikipediaより= 変わりネタのみ抜粋
TOYOTA 2000GT
1967年から1970年までトヨタブランドで生産された、スポーツカーである。型式は「MF10」と「MF10L」。
SOHCエンジンの2300ccモデル(後述参照)が北米市場向けに限りわずか9台が製造されたが諸事情により市販されず。
2300ccエンジン搭載車
2300GT・MF12L 直列6気筒SOHC 2,253 cc エンジンを搭載したモデルも試作されているが市販に至らなかったため、正式通称名は発表されておらず不明である。市販された2000ccモデルと区別するため、雑誌やマニアなどが2300GTと称しているが正式名ではない。
現在トヨタ自動車で保有し展示されている(後述)車輌がTOYOTA2000GT輸出仕様となっていることや取り付けられているエンブレムが2000GTとなっていることなどから、2000GTという名の2,300 cc モデル、つまり「2000GT」としてDOHC2,000 cc とSOHC2,300 cc の2つのモデルでの併売を計画していたとも考えられる。
エンジンは当時北米向輸出仕様のクラウンに搭載されていた2M型を基本にソレックスツインチョークキャブレターを3連装した2M-B型エンジンを搭載している。型式はMF12Lで、諸説あるがMF12L-100001からMF12L-100009までの計9台の車台番号の物が試作されたとされており、このうちMF12L-100002はトヨタ自動車で保有し東京都江東区のMEGAWEB(メガウェブ)ヒストリーガレージに展示されている、またMF12L-100006はToyota USA Automobile Museumに展示されている。この開発は、ヤマハ発動機がトヨタ自動車に対して提案する形で進められ、生産された全ての車両が左ハンドル仕様で、アメリカ市場向けの廉価版として本格生産も考えられたようであるが、結局市販には至らなかった。
生産台数 赤字生産が続き、イメージリーダーカーとして充分な役割を果たしたとの判断から、1970年で生産は終了した。1967年5月から1970年8月までの3年3か月で試作車を含め、337台が生産された。
種類 前期型 後期型 合計 日本向け 110台 108台 218台 国外向け 102台 特殊用途車 12台 2台 14台 試作・テスト用 2台 不明 1台 2300ccエンジン搭載車は(2M-B型・2253cc)9台試作されたが、生産台数の337台には含まれていない。ほかに、リトラクタブル・ヘッドライトが固定式ライトに変更されたモデルも試作されたが、市販されなかったため台数には含まれていない。
レースおよび記録 耐久レース 1966年5月の第三回日本グランプリで市販前のプロトタイプがレースデビュー。プロトタイプレーシングカーであるプリンス・R380二台に続く3位表彰台に登った。
グランツーリズモとして開発された2000GTは耐久で強さを発揮し、日本グランプリデビューの2カ月後に初開催された1966年の鈴鹿1000kmレースではワンツーフィニッシュを決め、初優勝を飾った。翌年も鈴鹿500kmレースで優勝、富士24時間レースではスポーツ800とともにデイトナフィニッシュする大成功を収めている。
1966 第三回日本グランプリ 1966 鈴鹿1000kmレース 1967 鈴鹿500kmレース 1967 富士24時間レース
アメリカでのレース参戦
1968 SCCAクラスCシリーズ
スピード・トライアル
スピードトライアル車両。チーム・トヨタの細谷四方洋によれば記録樹立車は行方不明で、現存するのか廃棄されたのかすら分からないという。 市販前年の1966年10月1日から10月4日には、茨城県筑波郡谷田部町(現・つくば市)の自動車高速試験場(現在の日本自動車研究所)で、プロトタイプが国際記録樹立のためのスピード・トライアルに挑戦した。主催はTMSCで、FIAとJAFが公認。競技長はTMSC会長の多賀弘明。
種目はスポーツ法典Eクラス(排気量1,500-2,000cc)の6時間、12時間、24時間、48時間、72時間(排気量無制限)、1,000マイル、2,000マイル、5,000マイル、10,000マイル(排気量無制限)、2,000km、5,000km、10,000km、15,000km(排気量無制限)の合計13カテゴリー。ドライバーは細谷四方洋/田村三夫/福澤幸雄/津々見友彦/鮒子田寛の5名が担当した。当時はポルシェ、クーパー、トライアンフなど、ヨーロッパのそうそうたる一流メーカーがこれらの記録を保有していた。樹立した記録は次のとおり。
スピード・トライアル記録 種目 平均速度 6時間 210.42km/h 12時間 208.79km/h 24時間 206.23km/h 48時間 203.80km/h 72時間 206.02km/h 1,000マイル 209.65km/h 2,000マイル 207.48km/h 5,000マイル 204.36km/h 10,000マイル 206.18km/h 2,000km 209.45km/h 5,000km 206.29km/h 10,000km 203.97km/h 15,000km 206.04km/h このトライアルは途中で台風に見舞われるなど、非常に過酷なものだった。また長時間に渡りエンジン全開状態が続き、油圧・潤滑周りへの負担が非常に大きくなる想定から、エンジンの潤滑をドライサンプ化しているほか、クラッチの材質変更なども行われている。トヨタはこの記録挑戦を宣伝広告に活用したが、1967年10月19日から10月30日モンツァ・サーキットにおけるポルシェ・911Rによるチャレンジにより大幅に破られている。
スピードトライアル
ちなみに、このトライアルの模様を撮影した記録映画『世界記録への挑戦 トヨタ2000GTスピードトライアル』(岩波映画)は、1966年度の日本産業映画コンクール(毎日新聞社主催)で大賞を受賞しているほか、2009年に復刻版DVDが発売されている。
オープンカー仕様 本車はクーペボディのみであったが、日本を舞台にした映画『007は二度死ぬ』(1967年)には劇用車(ボンドカー)としてオープンカー仕様車が登場している。元々、同映画の監督であるルイス・ギルバートと、本車の開発ドライバーの一人である福澤幸雄がかねてより懇意にしていたことが背景にあり[18]、当初はGMとの契約でシボレー・カマロを使用する予定だったところ、「日本を舞台にした映画なのだから日本車を使うべき」と関係者を説得して2000GTを採用させたのだという。
これは一般販売前に試作車をベースとしてオープン仕様車が撮影用と予備用の2台製作されたもので、撮影車両は後年トヨタ博物館に収蔵されたのに対して、予備車両の行方は一部の者を除いて知る機会がなかったため、その存在について長らく様々な憶測や議論[注釈 16]を呼んできた。しかし2011年11月にある自動車雑誌の取材により予備車両が日本国内に存在し、徹底的なレストア作業中であることが報告された。オープン仕様の車両はオリジナルの撮影用(及び予備)車両のほか、米国のコレクターPeter_Nelsonが製作したレプリカがある。こちらには実際の撮影に使用された本物の特殊装備が組み込まれており(保管していた映画製作会社からの提供を受けた)、イギリスのThe_Bond_Museum(閉館)を経て、現在はアメリカのMiami_Auto_Museumに展示されている。またそれ以外にも、レプリカとしてではなくオーナーの趣味でオープントップやタルガトップに改造された数台の車両が知られている。なお、ボンドカー仕様の2000GTがオープンカーとなった理由は、ボンドを演じたショーン・コネリーの長身では2000GTのクーペ仕様では狭すぎて乗れないことが判明したためである。また映画で使われた2000GTのフロントウィンドウは正面からカメラ撮影出来るように本来のガラスでは無い取り外し可能なアクリル樹脂板が使われている。
販売期間 1967年 - 1970年 デザイン 野崎喩 乗車定員 2名 ボディタイプ 2ドアクーペ エンジン MF10型 1988cc 3M型直列6気筒 DOHC最高出力 150ps/6600rpm 最大トルク 18.0kgf・m/5,000rpm
MF12L型 2253cc 2M-B型直列6気筒 SOHC最高出力 140PS/5800rpm 最大トルク 20.5kg-m/3800rpm
駆動方式 FR 変速機 2000GT専用5速MT(他に3速ATの設定あり) サスペンション 4輪ダブルウィッシュボーン(コイルスプリング) 全長 4,175mm 全幅 1,600mm 全高 1,160mm ホイールベース 2,330mm 車両重量 1,120kg シャーシ X型バックボーンフレーム 生産台数 337台
新車当時価格:238万5000円
こうやって見ると前期型のMF10が実績を残した「2000GT」で ハコスカで言うとPGC・KPGC10型に当たり MF10L(後期)はKPGC110に当たると連想した。
また2300cc構想もあったらしく GTRも2400cc構想があった事とリンクする。
1966年2000GT:新車当時価格:238万5000円 対しKPGC10:1969年新車当時価格:158万円(GT:約80万)
いかに高額な車両であったかが分かる。